第二十三話
狼。
地球において洋の東西古今を問わず、実にヒトの生活へ広く身近に根差しながら、しかしその姿を消しつつある獣もそうはいない。
凍てつく氷の大地にも、弱肉強食の密林にも、少しずつその姿を変えながら生きてきた彼らを支えたのは、獣としての能力の高さ。
何者よりも早く大地を駆け、追いすがり、確実に獲物を狩る。
正しく、野に生きる狩人。
ヒトは、彼らのその姿にーーーー“憧憬”と“恐怖”をいだいた。
ときに神聖な天の使いとして。
ときに生を脅かす邪悪の具現として。
尋常ならざる異形のモノを産み出すまでに、憧れ、恐れた。
※
(魔獣……っ!)
暗闇のなか爛々と浮かぶ光に、ロドの全身が総毛立つ。
魔獣。
生まれついての魔物・魔族とは違い、元はただの獣だったものが異能を得て、魔に堕ちたもの。
神世の宝物を不許可に奪った報いだとか、祝福を正しく使わないことにより堕ちるだとか。色々と謂われはあるが……今はどうでもいい。
要はヒトの敵。自分たちはいま、獲物として見られている。
ロドは迎え撃つべく槍を構える。魔獣とはいえ、一匹。二人がかりならなんとか……。
「……奥にも目ェむけたほうがいいすよ。ロドさん」
涼吾の言葉に視線をむけると、ロドはビキリと固まった。
銀狼のむこうがわ、茂みが広がっているあたり。ロドには見通せない闇のなかに、いくつもの赤い光が潜んでいた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ……と。また随分と大所帯なことで」
赤の眼光は全部で十二個。つまりは六匹の獣が背後にいる。
魔獣の群。村の裏山にそんなものが住み着いていること自体、ロドは今初めて知った。
ーーーーヴォルルルルルル……。
先頭に立つ銀狼が大きく唸り声を上げる。それだけでロドは腰が引けた。
ブラムやフィリオを除く村の若者のなかでなら一、二を争える見た目相応の腕っぷしをもつロドだが、魔獣の群に真正面から立ち向かえるような力はない。
応援を呼ぶべく、腰に付けた角笛に手を伸ばす。
「ストップっすロドさん。笛吹くのは無しで」
しかし隣の涼吾の一言で止められた。
「な、なんでだ?」
「……彼ら、かなり興奮してます。いきなり大きな音がしたら、動転して全員一気に飛びかかってきますよ」
しぃ、と口許に指をあて静寂をうながす涼吾。しかし、いつまでもにらみ合いを続けていられるものではない。
「ゆっくり後退して、十メートルぐらい離れてから走って伝令にいってください。それまでは、俺がお相手しますんで」
そう言う涼吾の右手には、一片の流血が握られている。
「け、けど相手するったってお前……」
涼吾の抱えた事情については既にロドも聞いている。
一切の暴力を許されない“呪い”。
たとえ人でも獣でも、殺生をおこなえば己が死ぬ。そういう呪い。
フィリオやブラムと真っ向から相対してはいたが、結局は逃げ回っているところしか見ていない。とても戦えるとは思えなかった。まして相手が殺さなければならない存在ならば尚更だ。
わずかな血片を振りかざすのみの涼吾は、あまりに頼りなく思えた。
「そう殺伐とするこっちゃあないですよ。戦えなくても殺せなくても、やり方なんざいくらでもある」
明るさすら感じる声音で涼吾は左手に握ったものをかかげてみせる。小指ほどの太さの、荒縄が何条か。右手の流血を撫で付けるようにして、それらを赤く染め上げる。
赤斑の荒縄は、染まった端から涼吾の手を離れて宙へと延びていく。うねる蛇のような動きで涼吾とロドの周囲を廻りだす。
その一本が、勢いよく上方へ翔んだ。
ーーーーギャワンッ!
空の闇から甲高い鳴き声が響く。次いで落ちてきたものが地面にどさっと投げ出された。
がっちりと荒縄で四肢を拘束された狼だった。
(空から……!?)
狼には当然、翼はない。ならば上空から現れたこの魔狼は、そういう能力を有しているのだろう。
上方からの不意討ちを狙っていた狼は唸り声をあげて身をよじる。しかし既にほぼ抵抗不可能な状態にあった。
「空を歩けるのはコイツだけみたいっすね。あとは、向こうの方々だけのようで」
仲間が捕らわれたことでさらに興奮状態となった狼の群れが涼吾たちへとにじり寄ってくる。
もはや状況は待ったなしだ。ロドはじりじりと後ずさる。
反対に、涼吾は足を前に踏み出す。気負いなく、不安なく、道端で逢った知り合いに声をかけにいくような気安い足どりで。
(……やっぱりモノが違うな)
自身の不安も置き去りにするようなその背中に、ロドは英雄の背中を見た気がした。
※
縛られた狼が唸り声を上げている。固く結ばれた縄をほどこうとして、じたじたと暴れて地面をころがる。
「すいやせん。ちぃと静かに願います」
涼吾の言葉に応じて荒縄が蠢く。ぎゅっ、とその顎の上下を結んで閉じさせた。
昼間に手桶と柄杓を操っていたのと同様に、縄を流血で染めて操っている。これなら傷を負わせずに拘束できるだろうと踏んで念のため用意していたのだ。ほとんどぶっつけ本番だったのだが、上手くいってよかったと涼吾は安堵する。
背後でゆっくりとロドの気配がフェードアウトしていくのを感じながら、改めて目の前の狼たちと相対した。
「影から不意討ちで仕留めようなんざ、随分と“らしく”ないじゃああらせんか? 狼の旦那」
そして、“言葉”を投げかける。独り言とは違う。返事が返ってくる確信とともに。
真っ直ぐにむけられた視線の先で、銀の巨狼が喉を鳴らす。
「……なんでと訊かれると、成り行きとしか言えんのですが。ちょいと訳有りで厄介になっているだけでさぁ」
銀狼の後ろでたむろする、狼たちの圧力が増す。やはり獣は勘が鋭い。涼吾が人間ではないことに一目で気づいていた。
脈打つ鼓動。荒い息。呼気に混ざる獣臭とはまた別に、すえた臭いが鼻につく。
飛びかからんとする狼たちを赤縄を操り牽制する。
「分かってるんでしょうが、ここはヒトの縄張りです。貴方がたの来る場所じゃあない。話があるならお聴きしますが、それ以外ならお引き取り、をっ!?」
銀狼の口から蒼の閃光が飛ぶ。涼吾の頬をかすめて皮膚を軽く焼いた。
(聞く耳もたねぇか……。相当切羽詰まってるな)
舌打ちをしつつ涼吾は集中する。
……人外のモノ同士の立ち会いは、必ずと言っていいほど“暴力”から始まる。話し合うにしても、出会い頭に一発かまして、どちらが上かハッキリさせる。そういう、脳味噌筋肉な発想で動く連中は決して珍しくない。
野蛮だ野卑だと人間ならば思うかもしれないが、涼吾にしてみれば逆に単純で分かりやすく、都合がいい。そういう連中と“話をする”のに必要なことは、血潮のなかに染み着いている。
(後ろに誰も控えてない、ってのは初めてだが……。なんとかするしかねぇよなぁ)
向こうの世界で涼吾を守ってくれていたものは、ここには無い。その代わり、かつての先達たちが持っていたものが涼吾の身体に戻っていた。
少しずつ少しずつ、代価として支払ってきたものを、一度に買い戻したかのように。
(そうだ。なにもかもがなくなったわけじゃない。一番最初のところまで戻っただけ。振り出しからもう一回、積み上げてみせればいいだけだ)
ここからもう一度、はじめればいい。
いつだって何処だって、たとえ太陽が二つになろうとも、茜羽の吸血鬼がやるべきことは決まっているのだから。
銀狼と、その後ろに控えた狼たちの口腔が光る。一斉に放たれる光炎の矢を流血の盾で防いだ。
「ーーッと! そんないきり立つもんじゃありやせんぜ狼の旦那!」
声を張り上げ涼吾は進む。狼たちの目の前へ向かって。前へ前へ。
獣は“逃げるもの”を獲物として見る。自分たちを目にしてなお逃げないものは、仲間か敵かのいずれかだ。
眼前の男はこちらを真っ直ぐに見据え、ゆっくりと、一歩一歩近づいてくる。敵意をまったく感じさせずに!
獲物を狩りに来たはずだった。
殺して喰らいに来たはずだった。
ならば、何故この男は、こんなにも悠々と笑っている!?
理解できない何者かに、身構える狼たちの足元を血斑の縄が通り抜けた。蛇のように絡みついて四肢を固結びに縛り上げる。
三頭が拘束される。しかし残りのうちの一頭が隙をぬい放った炎矢が涼吾の肩を射った。
肉を刺し貫く痛み。同時に高温で炙られる熱さを感じる。いくら再生能力があろうと、肉体の内側を直接焼かれるその激痛は想像を絶するものの筈だ。
しかし、涼吾の笑みが絶えることはない。
(あぁあぁ愉しいねぇ人外と喋くるのは!)
普通の人間ならば、痛みに悶えてのたうちまわるが必定だろう。
しかし茜羽の吸血鬼がもつ、人外の思考回路はその論理を容易く飛び越える。
誰よりも鋭い知覚で誰よりも聡く相手の心情を察する茜羽の吸血鬼にとって、他人を理解することはさして難しいことではない。普段からよほど巧みに感情を覆い隠している相手でもないかぎり、茜羽に嘘偽りは通じない。
しかし同時に、それだけでは意味がないと歴代の茜羽は考えた。周囲の無理解に苦悩した彼らにとって、話すべき相手を理解することはあくまでその望みの前段階にすぎないのだから。
知ってほしいのだ。茜羽の吸血鬼は。
己がどういう存在なのか。
己が何を願っているか。
自身の紡ぐ言葉を以てして、偽らざる己を伝えたいのだ。
しかし、ここは現代地球ではない。尋常ならざる人外の輩が、いまだ現役で権勢をふるう異世界。吸血鬼はその筆頭。人間にとって、恐怖と脅威の具現そのものだ。
故に、偽らざるをえない。
人間たちが根底にもつ、“魔”への強い恐怖が理解できてしまうから。
それを知られたら、一番欲しいものをうしなってしまうから。
平穏が欲しい。安息が欲しい。楽しく愉快な日常が欲しい。
なにひとつ偽ることなく、ありのままの己自身で。
人の世に紛れて暮らせば、ひとつはそれなりに満たされる。しかしもうひとつを同時に叶えるのは、まず望みようもないことだ。
偽りに身を包まねば、生きることすらままならない。人間社会で暮らすというのはなんとも、息の詰まることである。
だから、涼吾は嬉しい。
いま目の前に、人外の輩がいることが。
吸血鬼のことを知り、なお相対する者がいることが。
怪物の言葉を聞いてくれる者がいることが。
偽りなき自分自身のままに、言葉を紡いで伝えられることが。
理不尽な英雄殿と、ギリギリで正体を隠しながらやらされる手合わせなんぞとは違うのだ。
傷は癒える。うじゅるうじゅると音を立てて。火傷の痕すら残ることなく。脳髄の奥にわずかに痛覚の余韻を響かせて。
心の臓が、跳ねる。背中が震えて、粟が立つ。
それは決して、恐怖ではなかった。
(さあこの感情を伝えよう。今宵出会えた喜びを。此度の縁に感謝と敬意を)
少し気取って物思い、涼吾はつとめて口に出す。
「だから、あんたも教えてくれよ……!」
追い詰められた狼たち。
光る眼孔。唸り声。
たかぶる害意と敵意の裏に、深く流れるその感情が、彼らの精神を追い立てている。
その澱を撃ち出すかのように放たれた炎光を、涼吾は全身で受け止めた。




