第三十三話 岡崎城での日々
人質として岡崎城を訪れた俺は竹千代にその母・築山殿。それから城代の酒井小五郎忠次をはじめとした家康の留守を預かる三河衆との対面を経て、岡崎城での生活が始まった。
俺に与えられた部屋は竹千代が生活の場としている本丸御殿の中にある一室で、隣には半兵衛と利久に割り当てられた部屋があり、人質として岡崎に来た者への扱いではなかった。忠次が言った通り、俺を“客人”として遇しようとする姿勢が感じられた。
ただ、竹千代も同じ本丸御殿内で生活しているため、生駒屋敷でしていたように部屋に面した庭先で剣術の稽古をするというような事は出来なかった。
流石に、猿叫を発して横木を打ち続ける薬丸自顕流の稽古をすれば、竹千代などの目に触れ驚かせることになる。そのため、俺は本多平八郎に剣術の稽古が出来る場所は無いかと訊ねると、そういう事ならばと平八郎たち城詰めの者たちが剣や槍、馬術の稽古をする厩の近くの馬場に案内してくれた。
「ここならば多少騒ごうと差し支えございませぬ。ご存分に剣の稽古に打ち込んでくだされ。」
そう言う平八郎に俺は感謝を告げ、生駒屋敷で行っていたのと同じように横木を置くと、いつもの様に木太刀を蜻蛉に構え、気合を込めた掛け声(猿叫)と共に横木へ打ち掛った。
寛太と五右衛門も交え三人で代わる代わる横木に打ち込みを繰り返し、暫くして一息入れようと手を止めると打ち込みを始める前までは各々太刀や槍を手に声を張り上げ鍛錬をしていた三河衆の声や武具を打ち合わせる音が消えていて、何事?と周囲を見回すとそれまで振るっていただろう太刀や槍を手にしたまま何かに驚いて手を止め、俺たちの方を凝視する三河衆の姿が目に飛び込んできた。
「…あの、何かございましたか?」
周りを見回し一番近くで俺たちを凝視していた者に問い掛けると、俺が声を掛けた事で自分が俺たちを凝視した事に気が付いたのか体をビクリと振るわせ、慌てた様子でその場をつくろうおうとしたものの、ワタワタするだけで恥ずかしそうに顔を伏せると、
「な、何も…失礼いたしました」
とその場から逃げ出す様に俺から離れていってしまった。
そんな周りの様子に首を捻りつつ、一頻り剣の稽古に打ち込み、汗を流すとその後は手習いの時間となった。
家康が人質になっていた際、尾張では父の教育係でもあった沢彦宗恩から。駿河では“黒衣の宰相”と呼ばれた太原雪斎より手習いを受けていた事から、俺が尾張を離れたことで学問に触れる機会が損なわれたなどという事があっては父に対し面目が立たないと、竹千代と共に松平家の菩提寺である大樹寺の住職・登誉天室から手習いを受けられるように手配してくれていた。
ちなみに、手習いの師匠となった大樹寺の登誉住職は桶狭間の戦いの折、総崩れとなった今川勢の姿に狼狽え菩提寺である大樹寺にある先祖の墓の前で腹を切ろうとした家康を押し留めた人物で、その時に登誉住職が家康に説いた教えが“厭離穢土欣求浄土”(戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢れた国土=穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味)だった。それ以後、家康はこの“厭離穢土欣求浄土”を旗印として掲げていた。
『閑話休題』
もっとも、竹千代も登誉住職から手習いを受けるようになったのは、俺が岡崎城に直談判に及んだ以後の事のようで、それ以前は傅役に付いていた榊原孫十郎清政が務めていたようだ。
登誉住職はなかなか厳しいお方で、主従関係にある者たちが一緒に手習いを受ける時には、従者の前では主となる者を叱責する事を憚る者もいるのだが、登誉住職は共に手習いを受ける寛太や五右衛門の前でも俺に非がある時には忖度することなく叱責してくれた。
そんな登誉住職の下、竹千代と机を並べる事となったのだが、実は彼との距離がとてつもなく開いているのが悩みの種だった。
ほぼ毎日のように行われる登誉住職の手習いだったのだが、住職の手前、手習いの最中は私語など慎まなければならず、手習いの後に話し掛けようと思って俺が近づく素振りを見せた途端、竹千代は俺から逃げる様に自分の部屋へと戻ってしまって、『取り付く島もない』とは正に今の竹千代の事を指す言葉だと実感する状態になっていた。
とは言え、岡崎城での生活は人質とはいえそれ程窮屈な思いをすることも無く、竹千代とその近しい者たち以外の三河衆とは大きな隔たりを感じることも無く過ごす事が出来た。
そんな状況を作る事に尽力してくれたのが俺の目付け役である本多平八郎だった。
剣術の稽古場所でもそうだったのだが、俺が欲したことを申し出ると平八郎は即座に対応してくれた。
しかも、その後何か問題が起こらない様にと剣術の稽古や手習いの様子にそれとなく目配せをし、俺が声を掛け易い様に配慮していてくれた。
もっとも、俺も自分が人質として岡崎城にいるのだという事を弁えていたから剣術の稽古場について訊ねて以後は二月ほど特に平八郎にお願いする事もなかった。
しかし、何も求めない俺の様子から平八郎は俺が遠慮して何も言わないと思ったようで、事あることに何か困ったことは無いか?欲しい物は無いか?と声を掛けて来た。
そんな平八郎に俺は何もない、十分に気を使ってもらい申し訳ないと応えていたが、俺がそう答える度に平八郎は少し困ったような表情を浮かべ納得いかないというような顔をしていた。
そんな平八郎の表情に困り半兵衛にどう対処したらよいか訊ねると…
「そうですねぇ。では平八郎殿に槍術や騎馬術の手解きをお願いしてみては如何ですか。」
と勧められた。本多忠勝と言えば史実では六メートルもある大槍“蜻蛉斬り”を手に数多の武功を上げ家康の天下取りへの道を切り開いた武将として名を馳せている。
そんな人物から槍の手解きを受けられるというのは、俺からしてみたら望外なのだが果たして人質である俺にそんな事が許されるのか?と半信半疑ながらも申し出てみると、平八郎は二つ返事で手解きする事を了承してくれた。
「それでは、僭越ではござりますがこれより槍術を一手御指南申し上げまする。茶筅丸様、寛太殿、五右衛門殿は槍の修練をされたことがないとの事ですので先ずはこちらをお使いください。」
いつも剣の稽古の場所としている馬場で行われた平八郎による槍の指南は、先端に布を巻き付けた長さ三間(五.五メートル)もある木槍を持つことから始まった。
「こちらの木槍は、我ら徳川家の足軽が合戦時に扱う長槍と同じ長さの物でござる。先ずはこの木槍にて槍の扱い方から手解きを始めたく思いまする。」
そう言うと平八郎は俺達三人に槍の持ち方から始まり、足の運び体の使い方など事細かに槍術の基本を伝授し、その後は突き・打ち下ろし・払いの三つの動きをひたすら反復する稽古を課した。
肉食と日頃からの剣の稽古で体を鍛えているとはいえ、未だ身長が四尺(百三十センチ)ほどしかない俺たちには長さ三間の木槍は、持つことでさえ難儀するものだった。
それを、真っ直ぐに突いたり、穂先を頭上に持ち上げて振り下ろしたり、横に振り払ったりなど出来る訳もなく、木槍の重さに耐えられずフラフラヨロヨロするばかり。
そんな俺たちに平八郎は基本の動きをひたすら続ける様に促した。
半刻(三十分)もすると、木槍を持つ俺たちの手が疲労でブルブルと震え、持つことさえ困難になって来た。其処でようやく平八郎から「止め!」の声がかかり、俺たちはその声と共にその場に崩れ落ちた。
「茶筅丸様、寛太、五右衛門、三名とも初めて槍を扱って見て如何思いましたかな?」
「体が小さき身とは言え、己が情けない。」
平八郎の問いに俺がそう答えると寛太と五右衛門も俺に同意するように悔しそうな表情を浮かべながら小さく頷いた。そんな俺たちを見て平八郎は笑みを浮かべ、
「まさか、いきなり三間の長槍を持たされて槍の基本の動きを強制され『己が情けない』と応えられるとは、流石は茶筅丸様にございます。本来ならば扱う者の体に合わせた長さの木槍を用い、徐々に長さを伸ばし最終的には三間の木槍を十全に振れる様になるよう稽古を積んで行くもの。本日は目指すべきところを知っていただこうと三間の木槍を振っていただいたのです。本日抱いた思いを忘れることなく、明日以降も槍の稽古に打ち込んでくださいませ。」
そう告げると初日の稽古は終了となり、翌日からは各々の背丈に合った長さの木槍が用意され稽古が行われていった。
ただ、槍の基本の型を習った所で寛太と五右衛門はそのまま木槍を使った槍の稽古を続ける事となったのだが、平八郎の目から見て俺には槍は合わないと感じたらしく木槍から別の長柄の武具を使っては如何かと言われてしまった。
どうやら、長年稽古を続けて来た薬丸自顕流の動きが染みついているらしく、槍などで『突く』という動作がぎこちない一方で、打ち下ろした薙ぎ払いといった動きが異常にスムーズだったために平八郎は槍よりも別の俺に合った武具は?と考えてくれたようだ。
戦国時代、武士が使う武具といえば太刀と槍が最も多かったが、他には鎌倉時代では最強とされた薙刀に、金太郎で有名な鉞、絵巻に描かれる鬼が持つ金砕棒(金棒)、刃渡りが一メートル以上もある様な野太刀、野太刀から派生したと言われる長巻などがあった。
金砕棒や鉞は力自慢の武者が扱う武具だろうからと早々に除外し、薬丸自顕流は別名野太刀自顕流と呼ばれ、木太刀の扱い方から見れば野太刀が合うのではと思われるものの、やはり長大な野太刀が振れるかと問われれば些か心許ないため、無難な薙刀か柄が長く両手で振り易い長巻が良いのではという事になった。
薙刀は槍や矛または戟から日ノ本で独自に発展していった武具で、鎌倉武士には多く用いられ有名な所では武蔵坊弁慶が挙げられる。一方、長巻は野太刀から発展した武具とされ、長大な野太刀を扱い易い様に柄を長くしたことから生まれたようだ。
この長巻、実は現代の時代劇などにはあまり取り上げられていないが、戦国から安土桃山時代にかけて活躍した武具のようで、戦国最強と称された上杉謙信は軍勢の中に長巻を扱う部隊を特別に組織し、父・信長や豊臣家でも長巻隊は編成されていたようだ。
長巻は野太刀から発展してきた武具ということもあり、俺が稽古を重ねる薬丸自顕流とも相性が良いだろうと長巻を手に取り振るってみると、確かに俺には合っていたようで、しっくりと手に馴染んだ。
いや、馴染み過ぎた。平八郎から習おうとした槍よりも明らかに初めから俺が持つのは長巻だったと言わんばかりの馴染みかただった。
それからは、寛太と五右衛門が平八郎から槍の指南を受ける間、その横で俺は無我夢中で長巻を振り続けた。
そんな俺たちの姿を物陰からジッと見る者が居るのにも気付かず…。




