117 絶望の底
霊園に見渡す限りの墓標があるように、地下三階層には見渡す限りガラス管があった。ガラス管はひとつひとつに仄かに緑色をした液体が入っており、気泡が浮いている。
研究施設ということを考えたら、ようやくそれらしくなってきたと思った。
この階層はそれまでの監獄じみた様相とは全く異なる。進めば進むほどにそう感じた。
空気が変わったのだろう。
高月はただ黙って、ガラス管の森を歩いて行った。
しばらくすると、ガラス管の中に何かものが浮かんでいることに気づいた。振り返ると、およそ高月の気づいた周辺から先のガラス管には同じように小さな何かが浮いている。
しかしそれがなんなのかは目をこらしてもわからなかった。
再び先へ進んでいく。段々と、ガラス管の中に浮かぶものが育っているように感じた。
真横には、およそ人間の胎児に見えるものが浮かんでいる。悪趣味な研究であることは確実だった。
そして高月はそこで察した。入り口から奥に行くに従って培養を始めた時期が異なるのだ。
入り口の辺りは始めたばかりだからガラス管の中に浮かぶ生物は育っていない。そこから奥に行くにつれて中の生物は育っていく。
それは入り口付近よりも早く培養を始めているから。
その推測で行くなら、奥へ行けばこの悪趣味な研究の正体も見えてくるはずだった。
裏付けるように、段々とガラス管の中に浮かぶ生物は人の形を成していった。
赤ん坊となり、小さな子どもとなり、徐々に大きくなっていく。中に眠るのは女の子だった。
自分の身体を丸めるようにして、体育座りに似た姿勢で浮かんでいる。
髪色は茶色だった。この時点で『ミカゲ』との何らかの繋がりを感じずにいられなかった。
おそらくはクローンだ。ガラス管の中に浮かぶ少女はみんな同じ様相をしていた。何のために使われるのかは想像もできないが、あまりにも悪趣味だった。
高月はそこで思った。
「――棺桶だ」
地下施設の第三階層には『棺桶』と呼ばれる、危険なゾンビを収容する場所があるのだという噂。あれは地下施設の在り方とこの場所とがごっちゃになった情報だったのだ。
こうして大量の少女がガラス管閉じ込められる様は。おそらくはゾンビの技術を使って研究されるその様は。
まるで、棺桶に閉じ込められる屍だった。
鉄格子は棺桶ではなかった。あれはただの地下牢。そして実験体の保管場所。
真の『棺桶』とは、この場所のことだったのだ。
そして少女がおよそ小学校高学年ほどまで成長したところで、高月は違和感を感じた。
その少女たちの顔に、見覚えがあった。
『ミカゲ』と会った時に感じた御影奈央の面影とは違う。その見覚えは、もっと身近なものだ。
つまりは、――。
「……ありゃ、オメェ。ここまで来ちまったのか」
少ししゃがれた声が聞こえた。研究員のものだ。研究員はこちらへ歩いてくる。ガラス管の影から、ひょっこりと現れた。
「――は?」
聞き覚えのある声だと思った。
だがそこで聞くはずのない声だとも思った。
ありえない可能性だった。それは、普通ならばありえないことだった。
だが、想像しなかったわけではない。
ここに至るまで、その想像をしなかったわけではなかった。
「――父さん」
つまりは目の前に立った研究員とは高月快斗の父、高月雄一その人であり、ガラス管に浮かぶのは妹である高月心美の面影があるクローンだったと、そういうことだった。
息が詰まった。
ありえない現状を認識するために、数秒の時間が必要だった。
その間にも、目の前の外道は口を開いてみせる。
「オイオイ、めんどくせぇから一階層で止めろっつったのによ。あいつ何やってんだよ」
それは決して感動的な再会ではなかった。
その親子の再会は、絶望に等しかった。
「――何、やってんだ?」
「は? 声が小さくて聞こえねぇーよ、バァーカ」
「何やってんだって、聞いてんだよ!!」
やっと声が出た。
あまりに現実感がなくて出せなかった声が、ようやく出た。
「チッ、たく。デケェ声出すなよやかましい……」
「言えよ、ここで何をしてるのか……!」
「何って……ほら、俺都内で研究職就いてたろ? 大学院の頃に書いた論文もなんか評価されてたりするしよ。そういう経歴からここに来た時にこっち側に飛ばされたんだわ」
「そんなこと、聞いてないんだよ!!」
「じゃあ何だよ。何で自分の妹がここでクローン化されてんのか? ここで何をやってんのか? 本当の妹は今どこにいんのか?」
めんどくさそうに雄一は耳をほじっていた。
それはまるで、実の息子との再会を研究の手を止める障害くらいにしか思っていないようで。
高月が想像していたよりも遥かに、父親が外道であったことを知った。
「それともどうしてこんな酷いことができるんだ、とか言いてぇの?」
嘲るように、目の前の男は笑った。
理解できなかった。
どこの世界に、実の娘を研究材料にし、実の息子を邪魔程度にしか思わない父親がいるというのだ。
雄一は短く立てた髪を撫でながら笑っていた。
「ははは、オメェはやっぱり偽善者のまんまだな。こんなとこまで来やがって、ガキに何ができんだよ。バカか?」
「バカは、どっちなんだよ……」
「オメェだろ。身の程弁えろよ」
あまりにも凄惨な現実から目を逸らしたかった。
あまりにも理解から遠い現実を知りたくなかった。
だけど現実は無慈悲に絶望を突きつける。
「ああ、でも、良かったよ」
「あ?」
「とあるゾンビに、僕が今でも父さんを恐怖していることを思い出させられた」
だから不安に思っていた。こうして父を目の前にするまで、ずっと不安に思っていた。
それは、もしもの話だった。
もしも高月が自身の父親を敵として目の前にした時、それを斬ることができるのか。
恐怖で足がすくんでしまうのではないか。
眼前に広がる数多くの絶望の中で、ひとつだけ。ひとつだけ良かったことがある。
「だけど僕は、今からお前を殺すことに何の躊躇も、恐怖もない」
こいつは殺さなければならない。素直にそう認識できたこと。それだけは、この鮮烈な絶望の中において唯一輝いて見えた。
「ふぅん、オメェが俺を? 殺す? その腰に下げたオモチャでやるってことか?」
「オモチャだと思うなら、斬られるまで勝手にそう思ってろよ」
大きな口を叩いてはいるが、この男は所詮研究員だ。戦闘員ではない。つまりそれなりに場数を踏んできた高月の方が強いはずだった。
「まぁ、まぁ、二人は親子なんだからさ。もうちょっと落ち着いて話し合いなよ」
その時割り込んできたのは、壁のトップを務める少年だった。その後ろには警護のように二村が着いている。
「話し合い? こんなやつと、何を話し合えって言うんだ!?」
「あーあ、完全に頭に血が昇っちゃってる」
「仕方ねぇだろ。こんな研究、どう足掻いても正当化できねぇし」
「まぁ、それは確かにね」
研究。そうだ、怒りで忘れていた。
妹が、心美が研究対象にされていたのだ。
「心美に、何をしたんだ!!」
高月心美は都内の私立中学校に通う心優しい女の子だった。おそらくは騒動後に雄一と合流し、実験体にされたのだろう。
問われると、雄一と少年の二人はタイミングを計るように顔を見合わせた。そして先に口を開いたのは少年の方だった。
「君の妹は、『人工天使』の触媒になったんだ」
「人工、天使……?」
「『ミカゲ』だよ。あれを、人工的に作り出して量産しようって話さ」
意味がわからない。どうしてそれが、高月の妹である必要がある。
「オメェの部隊、アレのデータ取りに行ったろ。アレだ、神の残骸のデータ」
「あれは、何の情報も……」
「オメェらに本当のことを教えるわけねぇだろ。ありゃ普通に御影奈央の遺伝子情報を回収し、ここのサーバーに送らせただけだ」
そんな馬鹿な、と思った。
自分は気付かぬうちにこんな非道な実験に加担させられていたのだ。
どこまでも、どこまでも救い難い。
「んで御影奈央の遺伝子情報と心美とを掛け合わせて人工的に天使を作ろうってわけ」
「……それに、何の意味がある」
「意味? 意味か」
それを訊くと、雄一は少しだけ考える素振りを見せた。まさか意味がないはずがない。目的もないことに心血を注ぐはずがない。
「強いて言えば、僕の目的のためだね。雄一くんは何も関係ないよ。ただ協力してもらってるだけ」
「――――」
だから雄一はそこで初めて考えたのだ。
自分は何のために心美を天使にして量産化する研究をしているのかを。それはあまりにも人間性というものを、失い過ぎていた。
「あー、あれだ」
そこで雄一は長考からようやく戻った。
「人間が天使を作れたら、普通にすごくね?」
それはシンプルな理由だった。そして根底まで歪み切った、闇そのものであった。
そんな理由で実の娘を人体実験に使い、実の息子を研究の末端に加担させる親がいてたまるかと思った。
吐きそうだった。
あまりの理解の追いつかなさに現実がぐにゃりと歪む錯覚を覚え、吐きそうになった。
高月は顔を覆った。現実を直視したくなかったのだ。
これが絶望かと思った。自身の覚悟が足りなかったことを知った。
知らない方が良いこともある。普段美味しく食べている料理も、作り方が残酷なことを知れば食指が動かなくなるようなものだ。
ここに来なければ、と考えた。
ここに来なければ、高月は明日も浜野や春馬と特務に向かったり第二部隊としての任務に就きながら、部屋に帰って波風にただいまと言う当たり前を過ごしていただろう。
たまに永井や秋瀬たち学校の仲間と会い、たまに発生した騒動を鎮圧する終わった世界の日常を謳歌していただろう。
だけどここに来たから。
だけどここに来てしまったから、そんな日常は終わりを告げるのだ。
「――君の、目的っていうのは」
「ん? 僕の目的?」
高月が尋ねると、少年は自分を指さして目を丸くした。聞かれると思っていなかったのだろう。
そして、あっさりと答えた。
「御影奈央を殺すことだよ」
「そうなれば、世界が滅ぶとしても」
「うん。まぁ一応それを防ぐために、人工天使を作ってるんだけどね」
「仮に人工天使とやらの完成が間に合わなかったとしても――」
その真意を確かめるように、高月はじっと少年の瞳を見つめた。
それに応えるように、少年も微笑んだ。
「殺すよ。それで世界が滅ぶとしても」
決定的だ。
「――それが僕の、零の願いだから」
こいつらはこんな子どもの願いのために、命を弄び、世界を滅ぼそうとしている。
許容できない。何もかもが許容できない。
そうして絶望は溢れていた。
コップから溢れるように、この場所には絶望が満ち始めていた。
それに抗うように、高月快斗はひとり剣を抜いた。
「僕はお前たちを許さない」
目の前に広がるすべての悪を睨みつける眼光は、憎悪のようだった。
「心美とジェットを弄び、世界を滅ぼそうとするお前たちを許さない」
こいつらをこのまま放置していてはいけない。高月はそう判断した。
嘆息して、二村が前へ出る。これから高月が挑むのは彼になるのだろう。
生きて帰れる保証はない。勝算だってありはしない。なぜならすでに満身創痍だ。
だけどそれでも高月は戦わなければならなかった。
ヒーローになるならば。
世界を救うならば。
目の前の悪意を、斬り伏せなければならない。
「それが『濁った輝き』の行き着く先ですか」
二村の切れ長な瞳が、高月を一直線に見つめた。
「良いでしょう。貴方の想いがどこまでも偽善でしかないことに気付くまで、私は何度でも立ち塞がってあげます」
否定はしない。
だが湧き上がるこの想いが偽善でしかなかったとしても、目の前の連中が正しくないということだけは間違いないのだから。
「それなら僕がお前たちを、何度でも否定してやる!!」
そうして正しくあろうとする者は、自身の求めた闇と激突する。その先にあるのは偽善から成る希望か、それとも悪意から成る絶望か。




