第二十九話 新たな火器の開発
「与左衛門殿、清兵衛殿、よく来て下された。実は折り入って二人に頼みたいことがあって此方まで出向いてもらったのです。」
玄衛門たち山の民に硝石の製造の依頼と椎茸の栽培法を伝授し、生駒屋敷への帰路の途中に小一郎に頼み与左衛門と清兵衛の二人に生駒屋敷に来るように伝言を頼むと、翌日には小一郎と共に二人は生駒屋敷を訪ねて来てくれた。
これまでは俺が二人の元を訪ねていたのに、今回に限って生駒屋敷へ呼び出したため二人の表情は強張っていた。そんな二人に俺はいつもの調子で挨拶をしたものの二人の緊張は解けず、むしろその度合いが強くなっていった。
「すみませぬ。いつもの様に頼みごとをする某がお二人の元に足を運ばねばならぬ所なのですが、今回は以前お願いした火縄とは違い今まで日ノ本に無かった火器をお二人に作って欲しいというお願いでしたので、内密に話を進めたいと思い屋敷においでいただいたのです。ですので、そう緊張せずに某の話を聞いていただければと思います。」
「「は、はい…」」
此度、生駒屋敷に二人を呼び出した理由を説明すると、二人の緊張は幾分緩んだように感じたものの、いつもの親方気質は鳴りを潜めたままだった。
しかし、そんな二人に用意しておいた絵図面を二人の前に広げると、それを見た途端二人の体からは緊張は吹き飛び俺の描いた絵図面を凝視した。
「お見せしたのは南蛮で城攻めや船同士の戦の際に用いられる『石火矢』という火器です。彼方の言葉では『フランキ砲』『カルバリン砲』などと呼ばれているようですが、種子島(火縄銃)の大型版と考えていただければそれほど的外れではないと思います。これをお二人には作ってもらいたいと思っているのです。」
「こ、これをでございますか!?」
「お待ち下せぇ、二人にとは言われても火縄の大型版だと言われやしたが、だとすりゃ清兵衛の範疇で儂の出る幕は…」
俺の言葉を受け、大仕事が舞い込んだと顔を紅潮させる清兵衛に対し、眉を顰めて、自分には関係のない話だと肩を落とす与左衛門。そんな対照的な反応を見せる二人に俺は右掌を二人の前に突き出し言葉を遮る。
「確かに、南蛮で使われている石火矢は鉄や青銅で作られておりますが、今の織田家にまだ海の物とも山の物とも分からぬ物にそれだけの鉄や青銅を用意する余裕はありませぬ。ですので、別の物を鉄や青銅の代用として使い石火矢に似せた火器を作ってその効果を確かめたいのです。その為にはお二人が力合わせねば出来ないと某は考えております。」
「確かに、間もなく織田様は先の公方様の弟君を奉じて上洛されると聞いております。その為、儂たち尾張の鍛冶衆や関の鍛冶衆も忙しくさせていただきました。それを考えますと茶筅丸様の仰せの通り、闇雲に鉄や青銅を用いることは難しいかもしれませぬ。」
俺の言葉を受け同意し頷く清兵衛。一方の与左衛門は、清兵衛だけでなく自分も関われると知って頬を赤く染め身を乗り出して来た。
「茶筅丸様、その鉄や青銅の代用とは何なんです?勿体付けてねぇで教えて下せえやぁ!」
「与左衛門殿、落ち着きなされよ!」
興奮する与左衛門に小一郎が宥めにかかるが、いつもの調子が戻って来た与左衛門は逆に小一郎に食って掛かった。
「喧しいぃ!これが落ち着いていられるかってんだ。茶筅丸様が余人を排し儂らに頼みたいって大仕事に関われるとなりゃ奮い立たなきゃ男じゃねぇやな。そうだろう清兵衛ぇ!!」
そんな与左衛門に清兵衛も気持ちは同じなのか苦笑を浮かべつつ頷いていた。
「与左衛門殿、清兵衛殿。お二人の心意気、かたじけのぉございます。それでは此方を見ていただけますか」
俺はそう言いながら用意していたもう一枚の絵図面を二人の前に広げた。
「これは鉄や青銅で作る石火矢の砲身を、丸太をくり貫きその周りに鉄の箍を嵌め、更に縄で縛りあげて補強した『木砲』にございます。もちろん、南蛮の石火矢には劣る物にございますが、先ずはこの木砲を作り特性や有用性を調べ上げて鉄や青銅で石火矢を作る礎と致したいと思っております。無茶な申し出ではありますがお願いできますでしょうか?」
そう告げる俺の言葉が耳に入っていないのか、与左衛門と清兵衛は木砲の絵図面を凝視したまま俺の問い掛けには応えず、暫し沈黙は続いた。
「…与左衛門殿、清兵衛殿!」
「小一郎、黙ってろ!」
沈黙する二人に耐えかねて呼びかけた小一郎に与左衛門は一喝し、絵図面から目を放して俺の顔を見上げると、
「茶筅丸様、この絵図面を叩き台にして後は儂と清兵衛の好きにやらせてもらうって事で良いってことだな。こりゃ面白くなりそうじゃねぇかぁ!なぁ、清兵衛。」
「あぁ、これは腕が鳴るというものだ!茶筅丸様、与左衛門共々この大仕事、儂たち二人に任せて下され。きっと茶筅丸様のお眼鏡に適う物を拵えてみせます!!」
鼻息も荒くそう意気込む二人に俺は満面の笑みを浮かべて
「如何かよろしくお願いいたします。某は父上の上洛に合わせ二年の間、三河に向かわねばなりませぬ。二年の後、三河より帰って来た時にお二人の苦心の作が如何なる物となっているか楽しみにいたしております。」
そう言って頭を下げると二人は姿勢を正して、手向けの言葉を送ってくれた。
「茶筅丸様が魂消るような物を仕上げて二年後のお帰りをお待ちしております。」
「男と男の約束だぁ!帰って来た時にゃ度肝を抜かせてやるから必ず帰ってくるんだぜ!!」
…二年後。三河から帰って来た俺を待っていたのは、史実の木砲を超越し与左衛門と清兵衛が工夫に工夫を重ねたことで、南蛮の石火矢を凌駕する木砲と木砲の製造から派生して生み出された、兵が携行出来る小型の大砲(以後、携行砲と呼称。疑似バズーカ砲)だった。
この二つの火器の登場はその後の戦を大きく変えることとなり、明確な指針さえ与えれば日ノ本の職人は驚くほどの力を発揮することの実証となった。正に技術大国・日本の萌芽となる出来事となるのだが、この時の俺はそんな事になるとは想像すら出来なかった…。
木砲は実際に戦国時代使われていたようで、江戸時代に書かれた忍びの手引書“万川集海”にも載っている様です。
携帯砲のヒントは今も豊橋などで行われている手筒花火です。
手筒花火は1613年江戸城で徳川家康が城内で花火を見物したとの記述があるようで、江戸時代初期には原形となる物があったようです。更に豊橋の吉田神社には今川義元が祭りの時に目にしたという記録が残っている様なので、不可能ではないだろうと思っています。




