第二十二話 徳川親子との対面
◇ 三河国 岡崎城城内
「突然の訪問にもかかわらずお会いいただき感謝の言葉もございませぬ。拙者は織田三郎五郎信広にございます。」
「なんの、上総介様からのご使者となれば何をおいてもお会いいたさねばならぬことにございます。しかも、それが上総介様の御兄君となればなおの事。ですが、此度の突然の来訪は如何なる事にございましょう。それも内々にてお会いしたいとの事にございましたが…」
三郎五郎伯父上と共に三河の岡崎城に向かうと父の命によって先触れが走っていたようで、城について旅の汚れを払い落とし半時(一時間)ほどの休憩の後、大広間ではなく城内の一室に通された。
部屋の一番奥には父よりも幾分若く見える三河守様(家康)。その横に如何にも負けん気の強そうな竹千代。そして、竹千代の傅役である榊原孫十郎清政に織田と徳川の同盟のために奔走した石川与七郎数正の四人が座って俺たちを待ち構えていた。
一方、俺たちは三郎五郎伯父上と俺、それから俺の暴走を止めるために半兵衛が俺の背後に控え、こちらは三人での対面となった。
三郎五郎伯父上の挨拶に対し三河守様は笑顔で返したものの、その眼は笑っておらず傍らに控える与七郎も緊張感が顔に浮かんでいた。そんな三河守様に対し伯父上は、『自分の役目はここまで』と言わんばかりに俺に視線を振って来た。そんな伯父上の様子に表情を曇らせる三河守様たち。
「お初にお目にかかります。某、織田上総介が三男、茶筅丸にございます。以後お見知りおきくださいませ。」
「私は茶筅丸様の傅役を務めております、竹中半兵衛重治にございます。」
たて続けに名乗る俺と半兵衛に、三河守様も与七郎も驚きの表情を浮かべた。
「某が三河守様へ会見を申し込みましたのは、長年に渡って織田家と徳川家の間で約したにもかかわらず果たされておらぬ事についてお話をせねばと、図々しくも推参いたしました。」
「それは…」
三郎五郎伯父上を差し置いて話を進めようとする童(俺)に困惑し、隣に座る伯父上に視線を動かす三河守様と与七郎の二人。そんな二人に伯父上は諦めの境地を現す様に乾いた笑い声と共に三河守様に軽く頭を下げた。
「果たされておらぬ約とは、そちらに居られる竹千代殿と我が妹・徳との婚姻についてでございます。」
三郎五郎伯父上が会見の主体が俺であると認めたことで、三河守様らは浮かべていた困惑の表情を消して俺に視線を向けたことを確認して、俺は話を進めた。
「御当家にとってはお苛立ちの事かと思いまするが、父・上総介もこれ以上は放置する訳にはゆかぬと竹千代殿へ徳を輿入れさせようとしたのです。ですがそこで由々しき事が出来致したのです。」
「由々しき事とは一体何が…」
それまで主君である三河守様の前で発言を控えていた与七郎が、顔色を変えて俺ににじり寄ってきた。
「与七郎控えよ!」
すかさず三河守様から与七郎を制する言葉が飛んだ。
「し、失礼を致しました。」
三河守様の声に童《俺》ににじり寄ろうとした自分の行いを恥じてか直ぐに元の位置に下がり平伏する与七郎と三河守様に俺は声を掛けた。
「三河守様。与七郎殿は織田と御当家(徳川家)との約定を定めるために奔走したお方。約を果たすに由々しき事と聞いて心穏やかでおられる筈がありませぬ。」
そう与七郎を庇うと、俺に対して向ける視線の中に好奇の感情が混じり始めた。そんな三河守様の様子に心の中で“掴みはオッケー”と拳を握ると、俺の隣に控える半兵衛から「調子に乗るな!」とでも言うように小さな咳払いが飛んできて俺は心を引き締め直した。
「茶筅丸殿のお心遣い痛み入ります。それで、由々しき事と何でございますか?」
俺に対する好奇の感情を持ったとはいえ、織田と徳川の間で結んだ約定に対する由々しき事とは何かと表情を引き締め問い質す三河守様。その顔には俺を童だからとの侮りを捨て去り、織田からの使者に対峙する戦国武将の貌となっていた。
「さればお話を致します。我が妹である徳は某と共に母の住む生駒の屋敷で育ったのでございますが、徳の物心が付く前から某が屋敷内で剣術の稽古をしておりました。そんな某に影響されたのか、徳は人形遊びをする代わりに木太刀を手にし…」
「ほ~ぉ、それは勇ましき女子にございますな。ですが、武家の妻となる者であれば多少は武芸の心得があって然るべきでござろう。当家としてはむしろ嬉しき事。」
俺の話を聞いて三河守様は笑顔でそう返したが、竹千代は露骨に表情を顰め与七郎も表情を曇らせた。
「三河守様、そう言うていただけるのは大変ありがたき事にございますが、まだ続きがございます。」
三河守様の返答に、半兵衛から話には続きがあると告げられ三河守様の表情も固まった。
「…剣術だけならばまだ良かったのですが、某が父・上総介と共に鷹狩りや巻狩りに行く際にも、徳は自分も連れて行けと駄々を捏ねまして。某は御止めしたのですが父が嬉々として連れ出しまして、徳は剣術や鷹狩りを好む女子となり、父から竹千代殿への輿入れを告げられますと、剣術と鷹狩りを共に出来るお方の元へなら嫁ぐと…」
「冗談ではない!その様な鬼娘を嫁にするなどご免じゃぁ!!」
俺が言い終わらぬうちに真っ先に反応したのは竹千代だった。竹千代はその場に立ち上がり唾を飛ばして喚いた。そんな竹千代を宥めようとしたのか与七郎が竹千代の方へと体の向きを変えるよりも早く、竹千代の言葉に反応したのは俺だった。
「あ゛ぁ。テメェ今何と言いやがったぁ!」
徳姫を『鬼娘』と喚いた竹千代に対し思わず怒気が膨れ上がり、気が付いた時には威圧していた。
俺の威圧に竹千代は震え上がって腰を抜かして崩れ落ち、股間を濡らした。そんな竹千代に傅役である榊原孫十郎が慌てて助け起こそうと傍に寄り、三河守様と与七郎は俺の変貌に度肝を抜かれたのか慄き体を硬直させた。
と、部屋へと繋がる廊下から激しい足音を響かせて掛けて来た者が、部屋を仕切る障子を蹴破るようにして飛び込んできた。
「殿!ご無事でございますか!?」
「へ、平八郎控えよ!」
飛び込んできた者は三河守様よりも若いが、猛々しい気配を撒き散らす偉丈夫で、如何にも武辺者といった風貌の武士だった。
どうやら俺が竹千代に対して放った威圧を感じ取り、三河守様が危ないと思い込んで部屋へ飛び込んできたようで、その手は既に腰に差した脇差に掛けられており、三河守様の制止の声が無ければ抜き放たれていただろう。
しかも、制止の声がかかっても俺に対して警戒を解かず、何かあれば何時でも抜刀できる姿勢を崩さず俺を睨みつけていた。
「平八郎!控えぬか、織田茶筅丸様に対し無礼であろう!!茶筅丸様、この平八郎は忠義篤き者にて茶筅丸様の気魄に某を守ろうと過剰に反応してしまっただけにございます。どうか某に免じてこの者の無作法をお許しください。」
そう言うと三河守様は深々と頭を下げられた。その姿を目にした平八郎は顔を真っ赤にして慌てて腰の脇差から手を離すと、その場に膝をつき額をこすりつける様にして
「ご無礼致しましたぁ!」
と土下座と共に謝罪の言葉を叫んだ。
目の前で平伏する主従の姿に俺はすっかり毒気を抜かれた所に背後から半兵衛が咳ばらいして、この場を収拾しろと伝えて来た。
「三河守様、平八郎殿。頭をお上げください、話を纏める使者としてきたにもかかわらず童の言葉に心を乱された某の未熟がゆえにこのような騒ぎとなったのです。許しを請わねばならぬのは某にございます。」
そう謝意を口にすると、三河守様はニコリと笑い
「では双方痛み分けという事でこの場は治め、先ほどの話の続きを致しましょう。平八郎、お主もこの場で話を聞いて行くがよい。」
そう治めてくれた。
だが、俺の威圧に竹千代が失禁してしまっていた為、このまま話を進めるという訳にもいかず、部屋を変えて竹千代も着替えさせてから話しをすることとなり、しばし間が置かれた。
竹千代が着替えのために席を外している間に、三河守様は茶の用意をさせて一服の休憩を取るように指示を出したが、その間に俺に話し掛けて来たのは先程脇差を抜こうとしていた平八郎だった。
「茶筅丸様、拙者は本多平八郎忠勝にございます。先ほどの茶筅丸様の気魄には驚き申した。拙者も桶狭間の戦で初陣を果たしてから幾度となく戦に出てまいりましたが、茶筅丸様の様な気魄を持った武者に出会ったことは数える程しかございませぬ。茶筅丸様の気魄に恐れ慄き過剰な反応を取ってしまった己の未熟を痛感致しました。ですが、茶筅丸様はまだ元服前だというのに一体どのようにしてそれほどの気魄を身につけられたのでござるか?」
と訊ねてきた。
史実では武田の武将には『家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八』と言わしめ、秀吉には『日本第一、古今独歩の勇士』と称された稀代の勇将に恐れを感じたと言われて面映ゆかった。
「恐れを感じる程の気魄などとご冗談を、某などは日々やることがない無駄飯喰らいの三男坊でございますゆえ、剣術の真似事をしているだけにございます。しかも、下総国より父が呼びよせた香取神道流の指南役には兄たち二人に比べて劣り、『教える甲斐無し』と捨て置かれる有様。お恥ずかしい限りにございます。」
そう謙遜したのだが、三河守様をはじめ徳川方のお歴々は俺の言葉を信じている様子はなかった。
本多平八郎をはじめ徳川方の者と談笑していると、竹千代と共に一旦奥へと下がった榊原孫十郎が姿を現したのだが、何故か竹千代の姿は無かった。その事に不審に思った三河守様が、
「孫十郎、竹千代は如何がした。」
と問うと孫十郎はその場に平伏し、
「申し訳ございませぬ、竹千代様は茶筅丸様を酷く怖れられ体の震えが止まらぬ様子にてとても茶筅丸様の御前にお出になられる状態ではございませぬ。時が経てば少しは落ち着かれるとは思いまするが、本日この場への推参は平にご容赦のほどを…」
と告げて来た。そんな孫十郎に対し三河守様は大きな溜息を吐かれた。
「竹千代め、普段は粗暴で威勢の良い事ばかり口にしておるくせに、本物の強者とまみえた途端この体たらくか。これは嫁取りの前にその性根を叩き直さねばならんな。茶筅丸殿、三郎五郎殿。聞かれた通りとても上総介様の姫子を嫁になどと申せませぬ。上総介様にはこの家康が頭を下げていたとお伝えください。」
そう言うと実際に俺と三郎五郎伯父上に対して頭を下げて来た、そんな三河守に慌てたのは石川与七郎で、
「お待ちください!竹千代様に織田の姫様を輿入れするは当家と織田家との長き争いに終止符を打ち、両家が手を取り合いこの乱世を進むという証にございます。竹千代様が不甲斐ないと申されて姫の輿入れを取りやめる訳には参りませぬ。」
と、唾を飛ばす勢いで三河守に翻意を迫った。だが、三河守様はゆっくりと首を横に振り、
「与七郎。今の竹千代の元に上総介様のご息女を嫁にいただいたとして仲睦まじい夫婦になると思うか?
あやつの性根を叩き直した上でなければ、とても無理な事。
もし、今の竹千代の元に織田の姫を輿入れさせて夫婦仲が芳しくないとなれば、それが当家と織田家との亀裂に繋がりかねぬ。
これから上総介様は先の大樹《将軍》の弟君を擁して上洛する。そうなれば上総介様の力はますます大きくなってゆくは必定。そうなってから竹千代と上総介様の姫子の不仲から織田家との間に亀裂が入っては我が徳川の存亡にかかわる。その様な事にならぬためにも、ここは恥を忍び輿入れを取り止めとするが…」
三河守様は、織田家の姫の輿入れ自体を取り止めにすると言いかけるのを遮り俺は口を開いた。
「お待ちください三河守様!それでは御当家内での竹千代殿のお立場がお悪くなってしまいます。元々は我が妹が輿入れの相手に剣術や鷹狩りの許しをと言い出したのがそもそもの間違い。
ここは『剣術はともかく、鷹狩りまで所望される娘子は藤原氏に連なる当家には合わぬかもしれませぬ』として、『徳の下の冬姫との縁組を所望したい』と文にしたためていただけませぬか。その上で冬姫の歳をご考慮いただき、この後二年お待ちいただくことをご承諾いただければ、某が父を説き伏せまする。如何でございましょうか?」
俺の言葉に暗い顔をしていた三河守様の顔に喜色が浮かんだ。
「茶筅丸殿、まことでござるか!?それは願ってもなき事、二年もあれば竹千代の性根を叩き直し、上総介様の娘子をもらい受けても恥を掻かぬだけの男子に仕立て上げられまする。」
と、にじり寄って俺の手を取る三河守様。そこに再び与七郎が声を上げた。
「お待ちください!確かに茶筅丸様のご提案なれば織田家との繋がりは保たれまする。しかし、その二年で織田様がお力を付けた時、その約定が果たされるという保証はありませぬ。ここは織田様のご上洛前に竹千代様と冬姫様の婚儀を整えねば…」
「いい加減にせぬか与七郎!吉法師様が儂との約定を破ることがある訳が無かろう!!もし、約定が果たされぬという事態が起きるとすれば、それは儂や徳川家の者が吉法師様との約定を破った時じゃ。」
三河守様は与七郎の再三にわたる徳川家の都合だけを考えた発言に激高、叱責の言葉を飛ばしその場が凍り付いた。だが、俺は三河守様が父の事を『吉法師様』と呼び、父が三河守様と約した事は違えぬと言い切った言葉に感動した。
織田家と徳川家の同盟は、形はどうあれ父が本能寺で死ぬまで続いたが、それは戦国乱世の中において稀有な事で、こんなにも父との繋がりを大事にしていたのかと改めて『律義者』と称された家康の心底を垣間見た気がして、自分でも考えていなかった言葉が俺の口から飛び出した。
「三河守様、与七郎殿の御懸念は戦国乱世の世においてもっともな事にございます。であれば、冬姫輿入れまでの二年の間、某が岡崎城に“質”として参りましょう。その代わりと言っては何ですが、三河守様には是非とも父の上洛に兵を率いてご助勢いただきたく…」
「「茶筅丸様!?」」
俺から質(人質)になるとの申し出に、三河守様と俺の背後に控えていた半兵衛から同時に声が上がった。
一方、与七郎は頭の中で算盤を弾き損得勘定を計算して感嘆の呻き声を上げた。
そして、三河守様と俺の話を黙して聞いていたもう一人の徳川の臣が大声を上げた。
「なんという豪胆な。本多平八郎、感服仕りました。もし、殿にお仕えしていなければ茶筅丸様の郎党の端にお加えいただきたいと馳せ参じた事にござりましょう。岡崎に居られる間はこの平八郎が茶筅丸様の御身をお守り致します!」
顔を紅潮させ興奮気味にそう宣言する平八郎に、三河守様も半兵衛も苦笑し既に“否”とは言えない空気が出来上がっていた。
「『ごほん!』三河守殿、それではその方向で茶筅丸が上総介様に説き伏せるという事で宜しいな。では一旦茶筅丸の身柄は尾張に送り、話を纏めるということで…は~ぁ。上総介様から聞いてはおりましたが聞きしに勝る“たわけ”でござった。三河守殿、そこもともご用心成されるが良い茶筅丸は上総介様でさえ手に余る“たわけ”ですからな。」
それまで空気と化していた三郎五郎伯父上が咳払いをして、その場に集う者たちの視線を自分に集め会談の纏めに入ったのだが、何故かその終わりは俺に対する諦めとも呆れともいえる言葉だった。
俺はそんな伯父上に反論の意を込めて睨みつけた。しかし、他の者たちは皆、伯父上の言葉に軽く頷いていて同意しているようで俺が憮然とした表情を浮かべるとそれを見た与七郎が吹き出したのを皮切りに、部屋中は笑い声が溢れかえるのだった。
◇岡崎城 徳川家康
「殿、聞きしに勝るとは正にこの事にございましたな。」
「何の、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』とは申しますが、お家の嫡流にある者のする事ではございますまい。“今孔明”と呼ばれた半兵衛ほどの者が付いていながら童の暴走を止められんとは、正に“たわけ”様でございましたなぁ。」
嫡男・竹千代と上総介様の息女・徳姫との輿入れについて尾張より話があると知らせがあり、ここ岡崎で会談の場を設けたが、まさか輿入れは徳姫ではなくその下の姫、冬姫に代わりその輿入れが行われるまでの二年は上総介様のご三男・茶筅丸様が質に入る事になるとは思いもかけぬ事であった。しかも、その話を主導したのは他ならぬ茶筅丸様ご自身とは。
そもそも、尾張からの使者の正使は上総介様の庶兄・織田三郎五郎信広殿であったが、副使がまだ元服も済ませておらぬ茶筅丸様とは思いもせぬ事。
会談の場で茶筅丸様を見た時は、『上総介様は我ら徳川家を侮られているのか!』と憤りを覚えたが、会談が始まってみれば我らは茶筅丸様に圧倒され続けることとなってしまった。
勿論、茶筅丸様の噂は多少なりともこの三河まで流れて来ていた。
噂では、徳姫を産んだことで産後の肥立ちが悪くなっていた生駒の方《吉乃》様の体を慮り、上総介様に唐の国の書物を引用して『坐月子の戒め』を献策し生駒の方様のお体を快癒させ、戯れに撃たせた火縄を自身が満足に使えなかったことに憤り、まだ体が成長しきっていない自分でも扱えるようにと職人に改良させたというものだったか。しかし、その様な童が居るはずがない。上総介様の酔興を周りの者が誇張したのだと我らは笑い酒の肴としておったが、先ほどまで目の前に座り、我らを圧倒して話を纏めて見せた姿を鑑みれば、噂もあながち間違っていないのではないかと思ってしまう自分が居た。
そんな茶筅丸様に対し、共に会談に参加した本多平八郎と石川与七郎の反応は真っ二つに分かれた。
当初、平八郎は会談で不測の事態が起きた場合に備えて隣の部屋に控えていたのだが、竹千代の徳姫を蔑む発言に激高された茶筅丸様の威圧に反応し会談の場へ飛び込んできてしまった。しかし、何故か瞬く間に意気投合し徳川家の者の中でもっとも茶筅丸様と言葉を交わしたのは平八郎であった。
しかも、平八郎は仮に儂に仕えておらねば茶筅丸様にお仕えしたであろうとまで口にしおった。
平八郎は先の一向一揆の際、本多家の多くの者が一揆勢に加わる中、それまで帰依しておった一向宗を捨て浄土宗に改宗までして儂の元に残った股肱の臣。その平八郎が、儂に仕えておらねばお仕えしたいとまで言わしめるとは…。
一方、石川与七郎は自らが奔走した織田との同盟の約束である徳姫の輿入れに、徳姫の願いとはいえ一方的に条件を付けてきたことに憤慨していたため、その事を口にした茶筅丸様に対し良い感情を抱いていない様だ。しかも、茶筅丸様の後ろに控えていたのが“今孔明”と言われた竹中半兵衛重治だったため、同じ智将として対抗心が沸いて来たのかもしれぬ。
もっとも、茶筅丸様が纏められた話は徳川家にとっても悪くないもの。気持ちはどうあれ頭の中では理解しているだろう。だが、この与七郎を冷静でいられなくしたという一事だけで茶筅丸様の非凡さが窺えるというものだ。
しかし、今回の会談で最も大きな収穫は竹千代の本性を見る事が出来た事であろう。
岡崎に入り西に東にと日々奔走する中、ついつい竹千代の養育は瀬名(築山殿)と榊原孫十郎に任せていたため、あのような増長者になっていようとは思いもせなんだ。あのような増長者の所に上総介様の娘子を輿入れさせていたらどの様な災いを招いたか…しかし、茶筅丸様のおかげで二年の猶予を得た。この二年で竹千代の性根を叩き直さねばならぬ。
そう決意を新たにして、はたと気付いた。茶筅丸様が岡崎に参られたら再び竹千代と対面していただき、竹千代の矯正にお力をお借りしようと。
想えば、儂も幼少の頃に織田家の人質となっていた折は、吉法師様に随分と良くしていただいた。今、儂があるのも人質時代に吉法師様との友誼を育んだからこそ。
立場は違えど、茶筅丸様と竹千代が幼き頃の吉法師様と儂の様に友誼を結んでくれれば…。
そのような事を思い、儂の顔は期待に緩むのだった。
初めは徳姫の輿入れを進める過程で、浪人となっていた本多弥八郎正信を家臣にし、“鷹匠”として付け徳川家に入れて家康や信康(竹千代)との仲を取り持って貰う予定だったのですが、何故か茶筅丸自身が期限付きの人質になり徳川家との仲を深める形にしてしまいました。
ですが、これはこれでアリかと。なにせこの後、茶筅丸は養子として出されるのですが、順番から行くと目的の家に養子に入れなくなってしまうことになりそうなので、期限付きならこの方が都合が良いのかと書き始めてから気が付きました。




