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不幸ないくつもの行き違いがマリアさんとご両親の間にあったことを朧げながら理解したのは、目を覚ましたマリアさんから語られた夢と戻らない記憶の話を聞いてからだった。
幼い頃確かにマリアさんとお母上の間には、きちんと親子としての交流があったらしい。それを指し示す記憶を思い出したのだという。
ただ、肝心のお母上との思い出が、何一つ思い出せないのだと。
確かめたいことがあると言うマリアさんに付き添って、明け方に義父上の部屋を訪れた。
義父上はブロックフィールド家のことで奔走していたらしく、随分と疲れて急に老け込んだように見えた。
「母に結婚前からの恋人がいて、今は愛人として一緒に暮らしていて、子供までいる。そのような事実はありますか?」
マリアさんの意を決っしての質問に、僕も義父上もぎょっとした。
しばらく義父上も言葉を失くして動きを止めていた。
だって、それくらい晴天の霹靂だったんだよ。
「……ある訳がないだろう」
「では、お父様に複数の愛人がいると言う話は?」
「それは、そう見せかけていただけだ。確かに愛人宅として別宅をいくつか持っているが、実質的には友人たちに提供している趣味の場だ」
「そうですのね……」
マリアさんはホッとしたような、悔悟を滲ませているような、そんな複雑な表情で僕の手をぎゅっと握った。
「何故そんな事を?」
「幼い頃、わたくしにそう吹き込んだ人がいましたの。わたくしは、ずっとそれを信じてしまっていました。義務だけで結婚したお父様とお母様にとって、後継のわたくしを得た後は義務を果たしたとして、わたくしには無関心なのだと。愛情などないのだと」
「……確かに私に関してはそう誤解されるように行動していた。だが、それはお前も分かっているのだと勝手に思っていた」
一つ疲れたように嘆息した義父上は、何かを堪えるように天井を仰いだ。
「幼かったお前に、そこまで理解できるわけがなかったのだな」
僕たち二人は、義父上が話してくれるのを手を握り合って静かに待った。
「マリア、確かに私とローズの結びつきは家の存続のために必要だったという金がらみのものだった。当時の私は様々な事情から人間不信になりつつあったから、ローズに対しても当初は冷ややかな感情しか持っていなかった。
それは認める。
だが、おざなりな挨拶程度の交流しか持たないまま結婚の日を迎えた時、ローズは生贄に捧げられる哀れな娘のように震えていた。それでも気丈に振る舞って、あからさまに飛び交う当て擦りや嫌味に笑顔で応えていた」
奇しくもマリアさんと僕のような状況を聞かされて複雑な気分になる。マリアさんもそうだったらしくて、握った手が一瞬強く僕の手を握り返した。
「すぐに打ち解けるには、私たちの間には隔たりが大き過ぎた。ろくに貴族社会の事を学ぶ機会もないまま私の妻になったローズは苦労したが、私もまた年若くして傾いた家を継いでローズを思いやり歩み寄る余裕などなかった。
それでもマリア、お前を授かる頃には愛には程遠くとも情と呼べるようなものがあったと私は信じている。
だから逆だ、マリア。私達はお前を得たことで距離を縮めた。
お前には、弟か妹が生まれるはずだった」
少し驚いたけど、マリアさんも驚いたみたいで体が強張ったのが分かった。
僕はそっと片手を外して、マリアさんの小さな肩を抱き寄せる。
「そういう質問をしたからには、お前には幼い頃の記憶がないのだな?」
「はい。ですから、わたくしはお母様とは話したこともないと思い込んでいました」
「そうか。お前とローズが仲睦まじくしているのは私の中でもあまりにも当たり前のこと過ぎて気付かなかった」
義父上は静かに瞑目してしばらく動かなかった。僕はマリアさんが落ち着けるように抱いた肩をゆっくり撫でるしか出来なかった。
再び目を開けた義父上は悲しみに沈んでいる様子だった。
産まれて来られなかった子がいるんだとしたら、当然だろう。
「マリア、幼かったお前に詳しく説明することはしなかったが、その場にいたのも確かだから、大人になった今は当時の事を理解していると私は思っていた。
だが、そうでないのなら、今から話すことはお前にとって耐え難い苦痛を齎すだろう。それでも聞きたいか?」
「はい」
僕は微かに震えるマリアさんの手をぎゅっと握る。
「全てを話すことは、できない。未だに解決していない部分もある。それでも構わないか?」
「はい」
マリアさんも必死で握り返してくれている。
こんなことしか出来ないけれど、それでも今マリアさんの隣に居て手を握ることができて良かったと思った。
「お前は、五歳だった。その頃ローズは二人目を授かっていて、それが男であれば後継になる。親族達の不穏な動きはその頃から急に活発化したのもあり、対応が遅れたのは否定できない。デルフィーネ家はまだ立て直しの途上で、私も家を空けることが多かった。
そんな中、ローズに毒が盛られた。妊娠中で味覚が鋭くなっていたローズはすぐに気付いたそうだ。だから目の前で毒入りの菓子を食べようとしたお前の手を思い切り叩いた。勢い余って、お前を殴り飛ばしているように見えたと、その場にいた使用人には聞いている。
もしかして食べてしまっているかもしれない、その思いからお前に食べたものを吐かせようと必死でお前の口に指を突っ込んだり、背を叩いたりしていたローズは、まるでお前を殺そうとしているかのように見えたそうだ。
何が起こったのか理解できなかった周囲は、ローズの気が触れたと思いお前から引き離した。お前は状況も分からず泣いていただけだったが、周囲はお前を優先した。こればかりは仕方がなかったと思う。
だが、閉じ込められたローズは半狂乱でお前の名前を呼び続けた。気が触れていると思われていたので、誰もローズの話を聞かなかった。
ようやくローズの方の対処に動いて医師が呼ばれた時には、既に手遅れになっていた。ローズが摂取した毒は僅かだったから、対処が早ければ助かったかもしれないなどと言われたが、そんなものは何の希望にも慰めにもならなかった。むしろやり場の無い憤りが増しただけだ。
知らせを受けて帰って来た私が見たものは別人のようにやつれ、心を壊してしまった妻だった」
薄々、そういうこともあるかもとは予想はしていた。流産の後でめっきり社交界に出なくなったのなら、そういう可能性を悲しいけど貴族なら想像できてしまう。病弱だという理由には、そんな過去があったんだな。
僕はマリアさんの心情を思って、そっと表情を窺った。
マリアさんは硬い表情で、微動だにせずに義父上の話に聞き入っていた。
「お前を見る度にその時の事を思い出してしまい、毒を吐かせようと飛びかかるローズをお前の側には置いておけなかった。ローズの為にも、心が休まらないデルフィーネ家に置いておくことは出来なかった。
だから田舎の景色の良い場所に小さな屋敷を用意したのだ。時折訪れる男が愛人だというのなら、それは私のことだろう。子供も確かにいるが、それは訳あって預かっている他人の子だ。
泣いて母を求めるお前に、私は言った。
お前が立派な跡取りになって、誰からも認められるようになれば、会えるようになると。
それは大変なことだ。今までのように甘えたり我儘を言って勉強を嫌がっていてはなれない。それでも頑張れるかと聞いたら、お前は頑張ると言った。
ならば、最高の教師を揃えてやろうと約束したのだ。彼らに認められるほど頑張れたなら、母に会えると。
それは私の願いでもあった。その頃にはローズも良くなっているだろうと。
それに私は絶対にお前に家督を継がせたかった。ローズにはもう子供は望めなかったが、離縁して新たな妻をなどとは考えられなかった」
僕はなんだか涙が出た。そうか、マリアさんが脇目も振らずに努力して来たのは、そういう理由があったのか。
不思議だったんだ、ずっと。
領民と触れ合ったこともないマリアさんが、どうしてそれほど見たこともない領民と領地のために努力できるのか、ひたむきに良き跡取りを目指して来たのか。
僕が守るべき故郷や人々を想えるのは、実際にそれを見て、触れ合って、知って、だからこそ生まれたものだったから。
「お前がとても頑張っているのは知っていたよ、マリア。それは全て、ローズに会うためだと私は思っていた。幼いお前が頑張っていると思うと、私も励まされたよ。それで通じ合っているつもりでいた。
私には両親に抱きしめられた記憶がない。彼らは良くも悪くも典型的な貴族だったから、私もそれしか知らなかった。
今思えば、ローズのようにお前を抱きしめてやれば良かったと思う。
お前が大人になった今は、当時の状況から何があったか察していると勝手に思い込んでいた。だから、ローズの現状を慮って何も言わないのだとも」
本当だよ、なんで小さいマリアさんを一人にしたんだよ、義父上。
抱きしめるくらい、なんで思いつかなかったんだよ。
僕は悲しくて、苦しくて、マリアさんを思わず抱きしめた。
マリアさんは泣いている僕に驚いて、それから困った顔で少し笑った。
それから優しく僕の背を撫でてくれた
ごめん、泣きたいのはマリアさんの方なのに。
マリアさんに慰められてるなんて、あべこべだろう。
取り乱す僕とは逆に、マリアさんは落ち着いた様子で義父上に問いかけた。
「お母様は、今はどんな様子なの?」
「普段は落ち着いている。調子の良い時なら、ほとんど正気だ。お前が無事だったことも、立派に成長してもう命の危険はないのだということも理解している」
「何度か受け取った誕生祝いのカードは、あれはお母様が書いてくださったもの?」
「そうだ。今でもお前のことを考えると、どうしても手が震えて字が書けないのだよ。だから書けるほど調子が良いことは滅多になかった」
「最低限の社交だけは出来ていたのは?」
「あれはローズの替え玉だ。似た背格好の女性を雇って、極力喋らせないようにしている」
「結婚式に来てくださったのも、その替え玉の方?」
「いや、あの時ばかりはローズ本人だった。無理を押してでもお前の花嫁姿が見たいと。だが、その無理が祟って今はあまり調子が良くない」
僕は披露宴での妙な印象を思い出した。居て当たり前の人が居なくて当たり前というあの空気を。
そうか、そういう訳だったんだ。
そんな事件があったんだ、マリアさんのお母上にとっては人殺しがどこに潜んでいるか分からないような場所だ。恐ろしくないわけがない。
事情を薄々察している親族や使用人だっておいそれと触れられない部分だろう。
だからあの空気だったんだ。
「他に聞きたいことはあるか?」
「今はもう十分ですわ」
「そうか」
僕はマリアさんに促されて一緒に立ち上がる。
僕が口出しすることじゃないけど、でも言わずにはいられなかった。
「義父上、今からだってマリアさんを抱きしめることは出来るんです。ちゃんと父親をやってください。僕には兄上たちがいましたけれど、マリアさんには義父上しかいないんです」
義父上もマリアさんも驚いて戸惑った顔をしたけど、僕は構わずマリアさんを義父の方へと押し出した。
義父上はおずおずとだけれどマリアさんに歩み寄って、その背中に両腕を回した。
「……すまなかった、マリア。お前を一人きりで頑張らせてしまったのだな」
「いいえ……お父様が用意してくださった教師の皆さまは、本当に素晴らしい人たちでしたわ。わたくしが今ここに立っていられるのは、そのお陰です。
わたくしは、ちゃんとお父様に愛されていましたのね」
涙声のマリアさんをぎゅっと抱きしめる義父上は、泣いていたかもしれない。
そんな二人を見て、僕はまた泣いてしまった。




