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 年が明けた。

 ユミルからは万事計画通りだという短い一報を貰った。


 本格的な社交が再び始まるまで、僕とマリアさんはゆっくり二人の時間を過ごした。

 マリアさんは家庭教師をしてくれた義父上の友人たちについて、たくさん話してくれた。


 とある日の午後は、書斎で天球儀を回しながら領地経営について取り止めもなく話していた。その延長でそんな話になったんだ。

 刺繍を教えてくれたのは、驚くことに男性だった。ジョージ・テンプティールは男性ながらに刺繍に魅入られ、貴族であることを捨ててアルオス神に仕えることを選んだ人らしい。

 その界隈では有名な人らしく、ドロテア嬢に言ったら羨ましがられてしまったそうだ。

 領地経営などは主に数学者でもあるマーベル卿が担当し、地質学者のドーソン氏がたまにやってきて領内の詳しい地理などを教えてくれたという。

 ドーソン氏は平民女性と結婚して貴族籍を離れた人で、治水関係にも詳しい人らしい。

 エルベ老からは宗教史を含めた歴史、古典文学などを中心に教わったという。

 改めて聞くと、本当にすごい人達ばかりだ。


「エルベ老のことは、わたくしは老師と呼んでいましたの。

 時の概念についての話は、今でももう一度聞きたいと思いますわ」

「時の概念ですか」

「ええ。例えば、過去。ごく幼い子供にとってなら、覚えていられる範囲の短い過去しか存在しない。昨日であるとか、1週間前であるとか。

 これが少年期に歴史を齧れば、過去は興味を惹かれたところまで広がる。化石に興味を持てば、はるか人間が誕生する前まで、わたくしたちの源流たる大陸の古代史に興味を持てば数千年前まで遡れる。

 しかし、それは我が事と思う過去とはまた違う、と。

 例えば庶民の多くは大人になっても一生祖父の代くらいまでの過去しか問題にしない。あるいはごく狭い範囲の、己の村や町の歴史くらいまで。

 未来であれば、庶民が現実的に我が未来と思えるのはせいぜい孫の代まで。

 けれど、貴族はそれではいけないのだと。貴族が我が未来とすべき範囲は遥か先を見据えていなければいけないのだと。それと同じくらいに我が事とする過去も深くなければならないと」

「単純な時系列や知識ではなくて、どこまでを我が事として過去と未来をとらえるか、ということですか。なかなか難しい話です。

 我が事としてというのは、僕にも耳に痛い話だなあ。そこまで切実に真剣に考えられるかっていうと……うーん、自信がないです」

「わたくしも、頭では理解できるのですけれど。知識として頭にあることと、実際に我がものとしてそれを使えるかどうかは別物だとつくづく思いますわ。

 でも、その糸口は掴めたように思いますの。キース様が王都に連れ出して下さったから」


 言われてみれば、その通りだと思った。

 王都の人々の顔が次々と思い浮かぶ。英雄テオの物語が息衝く、愛する僕の故郷の一つ。

 その過去も未来も、切実に僕の気に掛けるものだ。この地をいずれ離れる僕には、想うことくらいしかもう出来ないかも知れないけれど。


「……エルベ老は、現在については何て?」

「それについては、ほとんどお話を聞けていないんですの。ただ、後の世に残る堅固な城は決して砂の上には建っていないものだと」

「まずは地固めってことですね」

「はい」


 色々あったけど、穏やかに微笑むマリアさんを見ていると結構順調に地固めできているような気がするよ。


 また、別のある日の午後はマリアさんを安楽椅子に座らせて、ゆっくり揺らしながら教鞭でピシピシ叩いてくる怖いマナー教師の話をした。ユーグもハーマンも同じ先生に教わったんだけど、あれでユーグは要領がいいから案外叱られなかった。ハーマンは一番年下だったから少し先生も甘かった。僕が一番叩かれた。理不尽。

 マリアさんは所作や細かい儀礼について厳しく教えてくれたマナー教師は複数いたみたいだけれど、すごく特殊な教わり方をしたらしい。

 それぞれ時期をずらしてだけど、最初の数ヶ月で集中的に教えられ、後は数ヶ月に一度くらいの割合できちんと身に付いているか確認されるだけだったらしい。一貫してずっと教えてくれていたのはエットル夫人だけで、教鞭で叩かれたことは一度も無いという。

 マリアさんはそれが普通だと思っていたらしくて、僕の話にとても驚いていた。僕の方が普通じゃ無い経験をしたんじゃないかと気の毒がってくれたけど、それはないと思う。どこの家の子でも、教師っていうのは教鞭片手に睨みを効かせる怖い存在なことが普通だ。

 でも、マリアさんの普通の方が素敵だと思う。

 僕達に子供が生まれたら、そっちの普通を採択したいな。


「エットル夫人も、何かに一途に打ち込んでいる人?」

「いいえ。少なくともわたくしは知りませんわ。亡くなったエットル夫人の旦那様が若い頃お父様の友人だったそうなので、その繋がりなのだと思います」


 僕はミラン兄上が義父上のことを情が深いと言っていたことを思い出した。

 もしかしたら、未亡人になられたエットル夫人を経済的に支援していたのかもしれない。

 もちろん、マリアさんのマナー教師にと望んだのは、エットル夫人が素晴らしい淑女であることが一番大きな理由だったと思うけれど。


「素敵な人ですね」

「はい、わたくしにとっては偉大な母のような存在なのかもしれません。お母様のことは、別にして」


 まだお母上との思い出を取り戻せないでいるマリアさんは、少し切なげに微笑んだ。


「僕だって、父上とは別に父のような人はたくさんいますよ。兄上たちもそうだし、爺やだって、デルモットだって。母は、僕にとってはあの母上一人ですけれど。ナタリーはどちらかというとお祖母様のように思っているかな。義姉上は義姉上だし」

「ふふ、だからってあれはちょっと酷くはないかしら。“僕には兄上たちがいましたけど”、だなんてお義父様が可哀想よ。ほら、あの時。お父様にキース様が一言物申した時」


 マリアさんに笑われてしまって、僕はちょっと焦った。すぐにそれがいつのことか思い出したのは、罪悪感があったからだ。確かにちょっと父上を蔑ろにしたような感じで、あの後すぐに反省した。帰りの馬車に乗り込む時、父上には謝ったんだ。何のことか分からない父上は、怪訝な顔をしていたけど。


「いや、なんていうか、父上は確かに父ですけど、父っぽくないというか。反面教師まではいかないですけれど、見習うには微妙というか」

「でも、あのように鷹揚に見守ってくださる方がいることは、とても素敵ですわ。確かに威厳のようなものは失礼ながら感じませんけれども。

 お義父様はいつも見守っていらっしゃるのでしょう?」

「うん、まあそれはそうです。本当に見守っているだけな気がしますけど」

「それでも見ていて下さる方がいるだけで、心強く思うこともあるでしょう?」


 そう言われて、確かに兄上たちにとってはそうだったかもしれないと強く思った。

 家を飛び出したミラン兄上。きっとエドワード兄上は心配の方が大きかっただろうな。それでもミラン兄上を好きにさせてくれたのは、父上の理解があったからだと思う。

 父上は家を継ぐ以上諦めた夢だと、世界中を旅してここからは見えない星を見たかったと言っていた。

 もう隠居したのだし、行かないんですかと聞いたこともある。

 そうしたら、亡き兄上たちの母上の言いつけなんだと言っていた。

 愛する息子たちを残して旅立たないとならなかったかの人の遺言は、居てくれるだけでいいから、息子たちのそばに最後まで居てやって欲しい。自分の分まで、見守って欲しいという願いだった。

 マリアさんだって、何をしてくれなくてもお母上には側にいて欲しかったはずだ。マリアさんのお母上だって、出来ることならマリアさんの側に居たかったはずだ。


「そうですね、ちょっと認識を改めます」

「わたくしはお義父様が好きですわ。わたくしの父とは全く違いますけれど、ヴェルナ家の優しい雰囲気を影から支えていらっしゃる方だと思いますもの」


 そうか。マリアさんの目には、そんな風に見えていたんだな。

 僕は嬉しくて、なんだか切なくて、安楽椅子の背もたれと一緒に背後からマリアさんを抱きしめた。


「今まで気にも留めなかった当たり前は、実はとても素晴らしくて得難いものだってマリアさんと話していると気付かされる」

「それは、わたくしだって一緒」


 短くも穏やかな冬の午後を僕らは寄り添い、折に触れて口付けを交わした。

 そろそろ初々しい婚約者同士を卒業して、結婚間近の熱々な婚約者同士に段階を進めてもいい気がするんだ。

 だから僕はマリアさんを再び早朝デートに誘った。

 今度は、僕達の住む離れの屋根裏部屋へ。


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