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「まあ、まあ! もうリチャード様をお帰しになるなんて」

 

 侍女が控えているとはいえ未婚の二人が話すのだからと、開け放たれたままにしてあった部屋だ。

 それもあって、前触れもなく不躾にも声をかけてきたのはマリアの乳母、ジャネスだった。

 すっと、マリアの体が緊張するのを感じてカチェリナは密かに顔をしかめる。

 マリアの離れるように促す手の動きに従って、今まで自分のいた場所をジャネスに明け渡した。

 カチェリナは前々からジャネスの増長ぶりに顔をしかめていた。

 マリアもそれは分かっているが、物心ついた頃からの使用人で、心情的には母親に近いジャネスにはどうしても反射的に遠慮が出てしまう。

 伯爵が幼い頃からたくさんのマナー教師を付けてくれたおかげで歪な乳母の考えに洗脳されはしなかったが、まだ庇護者を求めて止まない幼少期に育った情は存外に強固である。


「……ごめんなさい、ジャネス。緊張して具合が悪くなってしまって……」


 そうして儚げに微笑むと、ジャネスは不満げにしながらも心配そうにマリアの顔色を確かめる。それからカチェリナを見下したような一瞥をくれた。


「もうすぐ社交界デビューだというのに、殿方にそのように気後れしていてはいけませんよ。

 慎み深く、たおやかにお育ちになったお嬢様は私共の自慢ですが、デビューなされば社交の場で私供がお助けすることもできません。

 カチェリナ、あなたもお嬢様のためを思うなら、お嬢様とリチャード様が和やかに会話できるよう気を配るべきでしょう?」

「申し訳ありません」

 

 情は、確かにまだある。

 マリアは冷めた目で二人のやりとりを眺めながら、冷静に自分の中の情を見つめた。それは、今となって煩わしいだけの不要なものになっている。

 けれど、まだ、切り捨てる段階ではない。


「ジャネス、カチェリナは悪くないわ。わたくしが殿方に慣れていないだけですもの」

「……お嬢様、リチャード様は婿君候補の筆頭でございます。しっかりお心を捉えねばいけません。次回はカチェリナなどを控えさせず、二人きりで親睦を深められることです」


 忠義顔でとんでもないことを言い出すジャネスに、マリアは胃の底に石でも飲み込んだような重苦しい不快感を覚える。


(ようやく多少は吐き気がおさまってきたのに!)


 淑女の仮面の下でマリアは盛大に舌打ちをし、気を抜けば溢れ出てしまう憎悪を押さえつけた。横からカチェリナがそっと扇子を渡してくる。

 軽く目を閉じて、強固に塗り固めた仮面を被り直す。


「駄目よ。それはいくらジャネスの助言でも従えないわ」

 

 なぜとジャネスが憤慨する前に、パチリと広げた扇子を閉じることでそれを制する。

 美しく、気品溢れる凛とした“貴族らしい”佇まいで、悲しげに微笑みかける。


「ジャネス、あなたは生まれた時からわたくしを見守ってきてくれた。だから分かるでしょう、どれほどわたくしが“模範的な貴族の令嬢”であるために努力してきたか」


 貴族としての正論は、貴族の血を引いてはいても平民である乳母には有効だ。

 正当な婚姻で生まれた貴族家の跡継ぎであるマリアの血は、ジャネスになんら引け目を感じるようなものではなく、見下される謂れなど欠片もない。にもかかわらず、ジャネスはマリアの半分の血を見下し続け、模範的な貴族令嬢であることを強く求め続けた。

 そして今、マリアが理想的な貴族令嬢として成長したことを自分の手柄だと思っているのだ。


「リチャード様は、あなたが言うように素晴らしい方よ。だからこそ万が一があってはいけないの。あの方が婿君になる可能性が高いとしても、噂が立つことすら忌避しなければならないわ」


 ジャネスはわたくしを大事に思ってくれているのではない。

 半分下賤な平民の血を引く可哀想なお嬢様に、母代わりとして尽くす素晴らしい乳母の自分を愛しているだけだ。

 尽くす見返りも当然あってしかるべきと、乳母の意見にわたくしが従い、頼らなければ不満を持つ。

 だからうまく立ち回り、敵にしないように本心は隠さないといけない。

 乳母のおかげで幸せだと示し、同時に常に何かが不幸な“可哀想なお嬢様”でなければならない。


 それを心に刻んで、これっきりと密かに泣いたのは八つの時だった。

 幼い頃は、本当にジャネスを頼みに思い、乳母と家庭教師たちの意見が対立すれば、後者の方が正しいとは分かっていても前者を優先したい気持ちがあった。

 けれど、あの事件以来マリアはそういった甘えを捨てた。

 そして祖父に言われていた言葉の意味を理解した。

 

『使用人には気を許すな、味方面した奴らの中の敵を飼いならせ』

 

 その言葉は今までずっと道標としてマリアを支えてきてくれたが、マリア自身精神的にそろそろ限界だと感じていた。


「わたくしの生まれには傷がある。だからこそ醜聞になりやすいのは分かるでしょう?

 噂になるような種はごく些細なものでさえ蒔いてはいけないの。家名を貶めないためにもわたくしは噂さえも清廉潔白でなければならないわ」


 マリアが適齢期をもうすぐ迎えるために、使用人と繋がる親族たちからの攻勢が日を追うごとにひどくなっているのだ。正直、疲れ切っていた。

 まだ納得していない顔をするジャネスに、いい加減面倒になって伝家の宝刀を出すことにした。


「これはお父様にも言われていることなのよ。

 親族であってもわたくしと噂になるような可能性のある年頃の方は、取り次ぎを控えて欲しいの」


「ですがお嬢様! リチャード様を逃がすようなことになれば……」


 当主である父の名を出しても引き下がらないジャネスに、マリアはとうとう周りに分かるようにため息をついてしまった。


「カチェリナ、湯あみの準備を」

「かしこまりました」


 用事を言いつけてカチェリナを退出させると、扉が閉められたのを見計らってジャネスと向き合う。

 一体全体、どういうわけでジャネスの目にあの馬鹿が理想的な貴公子に見えているのか。

 不思議というよりは、奇妙で不可解。不思議というのは好奇心を刺激されるものだが、知りたいとは露ほども思わないし、理解したくもない。

 冷え冷えとした心とは裏腹に、こんなところで負けてたまるかと燃えるように奮い立つ気持ちがあった。今まで何のために必死で堪えてきたのかと。


「ジャネス、わたくしはあなたをこれからも側に置きたいと思っているの。けれど、お父様の意向に逆らうのであれば難しいとしか言えないわ。

 カチェリナはお父様が直々に探してこられた侍女よ。表向きはボーダル男爵の紹介となっているけれど、それはお金を出したのが男爵だから」


 実際は伯爵は雇用の契約をしただけで、表向きの方が正しい。けれどどうしても男爵が探してきたとすると、ジャネスのように侮るのだ。


「知っているとは思うけれど、カチェリナは王宮で侍女をした経験があるでしょう。それほど大きな家ではないけれど、子爵家のれっきとした嫡出子なの」


 思い出させるように、カチェリナの出自を言えば、目に見えてジャネスの顔色が悪くなった。当然ながら使用人にも階級というものがある。貴族の身分を持つカチェリナはそれだけでジャネスよりも上である。加えて地位もジャネスより上の上級侍女だ。

 七年前にカチェリナが雇われたときはマリアがまだ子供だったので、子守のような仕事をしていた。そのため、ジャネスは何を勘違いしたのか自分の下として扱ってきた。

 最初にきちんとカチェリナの出自は説明したはずなのに、都合よく記憶を改竄でもしていたのだろう。

 まあそれはそれで油断してボロを出しやすく、カチェリナの情報収集に一役買っていたので放置していたのだが。おかげで度々前もって親族の来襲に備えることが出来た。

 

「ねえ、ジャネス。あなたはわたくしの味方でいてくれるでしょう?」

「もちろんですとも!」

「ならどうか、カチェリナの前で迂闊なことをしないでちょうだい。わたくしが醜聞を引き寄せるようなことをすれば、お父様にどんなお叱りを受けるか。カチェリナはそのための監視なのよ。

 わたくしが彼らに会うたびに体調を崩すのは、そのせいなの」


 辛そうにマリアが肩を落とせば、ジャネスは慌ててその背を撫でた。


「考えが至らず、申し訳ありません。お嬢様にそのような辛い思いをさせていたなんて!」

「良いのよ、ジャネスがわたくしを思ってのことと分かっていたから、わたくしも言えなかったの」


 儚げに微笑んで涙を浮かべれば、ジャネスも感極まった様子でマリアの手を取った。


「お嬢様……!分かりました、これからはリチャード様であってもお断りいたします」

「少なくともデビューを迎えて正式に婚約するまでは、殿方と会うのは控えたいの。正式に婚約してしまえば、お父様も厳しいことはおっしゃらないわ。

 ねえ、お願いよ、ジャネス。くれぐれも、わたくしのためにカチェリナに辛く当たったりしないでね。わたくし、あなたがいなくなったらと思うと……」


 言葉尻を震わせながらジャネスの手を握り返せば、ジャネスもまた涙ぐんで打ち震えていた。

 内心、この茶番に辟易しながらもマリアは不安を押し殺しす。


 あと少しよ。

 お祖父様は、デビューまでには必ず婚約者を用意すると約束してくださった。


 父親である伯爵については、はっきり自分の味方かどうか言い切れないが、それでも意図を承知の上でカチェリナを側に置かせてくれた。興味がないという態度を貫き通して、リチャードや、その他の親族たちからのマリアへの縁談を突っぱねてくれている。

 直接言葉を交わす機会は少ないが、母親の方と違って伯爵とは最低限の交流を持っていた。親族が参加しての行事でマリアを放置することもなかった。

 だからマリアは信じていた。

 そしてそれは、裏切られることがなかった。


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