第三十四話 竹千代と築山殿 その一
今回は趣を変え、前半は主人公目線。後半は竹千代目線でお送りいたします。
「茶筅丸殿、少し宜しいか。」
いつもの様に登誉住職の手習いを終え、自分たちの部屋へと戻ろうとしたところでいつもは俺の事を避けている竹千代が珍しく声をかけて来た。
「茶筅丸殿。貴殿が岡崎に参られてから早一月が経とうとしておりますが、これまで城に詰める家臣に交じり剣や槍などの稽古を重ねられていると耳にいたしておりますぞ。」
「竹千代様のお耳にまで届いているとは面映ゆい限りにございます。平八郎殿をはじめ岡崎の方々には質である某に何かとお気をかけていただき感謝しております。」
竹千代の言葉に対し俺は殊勝な物言いで応える。これまで見せていた竹千代の態度で俺に良い感情を抱いていないことは分かっていたが、人質として岡崎城に居る手前そんな事はおくびにも出さず目上の者に対する姿勢で応じる必要があった。
しかし、そんな俺の姿勢が癇に障ったのか忌々し気に表情を顰めた竹千代だったが、直ぐに表情を元に戻すと猫撫で声で話しを続けて来た。
「それは重畳。登誉住職の手習いも励んで居られ、誠に結構な事にございます。
時に茶筅丸殿。貴殿の剣の腕前はなかなかな物と城の者たちが話しているのを聞きまして、是非私にその腕前のほどをお見せいただけないかと思い、声を掛けさせていただいたのですよ。如何でしょう、明日にでも茶筅丸殿の剣の腕を見せてはいただけぬでしょうか。」
唐突に告げられた誘いの言葉に俺は一瞬眉を顰めた。今まで俺の事を避け続けてきた竹千代が、いきなり俺の剣の腕を見たいなどと言い出すとは考えもつかぬ事だった。
竹千代からの突然の申し出に、寛太と五右衛門も不穏なものを感じたのか俺は返事をすることを阻むように割って入ろうと寛太が口を開いたのだが…
「お待ちください竹千代様。茶筅…」
「貴様に聞いているのではない、口を出すな下郎!」
竹千代からの叱責に寛太は口を閉じるしかなく、五右衛門もその場に膝をつき控えるしかなかった。そんな二人の姿を見て満足そうに口元を緩めた竹千代は再び視線を俺に向けて目で返答を求めて来た。
「…分かりました。未熟の身ではございますれば、お目汚しとなるやもしれませぬが、竹千代様たってのお申し付けとあれば否はありませぬ。」
そう返答しながら頭を下げると竹千代はニヤリと笑い、
「そうか、受けてくれるか。では明日、使いの者を差し向けることとする、楽しみにしておるぞ!」
そう言うと悠々と屋敷の方へと去っていった。俺が竹千代の後姿を見送り、姿が見えなくなると寛太が不安そうな顔で声を掛けて来た。
「茶筅様…」
「言うな寛太、これも質としての務めだ。しかし…」
と呟きしばし長考に入り、
「念のため、寛太は平八郎殿にこの事を知らせよ。五右衛門は服部半蔵殿を通じ城代・酒井小五郎殿に話を通しておいてもらってくれ!」
そう二人に指示を出し、俺は一足先に部屋へ戻った。
部屋に戻ると半兵衛と利久がパチリパチリと将棋に興じていたが、一人で戻った俺を見て利久が声を上げた。
「茶筅様、寛太と五右衛門は?それに、何やらお悩みのご様子とお見受けいたしますが如何なされました。」
「寛太と五右衛門には使いに出向いてもらいました。それに悩みというほどの事ではないのですが…」
そう前置きをした上で、手習いの後に竹千代から剣の腕前を見たいからと明日本丸御殿に呼ばれた事を伝えると、利久は顔を顰めたが半兵衛はクスリと笑い、
「茶筅様。竹千代殿にそねられましたな。如何なされるおつもりですか?」
と、まるで俺を試すように訊ねて来た。そんな半兵衛に俺は心の中で溜息を吐きながら平然とした顔で、
「平八郎殿には明日は槍の稽古を休むと伝えるよう寛太に、それから小五郎殿には半蔵殿から伝えていただけるよう五右衛門にそれぞれ向かってもらった。後は竹千代様の出方次第だが、俺は“質”としての役目を果たすのみだ。」
と答えると半兵衛は一層笑みを深めて、
「さようにございますな。では私と蔵人殿は茶筅様が上首尾に“質”のお役を務められますことを信じ、此方でお待ちすることと致しましょう。」
と言い放つと、そんな半兵衛に利久は少し驚きその後に呆れたような顔で凝視したあと大きな溜息を吐くのだった。
「竹千代様の使いで参りました。某の後について来てくださいませ。」
翌日。竹千代が告げた通り、使いの者が俺の部屋を訪れた。その者はまだ元服前かしたばかりではないかと思われる若い男子で、ゆくゆくは竹千代付きの小姓となる者なのだろう。
使いの者に案内され辿り着いた先は、本丸御殿の庭だった。
そこでは既に何人かの者たちが手に木太刀を握り、一人の偉丈夫の指導のもと剣術の稽古に汗を流していた。
「竹千代様。茶筅丸殿をお連れ致しました。」
案内してきた者が声を上げると、他の者に混じって木太刀を振るっていた竹千代が手を止め俺たちの方に近づいてきた。その竹千代の動きに合わせて、周りで木太刀を振っていた者たちの動きも止まり、品定めをするように俺たちを見つめて来た。
その視線を不快に感じながらも、心の内を微塵も感じさせないようにと平静を装い、片膝をついて竹千代から声がかかるのを待った。
「茶筅丸殿、ようお出で下された。こちらに居るのが我が剣の師である卜部三衛門殿だ。」
「竹千代様に鹿島新当流の剣をご伝授しております、卜部三衛門高行と申す。お見知りおき下され。」
卜部三衛門は竹千代の傍らに寄ると木太刀を傍らに置き、片膝をついて名乗りと共に軽く頭を下げた。
「織田茶筅丸にございます。本日は竹千代様のお誘いいただきましてございます。これなるは某の供の者にございます。」
「寛太にございます。」
「五右衛門にございます。」
俺は三衛門に挨拶を返しつつ、供の寛太と五右衛門に名乗らせたのだが三衛門は寛太と五右衛門をチラリと見ただけで直ぐに視線を俺と竹千代の方へと移し、まるで二人を無視するような態度を取った。その態度に苛立ちを覚えたものの、竹千代の剣の師ともなると、人質である俺の供の事など気に掛けるつもりが無いのかと、事を荒立てる事はせず流すことにした。
「茶筅丸殿。聞くところによると織田家には香取神道流の者が剣の師としていると聞いたが、誠の事か?」
俺と三衛門が挨拶を済ませたのを見た竹千代は、織田家で剣術を伝えていた松本市之丞のことを訊ねてきた。すると、竹千代の問いに対し三衛門が、
「そうでございましたか、香取神道流の者が…我が師・塚原土佐入道卜伝様もその昔香取神道流を修め、その後に鹿島新当流を開眼なさいました。香取神道流はいわば我ら鹿島新当流の源流にございます。茶筅丸殿もさぞかし厳しい稽古を積まれた事にございましょうなぁ」
と、口を挟んできた。俺は苦笑を浮かべながら、
「確かに織田家では香取神道流から人を呼んで稽古をしており、岐阜城にて勘九郎兄上と三七兄上は日々稽古に励まれておりましたが、某は母や妹と共に尾張に残されておりましたので、直に稽古を見てもらえるのは月に二・三度しかなく甚だお恥ずかしい限りにございます。」
と答えた。その答えに、竹千代も三衛門も虚を突かれ呆けたような顔をしたものの、竹千代は俺を蔑むようなニヤついた表情を浮かべ、一方の三兵衛は睨みつける様な厳しいものへと表情を変えた。
「茶筅丸殿お戯れを。今の話は誠の事であるならば、平八郎殿をはじめ岡崎城に詰める者が茶筅丸殿に一目置くことはありますまい。三河衆は長らく今川様の下で織田様を相手に多くの戦に武勇を誇った剛の者にございます。その様な三河衆がいくら織田様からお預かりしたお方であっても、まだ元服前の貴方様に一目置く事など考えられませぬなぁ…」
そう言うと竹千代に合図を送り場所を開けさせた上で、
「実際にお手合わせしてみるが一番にございましょう。茶筅丸様、さぁこちらに参らせませ!」
そう告げてきた。三兵衛の言葉に竹千代やその取り巻きの者共はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた。
竹千代たちの反応に寛太や五右衛門は不安を感じたのか表情をこわばらせていたが、俺は三河に質に入る時からこの場は“敵地”と腹を括っていたため、特に構える事もなく三兵衛の前へと進み出て、
「お手柔らかに」
そう一言返して、市之丞と対峙した時と同じように香取神道流の基本の構えをとった。
◇岡崎城本丸御殿中庭 徳川竹千代
俺が茶筅丸を初めて見たのは、織田と徳川の同盟を結ぶにあたって取り決めた、『織田の姫を俺に嫁がせる』という約定についての話をするために尾張から岡崎を訪れた使者の一人としてだった。
使者の正使は上総介様の庶兄である織田三郎五郎信広殿だったが、父上や与七郎と話をしたのは副使として同道してきた茶筅丸だった。
茶筅丸からの話を聞いてみれば、織田上総介様の一の姫(長女)は、嫁ぐに際して条件を出したという。それは一の姫が尾張で行っている剣の稽古と鷹狩りを変わらず許してくれる相手ならば嫁ぐ事に同意するというものだった。
一の姫の噂は岡崎にも広まっていたが、それはあくまでも噂だからと与七郎などは俺に「気にしてはなりませぬ」と言っていたが、織田の使者から婚姻の条件として姫の実態を告げられて俺は思わず一の姫の事を“鬼娘”と呼び、更に嫁にするなどご免だと口走っていた。
その途端、それまで神妙な顔つきで父上たちと言葉を交わしていた茶筅丸が、それまで被っていた仮面を脱ぎ捨て“鬼”の本性を現したかのような険しい表情を見せ怒気と怒声を浴びせかけて来た。
その余りの恐ろしさに俺は震え上がり失態を晒し、更にその後の話し合いの場には恐ろしくて出て行く事が出来なかった。
俺が立ち会わぬまま話し合いは進められ、俺に嫁ぐ姫は一の姫ではなくまだ幼い二の姫に代わり、二の姫が嫁ぐまでの間あの“鬼”が質として岡崎に来ることが決まり、代わりに上総介様の上洛に父上が兵を率いて同道することとなった。
本證寺から端を発した一向一揆がようやく収まり、東三河へ勢力を伸ばそうとしていた父上にとって、上総介様の上洛に同道することは誉ではあってもあまり好ましくはない事だったかもしれないが、上洛を成功させその勢力を大幅に広げる事となる上総介様に伍して行くにはやむを得ない事だったのかもしれない。
父上は自身の上洛が決まると、東三河を任せていた酒井小五郎を岡崎に呼び、本多平八郎を小五郎に付けて岡崎を固め、酒井小五郎に代わり一向一揆の際に一揆方に回った渡辺忠右衛門守綱や蜂屋半乃丞貞次などを徳川に帰参させた大久保七郎右衛門忠世に駿河に進出しようとしている武田との折衝を託し、大須賀五郎左衛門康高、榊原小平太康政らを付けて守りを固めさせた。
俺の周りでは傅役の榊原孫十郎清政はそのままだったが、頼りにしていた石川与七郎数正は父上の上洛に付き従い岡崎を離れる事となった。
また、これまで手習いは傅役の孫十郎がしてくれていたが、父上は大樹寺の住職・登誉天室を呼び俺の手習いの師とした。
これまで自儘にさせてくれた与七郎が去り、堅物の小五郎が城代になり手習いも登誉住職から厳しく指導されるようになって、身の起こった変化に俺は堅苦しさを覚えるようになっていた。
そんなところに茶筅丸が織田からの“質”として姿を現した。
通常、質といえばお家の為の人柱であり時にはお家のために命を散らすこともある。しかも、他家に入るということで蔑みを甘んじて受けなければならず、惨めな物だと聞いていた。
ところが、岡崎城の大広間に現れた茶筅丸は質という立場にも拘らず、何時命を取られるか分からぬという怯えなど微塵も見せず、城代の酒井小五郎と対等に会話を交わして見せた。
しかも、供として連れて来た小者と当家に仕える服部半蔵との過去のわだかまりを晴らす気遣いまで見せたため、大広間に集まった家臣共から『流石は治部大輔様を討ち取り、尾張と美濃を平らげた上総介様の御子よ!』と、蔑まれるどころか敬意を払われるようになっていたのだ。
さらに、当家でも随一の剛の者と知られる本多平八郎が茶筅丸の身の回りの御世話役に当たるという質に対する待遇ではあり得ぬ好待遇で遇するとされた。
俺は何故“質”である茶筅丸にそれほどまでに気を遣わねばならぬのだと小五郎を問うたが、かの者からは『三河守様からの御云い付けにございます』と告げられそれ以上の問答を封じられてしまった。
ここまでの好待遇を受ければ年若い茶筅丸は増長し、我が物顔で振舞うかと思われたのだが、その様な事は一切なく朝餉を済ませれば家臣共が剣や槍、馬術の稽古の場としている広間の一隅にて剣の稽古をし、稽古を済ませ汗を拭った後は俺と共に登誉住職に手習いを習い一日を過ごした。
その姿に岡崎城に詰める家臣共の茶筅丸に向ける眼差しが親しい者に向ける物へと変わっていった。そんな家臣共と茶筅丸の姿に俺の苛立ちは日に日に募っていった。
そんな俺の様子を心配してか母上からは如何したのかと問われることも多くあったが、家臣共が茶筅丸を誉めそやすのが妬ましいなどとは言えず、『何でもありませぬ』と答えるしかなかった。
そんな俺の耳に、平八郎が直々に茶筅丸に槍の稽古をつけるという話が飛び込んできた。当家随一の剛の者が世話役だけでなく槍の稽古まで…質に対する待遇としては考えられぬ扱いに俺の苛立ちは頂点に達した。
俺は剣術を教えるために母上の伝手で鹿島より呼び寄せた卜部三兵衛と茶筅丸を立ち合わせ、打ち据えさせて茶筅丸が泣き叫ぶ姿を見物してやろうとした。
腰を落としどっしりとした体勢で清眼に構える三兵衛と対峙した茶筅丸は、スッと立ったままの状態で三兵衛の喉元に切っ先を向け構えた。その姿は堂にいったもので、俺の脇に控えていた小姓が思わず感嘆の声を上げる程だった。
俺は声を上げた小姓を一睨みして黙らせ、視線を立ち合いの場に戻すと既に三兵衛から茶筅丸に打ち掛っていた。
三兵衛の打ち込みは何時も俺との稽古の時に見せるものとは違い、気迫のこもった鋭い物だった。しかし、茶筅丸はそんな三兵衛の打ち込みに対して臆することなく、僅かに体を動かしながら木太刀を合わせ受け止めてみせた。
まさか初太刀を受け止められると思っていなかったのか三兵衛は驚いたように目を見張ったが直ぐに間合いを取り、再び清眼に構えを戻した。
「初太刀から的確に受け止められるとは思いませなんだ。なかなかに稽古を積まれておりますな。」
「とんでもございませぬ。鋭い打ち込みに心胆が冷え申した。されど三兵衛殿は初めから寸止めをするおつもりでござりましたゆえ何とか…」
初太刀を受け止めた茶筅丸に賛辞を贈る三兵衛に対し、三兵衛が寸止めに留めるのが分かっていたから受けられたのだと応じる茶筅丸。
まるで長年剣を交えた“剣友”の様に猛々しく笑い合う二人に俺は驚愕し、示し合わせた様に再び木太刀を交える二人の姿に苛立ち嫉んだ。
何故、初対面で一太刀剣を交えただけで、長年の友と腕試しをしているかの様に嬉々として木太刀を交わせるのか?
三兵衛は自分たちの稽古をつける時とは隔絶した鋭い打ち込みを放つのに、年は自分とそれほど変わらない茶筅丸が何の気負いも無しに応じられているのか?
目の前で繰り広げられる光景に俺は打ちのめされた。
暫しの間立ち合いを繰り広げていた三兵衛と茶筅丸は、まるで示し合わせた様に間合いを取ると、どちらからともなく木太刀を納め視線を離すことなく礼を交わすと、立ち合いが始まって張り詰めていた空気はたちどころに弛緩した。
「茶筅丸様、御見事な手並みでございました。」
「お褒め頂きありがとうございまする。三兵衛殿との立ち合いで某も実力以上の物を引き出させていただいたようにございます。」
「なんの、そう謙遜されるな。茶筅丸様が上総介様の御子というお立場でなければ、我が師・土佐入道様の元で剣の修行をされることをお勧め致すところにござる。機会がありましたなら是非我が師にお会い成されるがよい。我が師も茶筅丸様ならば鹿島の秘伝をお伝えいたしたいと申される事にござろう」
三兵衛から絶賛の言葉を向けられ、恥ずかしそうに頬を赤らめ顔を伏せる茶筅丸に、これまで俺との稽古では見せた事の無い笑顔を見せる三兵衛を見て俺の心の内から嫉妬が溢れ出して体の震えが止まらなくなり…
次に目の前に飛び込んできたのは母上の心配そうに俺を見下ろす顔だった




