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その日、マリアは久しぶりに祖父の訪いを受けていた。マリアのために特別に取り寄せた海外の薔薇を温室に運ばせ、祖父は得意顔でマリアを散策に誘った。
マリアから見て、祖父はとても正直な人だった。幼い頃からマリアに対して容赦のない人ではあったが、愛情に訴えない彼の言葉は明け透けで毒が無かった。それは商人の顔をしていない彼の珍しい本音であるが、それがマリアにとっての祖父の通常である。
お嬢様のためという免罪符で傷つくマリアを置き去りにしたジャネスと違い、言葉の悪さはともかく祖父のマリアの心情を気遣ったものだった。
それに気付けたのも、淑女教育があったからだ。そして裏返ってジャネスや使用人たちの思惑とその根底にある己に対する侮りを理解した。
淑女教育とは、内助の功で夫や家を守る家刀自を育てる教育であるとも言える。あるいは、人の気持ちを読み、言葉で巧みに行動を制御し、そうと知られずに操る技術を教えているとも言える。
マナーが人を不快にさせない気遣いが基本であるように、他人の感情や心情を察し、または先読みして好ましい結果を引き寄せることが大事なのである。
「いくらお祖父様でも、独身の殿方と腕を組むのは恥ずかしくてよ」
祖父の差し出した腕をやんわり拒否して微笑むマリアに、男爵は機嫌よく笑った。
紳士として差し出した腕を拒否することは普通なら非常に失礼なことだ。けれど、家の使用人の目があるこの場では、マリアにとって必要なことであった。かといってただ拒否しただけでは淑女として落第であり、それもまた家の使用人たちに論われる種になる。
「こんな老いぼれめには勿体無い言葉だ。なるほど、儂も独身の殿方か」
彼の妻は若くして亡くなったことになっているので、独身で間違いない。後添いの話は色々とあるが、全て断っている。
男爵が今日持参した薔薇の特徴について話し、それに相槌を打ちながらマリアは共に庭に降りた。そのまま整備された庭の小道を進み、温室に向かう。付いてくるのはカチェリナのみだ。
その薔薇を前にして祖父はただ一言、決まったぞ、と伝えた。
デビューまで半年を切ったこの時期にもたらされた知らせに、マリアはただ無言で目を伏せた。
日々大きくなる不安に押しつぶされそうだったから、油断すると泣いてしまいそうだった。
「この薔薇は、とある王家の秘蔵の品でな。取り付けるのにだいぶ苦労した。三ヶ月後には仮契約を結んで本格的に取引を開始する予定だ」
「素晴らしいですわね、さすがお祖父様ですわ」
「本当は本契約まで内緒にするつもりだったんだがな、何しろ競合相手に知られたらどんな横槍が入るかわからん。だが、可愛い孫娘のお前にだけはこっそり、な?」
「ふふ、分かっておりますわ。黙っておきます」
「お披露目の時までは、この老いぼれと二人だけ秘密だの」
待たせすぎですわよ、お祖父様!
内心で文句を言う余裕も取り戻したマリアの心は、実に晴れやかだった。
王家の血を引く婿だとすれば、もしかしたらリチャードよりもマリアの半分の血を蔑む可能性もある。
けれど、それは自分次第だ。たとえ内心で蔑んでいようと、このマリアとの婚姻を了承したのなら相手にもそれなりの理由がある。
決して侮られないよう、主導権を渡さないよう、立ち回らねばならないと決意を新たにした。
そのマリアの決意を後押しするかのように、祖父は言った。
「この薔薇は根付くまでが特に気を使う。最初が肝心なのだよ、マリア」
うまくやりなさい。
そのような言外の示唆をマリアは受け取って頷いた。
言われずとも、今度は間違わない。
リチャード達のように舐められてたまるものか。
男爵の思いはマリアに正確に伝わらなかったが、仕方ない。孫娘の淑女の擬態は祖父ですら騙していたから、仕方ない。
祖父は幸せへの祝福の鐘を鳴らしたつもりだったが、孫娘は新たなる戦いへのゴングを鳴らしていた。
そんな密やかなすれ違いの数日後、デルフィーネ伯爵は親族のうちマリアの婿にと目されている三名を擁する家へ正式な書状を出した。
その内容は、半年後のマリアのデビューの翌日に、成人祝いの茶会を開くというものだった。他家からの良い縁談があればその限りではないが、デビューまでに決まらなければ、茶会の折に正式に候補の三人の中から婿を選ぶ。
それまではしっかりと身を慎み、マリアへの訪問も控えるようにと釘を刺した。
候補になった子息達の家では、マリア本人の言葉が伯爵の決定に影響を及ぼす可能性は無いと判断し、子息たちにもマリア本人との接触を禁じた。下手にマリアに接触すれば伯爵からの評価を下げるし、候補者同士の足の引っ張り合いで不利になる。
それに伯爵が書状を出した日から彼らの中傷合戦が激化したのは言うまでもなく、マリアに構っている暇はなかった。
そうしてデビューまでの半年間、マリアの周辺は未だかつてないほどに平和になったのである。
大幅にストレスを軽減されたマリアは、少しばかり暇を持て余した。身につけるべき教養などは全て教師達に太鼓判を押されていたし、今はさらに磨きをかけるために、あるいは忘れぬために、擬似的なプチサロンを開く程度である。
教師達は父が見つけてきた金や名誉にこだわらない趣味人であり、マリアの開くプチサロンにも喜んで参加してくれたが、頻繁に開くものでもない。
このままでは緊張感がなくなりすぎると少し危機感を抱き始めた頃、少し慌ただしくなった。
デビュー三ヶ月前にして、いきなりドレスを作り直すことになったのだ。祖父が王家とも契約したことのある一流の仕立て屋と話がついたということでの一からの仕立て直しである。
近年ドレスを仕立てる際、デザインなどはプレートと呼ばれる着飾ったご婦人達の銅版画を見て決めるようになった。以前はミニチュアのドレスを仕立て、それを見本に貴族家に直接売り込む方法が一般的だったが、手間も時間も掛かるため、このプレートという文化が海を隔てた隣国エトワールから入ってからは一変した。
銅版画といっても壁に飾るような仰々しいものではなく、手元に置いて眺められるスケッチ大の大きさだ。ただし、スケッチのようにその場で描かれるようなものではなく、貴族の女性の部屋にインテリアとして飾っておくにも耐えうるような、しっかりと細部まで手彩色され表情豊かに描かれたものだ。
ドレスというのは大変高価で、流行り廃りの間隔も数年と長い。平均的な経済規模の伯爵家のご婦人が生涯に仕立てるドレスは、普段家で着るものを別にして十もあれば恵まれている方である。デビューと同時に必要となる社交用のドレスは嫁入りに必須の財産であった。
結婚式用のドレス、夜会用のドレス、昼のお茶会用のドレス、黒または灰色の喪服、以上の四種類を基本とし、デビューのために作ったデビュタント用のドレスも合わせて五着。これが嫁入り道具として用意できないと伯爵家以上の格式がある場合、非常に恥ずかしいことであった。娘ばかり三人もいればドレスで家が潰れるとも言われるほど、ドレスというのは簡単に作ることのできない財産なのである。
そのため、結婚後の貴族夫人にとって、その財産をいかに生かすかが社交界で輝くために重要であった。結婚してからは夫の甲斐性次第で、そうでなければ個人資産から作ることになるので、ドレスの新調は滅多にできる事ではない。自らの技量や美的感覚でもって、あるいは腕利きのお針子をお抱えにして、手持ちのドレスを仕立て直し、年齢を重ねるにつれて年齢相応の色にドレスを染め直し、あるいはドレスよりは手軽に流行を追える髪型などで趣向を凝らす。
華やかな社交界は、庶民が思うよりもずっと泥臭い努力が隠されているのである。
だから流行の最先端をドレスだけでなく髪型や装飾品まで網羅して絵という情報として発信するプレートは爆発的人気となり、値段も手軽なこともあって貴族女性だけでなく裕福な平民の女性までもが買い求めるようになった。
ちなみにこの辺りで流行の発信地といえば、プレートを我が国にもたらしたエトワールであった。本場からはだいたい一年ほど流行の遅れがある。本場でプレートが市場に出回り、それが輸入されるまでがそれくらいの時間が掛かるのだ。
貴族の中でもよほどの金持ちでもなければ、流行というのはこのプレートを参考にして流行要素を取り入れる程度のものだ。だからこそ、すぐにゴミになるようなものは用途に適さない。それなりの美術品としての価値をもつものである必要があった。
通常ドレスを注文する場合は、これら華やかなプレートの中からまずは気に入ったデザインのものを選ぶ。そこから細部のデザイン変更や色などを検討していくが、デビュタントの場合は選択の余地が少ない。
デビュタントのドレスというのは白が決まりで、デザインも古代の正装に準じたものというのが不文律であった。原型となった豊国祭の儀式にちなみ、女性の成人の儀式としての側面が社交よりも強いためでもある。国王陛下のご尊顔を拝する初めての機会であり、成人として一人一人の名前が読み上げられる特別な舞踏会は、華やかさよりも厳粛さが求められる。
マリアは前回と同じようにより伝統的と言われるデザインのものを選んだため、ほとんど見た目は違わないドレスになってしまうだろう。前に作ったドレスに合わせて飾り帯の刺繍を仕上げてしまったので、そうでなければ困るというのもある。違うのは生地の質で、グレードが二段階か、三段階は違う最上級と思われるシルクに変わった。一見して違いが出にくいデビュタントのドレスは、生地の質とどれだけ贅沢にその生地を使えるかで差が出る。生地見本に触れたマリアは、その滑らかで柔らかな光沢と、朝露のような涼やかさに溜息をついた。
プレート:正式にはファッションプレートと呼ばれる手彩色された銅版画で、ヨーロッパで18世紀後半に誕生した服飾の流行を伝える情報媒体。それまで服飾職人は数の限られた貴族やそれに準じた富裕層を顧客とし、蝋人形にミニチュアドレスの見本を着せたファッションドールを送って売り込むのが一般的だったが、18世紀以降貴族階級の衰退と市民階級の台頭から中流階級も顧客とするようになる。市場規模が拡大し、ブルジョワ層を中心にファッションに対する関心の高まりを受けてファッションプレートを挿入したモード誌、ファッション誌がフランスやイギリスを中心に次々と刊行されるようになった。
拙作でのエトワールはフランスをモデルにしていますが、フランス革命ならぬエトワール革命は起きていないので、貴族階級は凋落していません。産業革命についてはその兆しが見える程度の段階で、緩やかに市民階級が成熟していく途上、という感じです。
庶民にとっては継ぎ接ぎだらけでも質種になったほど服の価値が高かった時代ですから、ドレスはまさしく富の象徴でした。




