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マリアは編み物は少し苦手だ。
淑女の嗜みの一つとされるタティングレースも、得意ではない。
そこそこ及第点を取れるくらいには出来るのだが、進んでやりたいとは思わない類だ。
固定されていないのが心許ない気分になる。
刺繍は特に貴族女性に必須だからというのもあるが、布という明確な土台に刺していくのは安心感があって苦にはならない。
そういう意味では、マリアは刺繍が好きなのかも知れない。
慈善会のブローチを作り終わってから、マリアは一人の時間を編み物に充てていた。キースに贈る襟巻きを編んでいたのだ。
目を揃えるのがなかなか難しく、気に入らないとすぐに解いてしまうため、遅々として進まない。それでも太めの毛糸を使っているので、それなりに距離は稼げる。
編み物が得意なカチェリナにも手伝ってもらって、どうにかその時に間に合った。
迎えに来てくれたキースの首にふわりとその襟巻きを巻いてやると、ランプの淡い光の中でびっくりした顔で嬉しそうに何度もその手触りを確かめているのが見えた。
「これ、僕に? マリアさんが編んでくれたの?」
「はい。あまり編み物は得意ではないので、上手ではないですけれど」
「嬉しいです、ありがとう」
今回は場所が屋根裏部屋なので外に出るわけではないが、それでもしっかり着込んだ。暖炉のないそこは冷え切っているから、外に行くのと同じくらいで丁度いいとの事だった。
前の早朝デートの時と同じ、毛織物の質素な外出着とショールを羽織っている。前と違うのは、自分用に作った刺繍の薔薇ブローチでショールを留めている事くらいだ。
離れの中を一通り案内された時には知らされなかったが、二階の主寝室とは逆側の端にあるリネン室の奥に屋根裏への階段があった。
急勾配で奥行きの狭い階段は梯子に近いような印象で、マリアはキースの手を借りて慎重に登った。ランプの頼りない灯だけだったので、少し、いや大分怖かった。何しろギシギシかなり大きな音がするのだ。こんな音がする階段を、マリアは登ったことがなかった。登り切った時は、ホッとしてため息が出てしまった。
物置になっているそこを、布の掛けられた荷物の間を縫うようにしてキースに手を引かれて進む。定期的に掃除がなされているのか、埃っぽくはなかった。
たどり着いた窓は小さなもので、マリアの頭よりも高い位置にあった。どうやらガラスが入っていないようだ。
背伸びしたキースがガタガタ音をさせながら二重になった木の扉を開くと、ようやく外と繋がる。
停滞した空気に鋭さを備えた寒さが月光と共に入り込み、マリアの頬をチリチリさせた。
小さな窓の枠の中に、少し太めの半月がぽっかりと浮かんでいる。
「手が届きそうに近くに感じますわ」
「丁度いい位置ですね、窓枠が額縁みたいだ」
小さな窓だからか、相対的に月が大きく見える。
冴え冴えとしたその白が、紺青の夜空に一際美しく輝いていた。
少しの間、二人で今だけの美しい月の絵を見上げていた。
「寒くはない?」
「平気です」
やがてマリアから少しの間離れたキースは、物置にあった机を引っ張ってきて窓の下に据えた。子供の頃キースが使っていた勉強机だという。
布をかけたままだと滑って危ないからと、布を取り去った机に登った。剥き出しの机の上に土足で上がる行儀の悪さを一瞬ためらうが、食べ歩きと大差ないと覚悟を決め、キースに引っ張られて勢いよくそこに登った。
そうすると、丁度マリアの視線の高さに窓が来た。
防風林も兼ねた木立の向こうに、月明かりに照らされた本邸がぼんやりと見える。
「本邸の向こう側から朝日が昇るんですよ。もう煙が上がってるなあ」
「もう暖炉に火を入れたのかしら」
「一番早起きのブラウニーさんが台所の竈に火を入れたところじゃないかと。暖炉も順番にこれから火を入れて行くんだと思います」
二人の吐息も白く立ち昇る。
キースはそっと背後からマリアを抱きしめてくれた。
「こうやってマリアさんを抱きしめられるから、寒いのも悪くないですね」
「あら、寒くなくたって抱きしめてくれなかったら寂しいですわ」
「うん。でも、嬉しくなるから」
「何がです?」
「僕の体温がマリアさんを少しでも温めているんだって思えることが」
「……わたくしの体温も、貴方の寒さを慰めていますかしら」
「もちろん。それに今はマリアさんの編んでくれた襟巻きがあるから」
本邸の向こう、王都がある辺りがうっすらと明るくなってきた。
もうすぐ夜明けが来る。
マリアは、そっと自分を抱きしめるキースの腕に触れた。
「とうとうラフの謎が解けたのです。だから白い襟巻きにしましたのよ」
「えっ」
「エペローナの名前は“騙し騙され咲く花は”のお芝居から来ていることは、ドロテア様の助けもあってだいぶ前に突き止めましたのよ。
でも、どうしてもラフが何処から来ているのか分からなくて」
「いや、普通は分からないと思います。というか、エペローナも良く分かりましたね。上演回数も多くないし、知っている人も少ないのに」
「ふふ、キース様のご友人方も素晴らしいかもしれませんけれど、わたくしの友人も素晴らしいの。ドロテア様のところでは劇場の衣装を仕立てることも珍しくないんですのよ?」
「へえ、そういう繋がりがあるんですね」
「でも、ラフはちっとも分からなくて。こっそり書斎で古い貴族年鑑を調べてみたりもしましたのよ?」
「うっ、そうですよね、普通は人の名前だと思いますよね」
「まさか鳥の名前だとは思いませんでしたわ」
「……やっぱり、ミラン兄上?」
「年の離れた小さな弟を喜ばせようと、珍しい動物や虫がいたら丁寧にスケッチして色までつけてありましたわ」
「ああ、あれを見たんですね。懐かしいなあ。
女性を装って文通ってなったときに、つい思い出してしまったんです。
説明文も読みました?」
「ええ、もちろん」
マリアは色鮮やかに描かれた三種類の雄のエリマキシギを思い浮かべた。別名ラフと呼ばれ、雄の首の周りには豪華な襟巻きのように見える美麗な羽根を生やしている。
黒や焦げ茶の襟巻きの強い雄、純白の襟巻きの弱い雄、そして雌そっくりに擬態した襟巻きのない地味な雄。
強い雄は雌に自分の強さを示すために、弱い雄にやられ役を頼むのだという。
つまり、自分が強いというお芝居に弱い雄に付き合ってもらい、雌の心を射止める。弱い雄は、やられ役を引き受けながらも隙あらば奪い取ろうと虎視眈々と雌を狙う。そして雌そっくりに擬態した雄は、茶番を繰り広げる黒と白の襟巻き雄を尻目に、警戒心を抱かれずにちゃっかり雌に接近してさっさと口説き落としてしまうのだという。
「まるで人間みたいですわね。裏で示し合わせてお芝居するなんて」
「面白いですよね、びっくりするほど賢い」
「だからお手本にされたのね。わたくし、すっかり警戒心なんて解かれてしまったわ。貴方の術中にはまってしまいました。お陰様で、いつの間にか大事故ですし。意外と策士でいらっしゃるのね」
「えっ、いや、そこまでは意図してなかったんですが」
キースの動揺が伝わって来て、マリアは思わず噴き出してしまう。きっと、本当にほんの思いつきだったんだろうと思う。
けれど、全てはキースの掌の上だったのかもしれないと思うことは、ちっとも嫌ではなかった。無意識の意図があったとしても、マリアは今キースの腕に抱かれてとても幸せだから。
「当時は気がつかなくて良かったですけれど、でも、それを知った今は少し嬉しいんですの。貴方は最初からわたくしを口説き落とす気満々だったのね」
「あ、はい、それは……うん。その通り、です」
マリアが揶揄うような口調で言えば、照れたような、恥ずかしそうな柔らかい声がマリアの耳朶を擽る。
「でも、キース様は女性には見えないわ。とても素敵な殿方ですもの。かといって、誰かにやられ役をお願いして強さ見せつけるような方ではありませんし。
ですから、白い襟巻きの雄の方がキース様らしいかと思いましたのよ。
キース様は決して弱いとは思いませんけれど、相手の毒気を抜いて油断させるところとか、案外強かに立ち回れるところとかが」
「誉め殺しですか」
「だってキース様がおっしゃったのよ、育てて下さいって。
だからわたくしはキース様を褒めて伸ばすことにしましたの。鞭なんてとんでもないわ。わたくしの騎士様は貴方だけなんですから、自信を持って下さいませ」
だんだんと、東の空が明るくなっていく。朝焼けが徐々に王都の影を浮かび上がらせ、本邸の輪郭が輝き始める。
マリアを抱きしめるキースの腕に力がこもる。息苦しいような幸福に、マリアはそっとため息をついた。
「……マリアさん」
何かを堪えて少し震える声が、その吐息がマリアの首筋を撫でる。
「はい」
「僕は、君と結婚したいです」
マリアは一瞬息を止め、それから自分の体を抱きしめる相手の手に己のそれを重ねて強く握った。
「もし突然状況が変わって、家の事情で離れなくちゃいけなくなっても、絶対諦めません。君が、良いです。
この舐められやすい顔だって存分に利用して、強かに立ち回って、絶対にもう一度君を抱きしめる権利を勝ち取ります。
誰を泣かせても、僕は君が良い。たとえそれで君が悲しむことがあっても、それでも諦めない」
喜びと切なさがマリアの胸に同時に湧き上がる。どんなに傷付いても、この人は自分を望んでくれる。それが嬉しくて、そんな自分の浅ましさが切ない。
それでもそれを醜いとは思わない。自分の中の浅ましい欲望も、キースのそれも、愛おしいのだ。光と影、その二つが揃って初めて美しく全てが輝くと知ったから。
太陽が昇る。ゆっくりと世界に色を付けながら。
眩い幾筋もの光の帯が闇を駆け抜け、茜色の朝が幕を開ける。
「……離さないで。ずっと一緒にいて下さい」
「離しません。ずっと一緒です。それから子供が出来たら、その子たちもずっと一緒です。その子が旅立つ時が来ても、僕たちは一緒にいて帰る場所を守り続けるんです」
「子供は、男の子と女の子、出来たら両方欲しいわ」
「マリアさんに似た子が良いな。きっと可愛い」
「キース様に似た子が良いわ。その方がきっと可愛いもの」
「それじゃあ間をとって二人にほどほどに似ている子」
「でも、似ていなくてもきっと可愛いわ」
「うん、似ていなくてもきっと可愛い。何してても可愛いし、どんな表情でも可愛い。その子の母上と同じように」
思い描く幸せな未来は、きっと笑い声に満ちている。
マリアとキースはひっそりと笑い合った。
そしてしばらく無言で朝焼けを眺めた。
「綺麗ね……」
「ねえ、マリアさん」
「はい」
「もう一回、結婚式しよう。前は来てもらえなかったエットル夫人やエルベ老を呼んで。できるなら、マリアさんのお母上も呼んで」
「キース様のご友人たちも呼んで?」
「マリアさんが許してくれるなら」
「もう怒ってなんていませんわ。貴方をジョンなんて呼ばれるのは面白くはないけれど」
「禁止しときました。守られるかどうかはちょっと自信ないけど」
マリアの瞳に涙が浮かんだ。
ただ機械的に紡いだ誓いの言葉は、マリアの心に何も残っていなくて。
けれど、後悔しても仕方ないことだと諦めていた。
どうして、キースはいつもマリアが一番欲しい言葉をくれるのだろう。
世界一マリアに都合の良い、素敵な人。
どんなご褒美をあげたって、追いつかないくらいマリアを大事にしてくれる人。
「わたくし、決めましたわ」
「何をです?」
「わたくしだけの、貴方の呼び名」
「おお!」
予感がするのだ。
マリアの夢を訪れてくれていたアホロートルは、役目を終えた今、もう姿を見せないのではないかと。
寂しいけれど、マリアは前に進まなければならないから。けれど、一緒に未来に連れて行きたいのだ、その思い出を。そのきっかけをくれた、この人と一緒に。
マリアは身じろぎしてキースに向き直った。
朝の光が届いた屋根裏部屋で、キースの綺麗な金髪がキラキラと光っている。
ちょっと離れ気味の瞳はよく晴れた青空だ。優しく弧を描く唇は、やっぱりちょっと大きくて、ちょこんと丸い鼻先も可愛い。
マリアは、キースの顔の一つ一つを確かめるように指先で触れてゆく。
キースは擽ったそうにしながら、それでも大人しくされるがままに居てくれた。
「アロ。貴方はアロよ」
「えっ、それって」
驚く顔にマリアはふふっと悪戯が成功したかのように笑う。
「アホロートルから取りましたの。わたくしと貴方とを最初に繋いでくれた、世界一愛らしい生き物」
「なるほど、そういう。うん、悪くない。すごく良いです。呼んで下さい」
ほんの少し不安だったけれど、キースならきっとそんな風に気に入ってくれると思っていた。
嬉しそうに細められた円らな瞳を、マリアは確かな熱を込めて見つめた。
「アロ」
「はい」
「わたくしの、アロ」
「はい」
「わたくしも特別な呼び名が欲しいわ」
「はい、実は悩み中です。マリアさんのマリアっていう名前が、あまりにも僕にとっては特別すぎて」
「それなら、そのままでも良いわ。貴方がわたくしの名前を愛してくださるなら。でも、名前だけで呼んで下さい」
「マリア」
「はい」
「僕の、マリア」
「はい、貴方のマリアですわ」
「愛しています、僕のマリア」
まだ身の丈に合わないと言っていた、愛しているという言葉。
その震えるような覚悟を秘めた言葉に、マリアの胸は息をするのも苦しいくらいだった。
これが本当に愛なのか、まだマリアには分からない。
けれど愛へと向かう覚悟は出来ている。
マリアは思い切り背伸びして、キースの唇を奪った。
「わたくしも。愛しています、わたくしのアロ」
キースは眩い太陽を見るかのように目を細めて、笑った。
それからマリアを抱き上げて、机の上でくるくる回った。
「ああ! 僕はなんて幸せな男だろう!」
一点の曇りのない笑顔で、マリアに笑いかける。
きっと誰も見たことがない、とびきりの笑顔だ。
その笑顔を絶やさないように、この人と生きていくのだ。
新しい朝の光の中で、マリアは固く誓った。
これにて第二章完結となります。
ここまでお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。
ブックマーク、評価もとても励みになりました。
また、誤字報告して下さった方にも重ねてお礼申し上げます。
第三章については活動報告の方に予定を書きましたので、気になる方はそちらをご覧下さい。
また、もしよろしければ感想などお寄せ下さいますと嬉しいです。
それでは、また第三章でお会いできることを祈って結びと致します。
キースとマリア、二人の恋を見守って下さった皆様、本当にありがとうございました。




