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マリアは深い霧の中を一人で歩いていた。
行けども行けども深い霧は晴れることなく、何も見えず、何も聞こえない。
辺りは仄暗く、霧が微かに白く発光するように見える。
不安を覚えそうなものなのに、夢の中のマリアは迷うことなく進んでいく。
まるで深い霧の向こうに辿り着くべき場所があることを知っているかのように、立ち止まることなく突き進んでいた。
やがて立ち込める霧の向こう側に巨大な黒い影が見えてきた。山というよりは、高く聳える塔のような影だ。そしてその麓にぼんやりと灯りが見えた。
その灯りを目指し、マリアは真っ直ぐに進む。
その姿をマリアの意識は見守っていた。まるでマリアが体と心に分裂してしまったように、今マリアが自分だと意識している自我には実体がなかった。
それを露ほども不思議に思うことはない。何故なら、これは夢だと当たり前のように気付いていたからだ。
そしてついにその灯りの元にたどり着いた。
「やれやれ、ようやく来よったか。待ちくたびれて千年の眠りにつくところじゃったわい」
ランプを手に現れたのは、マリアの師であるエルベ老だった。長く伸ばした真白の髭を撫でながら、マリアを見つめる深い皺に埋もれた目は優しい。
そこでするりとマリアの意識はマリアの体に吸い込まれた。
一瞬閉じていた目を開けば、エルベ老の背後には巨大な書庫がそびえている。
頂上は霧に霞んで見えず、膨大な量の書物がぎっしりと詰まっていた。
そう、此処は物語“霧の向こう”の世界。
マリアが夢に見ているのは、失われた記憶を探すことができる時の記録庫。
「申し訳ありません、老師様。けれど此処の存在すら忘れていたのですから、たどり着きようもありませんでしたの」
「いかにもいかにも。よく迷い、よく悩み、よく忘れるのが人間というもの」
「ところで老師様。亀の甲羅はどちらに?」
「はて、どこにやったか。儂が篭るのはこの書庫ゆえ、甲羅は必要ないからの」
長生きの生き物の代表のように思われている亀は、叡智の神ソフィケスの使いとして神話には描かれていて、人の姿を取るときは年老いた賢者として現れるという。物語の中では管理人はそのまま亀の姿で現れるのだが。
亀の甲羅を背負っていないのは少々残念だが、エルベ老には似合いの配役だ
「ようこそ、我が不肖の弟子よ。此処が時の記録庫じゃ」
エルベ老が現れてから霧がすっと消えてなくなった。辺りは仄暗いが、それでも不思議とはっきり近くのものはよく見える。
マリアの倍くらいの高さまでなら、普通なら見えないだろう小さな文字の刻まれた背表紙でも難なく読める。
それらの多くはすぐに心当たりのある出来事が思い当たる。手の届く高さにあるものだと、例えば最近読んだ“夕暮れの薔薇”もあったし、“遠い日の約束”もあった。“騙し騙され咲く花は”のタイトルを見つけたときは思わず手を伸ばしてしまった。本を開いて最初の頁を読んでみると、そこにはエペローナが架空の人物だと知って落胆し、悲しむマリアの心情が綴られていた。
中程を開いてみると、初夜の翌日の夜のことが書いてあった。騙すつもりなどなかったキースと、気づいていないふりで意地悪をして騙したマリアと、そしてそこに咲いた友情の小さな花と。
マリアはそっと本を閉じて元に戻した。
なるほど、確かに此処は時の記録庫、記憶の仕舞い込まれた場所なのだ。
きっと見たことのある題名の本も、中身は違うのだろう。
「さて、この中からお主が必要とする過去を探し出さねばならんが、その前に一杯付き合いなさい」
忽然とそこに現れたテーブルと椅子は、いつもアホロートルがおままごとをしているあの一揃いだった。
そして当然のように湯気の立つ紅茶が用意されていた。
これはやはり夢だと思ったのは、湯気を立てる紅茶に熱も香りも味もなかったからだ。
それでも不思議とお茶を楽しめるのは、夢が夢たる所以なのだろう。
マリアの師は、その容貌には不似合いな可愛らしいパンジーの柄のティーカップを重々しい仕草で口元に運んでいる。
「過去の記憶が全て収まっている場所をどう表現するかは、自由なものじゃ。頭の中にしかないものじゃからの。
このように巨大な書庫を思い浮かべるものがいれば、広大な砂漠のようだと思うものもおる。
広大な砂漠でたった一粒の真実の砂を探す困難さを想像してみるがよい。
人間は偽装工作が殊の外得意な生き物じゃ。
此処にある全ての本はお主の記憶じゃが、不都合な真実は往往にして隠され、改竄される。知恵をつければ、知恵をつけた分だけ巧妙に隠されてしまうものじゃ」
確かに先ほどの本を見る限り、本の内容はマリアの心情一つで容易く書き換わっていくように思えた。それでも、全てがそうではないからこそマリアはきっと此処にいる。
「けれど、老師様。真に価値あるもの、失われるべきではないものは、必ず人の良心に守られてひっそりと生き延びるものだと貴方はおっしゃいましたわ。だからこそ、我が国があるのだと。
変質してしまう前の神々の姿が我が国に残っているのは、失われてはならないと命をかけて海を渡り、信仰と共に生き延びた祖先があったからだと」
「いかにもいかにも」
満足げに髭を無ながら、エルベ老は頷く。
「それならば、わたくしに真に必要な記憶は必ずそのままの姿で何処かに残っているはずです。“霧の向こう”の主人公が時の記録庫で大事な思い出を取り戻したように」
「そうじゃな。しかし注意せねばならん。それはらは隠されるべくして隠された。その理由が優しいものであるはずもない」
「はい、分かっています」
キースの幼い頃の話を思い出す。キースは衝撃のあまり、記憶を消してしまった。そしてそれはきっと戻る必要のない記憶なのだ。だからキースは立ち止まらずに前に進み続けている。
けれどマリアは違った。きっと幼い頃に封じてしまった記憶を取り戻さなければ前に進めない。
あの妖精の裁縫箱のお伽噺を教えてくれたのは誰なのか、針仕事の一番最初を教えてくれたのは誰なのか。
なぜ、これほどまでに母のことを避けてきたのか。
母から届いた数少ない誕生祝いのカードの文字が、不自然に歪んでいたことにどうして気付かなかったのか。
思い出してしまったのだ、リチャードに手首を掴まれた時に。
いつだったか、幼い時にこれと同じようなことがあったと。
それは、マリアに恐怖を刻みこんだあの事件の前にあったことだ。
壊された裁縫箱。
幼かったマリアの泣き声。
そして、リチャードの嘲り。
マリアに母に愛人がいて子供までいると吹き込んだのは、父にも愛人がいると吹き込んだのは、あの声だった。
両親のどちらからも見捨てられ、愛されていない可哀想な娘。
お前の価値は家を継ぐ子供を、リチャードの子供を生むことだけだと。
『そんなこと、ないっ。だって、お母さまはマリアに大事な妖精のお裁縫箱をくれたもの! このお人形だって、お母さまがマリアのためにって作ってくださったもの!』
泣きながら反論したマリアに激昂した少年時代のリチャードは、マリアの手首を折れるほど強く掴んで引っ張り、マリアの大事な宝物を取り上げた。
裁縫箱は窓から放り投げられ、布でできた質素な人形は踏みにじられた。
「あげる」
幼い声にはっとなって顔をあげると、エルベ老はもうそこにはいなかった。代わりにまるで縫いぐるみのような雰囲気のアホロートルがちょこんと座っていた。
左右に離れた円らな翡翠色の瞳をキラキラさせて、最近加わった鬣のような鰓に小さなリボンをいくつも結び、頭には青いパンジーの花が咲いているピンク色のアホロートル。
その小さな両手が差し出すのは、あの夢の中で見た妖精の裁縫箱だった。
横に長い口をにっこりと笑みの形にして、どうぞと首を傾げている。
「大事な宝物だけど、あなたにあげる。
エペローナには、お母さまがいつも一緒にいてくれるから。
お父さまも、いつも一緒なのよ。
幸せなの。
だから、これはあなたにあげる」
その宝物を受け取った瞬間、マリアは目が覚めた。
目頭が熱くて、涙が溢れる。
マリアは再び目を閉じて心の中にその姿を探した。
ああ、そうなのね、だからエペローナにわたくしは嫉妬しなかったのね。
マリアはようやく分かった気がした。
最初は青い瞳だったアホロートルがいつの間にか緑の瞳に変わっていた理由も、アホロートルの夢が懐かしくて切ない理由も。
恵まれた子供時代を過ごしたのはエペローナもキースも一緒なのに、エペローナには嫉妬などしなかった。
ふわふわと、家族の愛に包まれて幼子のまま大きくなってしまった人の悪意など知らない無邪気なエペローナ。
そのままでいて欲しいと、守りたいと願ったのは、幼い頃の自分だった。
確かにあったはずの幸せの記憶が、忘れたふりでいたその記憶が、エペローナの名を借りて、アホロートルの姿を借りて、マリアの夢にそっと訪れてくれていたのだ。
「マリアさん? 大丈夫ですよ、怖いことは何もないです。僕がいますよ」
マリアの好きな優しい声が、心配げに問いかける。温かい手が、マリアの手を包む。
「違うの……悪夢ではないの」
「でも、泣いてる」
「言葉では、伝えられないの」
「辛いわけではない?」
「苦しいわ。でも、愛おしいの」
閉じ込められていた記憶の鍵を外してくれたのは、きっとこの人だ。
マリアに寄り添ってくれたこの人がいたから、きっと思い出しても大丈夫だと怯えていた幼いマリアも出て来られた。
涙を拭われた目を開けて、すぐ傍に寄り添ってくれているキースを見た。
小さなランプの灯りだけだから、表情はよく見えない。
「キース様」
「なんですか?」
「キース様は、やっぱりわたくしの運命の人だわ。絶対に。
だって、貴方ときたらわたくしにとことん都合が良いのですもの。
きっとお母君にとってよりもずっと」
「光栄です。これからもずっとマリアさんに都合のいい僕でいます」
「できればわたくしだけに都合の良い人でいてくださいね」
「もちろん。僕はマリアさんの騎士で、運命の人で、親友で、恋人で、伴侶ですから。いついかなる時も全力で各方面頑張ります。でも、たまにご褒美をお願いします」
「宜しくてよ、キース様のお強請りを叶えるのは好きですもの」
だんだんと闇に目が慣れてきて、キースの顔が良く見えるようになった。
マリアは繋いでいない左手を伸ばしてその頬に触れる。
「不思議ね、意味もなくキース様には触れたくなってしまうの」
「僕もです。いつもマリアさんに触れたいと思う」
伸ばした左手もキースの手に囚われる。
その指先に口付けを受けて、マリアは頬を染めて微笑んだ。
「夢を、見ましたの」
「いつものですか?」
「いいえ、いつもとは違う夢」
そしてマリアはゆっくりと、先ほどまで見ていた夢の話を語ったのだった。




