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 泣き疲れて眠ってしまったマリアさんを抱き上げて、僕は用意されていた部屋に戻った。

 部屋には父上と兄上夫婦、それに義父上が待っていた。

 僕はみんなに大丈夫だと無言で頷いて見せ、それに無言でホッとしたように頷き返してくれた。

 僕はそのまま奥へ進み、二間続きになっている寝室の方へマリアさんを運んでベッドに寝かせる。

 もともと眠らずに一晩過ごし、夜明けと共に帰る予定でいたから、泊まる準備はしてこなかった。本当なら、皺にならないようにドレスは脱いだ方がいいし、寝苦しいだろうからコルセットは外した方が良いと思う。でも、そういう仕事をする離宮の侍女を呼ぶのも憚られた。

 僕自身、よっぽど信頼できる、例えばカチェリナさんやナタリーでなければマリアさんに触れて欲しくなかった。今頼れる人だと、義姉上くらいしかいない。泣いて化粧が取れ、赤く腫れかけた目元が痛々しい。

 僕は少しの間、マリアさんの寝顔を眺めてから渋々立ち上がった。

 本当はこのままここにいたいし、濡らしたハンカチで目元を冷やしてあげたいけど。


 居間の方へ戻ると、父上たちが一斉にこちらを見た。僕は静かにドアを閉めて義姉上にハンカチを渡した。


「目元が腫れそうなので、冷やしてあげてもらえますか?」

「ええ、もちろんよ。水を貰ってくるわ」


 義姉上はハンカチを受け取ると、しっかりと頷いてくれた。

 

「私が一緒に行こう」


 父上が申し出て二人が出て行くと、義父上と兄上と、三人になった。


「デルフィーネ卿、無事だったから良かったものの、一歩間違えばあなたは大事な娘を失うところだった。私の弟は愛する妻を失うところだった。これについては貴方の見通しが甘過ぎたのではないですか?」

「まったくその通りだ、面目次第も無い」

「それで、今後どうなさるおつもりか」

「もともと年が明けたらリチャードは所属が国土局から軍属に変わる予定だった。海軍の事務方だ。妹夫婦には引退させ、口出しできないようにほぼ軟禁状態にする手筈は整えていたのだが」

「それでは生温い」


 厳しい表情の二人の間に僕は強引に割って入った。


「そのことなんですが」


 その話は僕も聞いて知っていた。その上で、だからこそ取れる対策があった。


「騎士学校の同期で現役の騎士である友人にユミルという男がいます」

「ユミル? もしやユミル・ガーシュエルトンか?」

「ええ、海軍大将閣下でガーシュエルトン公爵家の当主、ネルソン・ガーシュエルトンの三男です」


 流石に手回しをしていただけにその辺の情報は把握していたみたいで、義父上はすぐにユミルの正体がわかったみたいだ。

 ユミルの父上は王家寄り保守派の重鎮で、その役職が示す通り十人いる海軍大将の一人であり、実質的にその十人を取りまとめている元帥の地位にある人だ。正式な元帥でないのは、自分より年齢が上の海軍大将が半数近くを占めるためにその辺りを慮って辞退したという話。

 出所はもちろんユミルで、父上大好きなユミルが聞いてもいないのに学校時代に話しまくっていたからだいたい皆知っている。もちろん家名を名乗るのは禁止だから、知り合いから聞いた話だが、というバレバレな言い訳での自慢だった。


「何もなければ、それに越したことはありませんでした。僕だって徒らにマリアさんの実の叔母上を悲しませたり従兄弟を陥れるようなことはしたくありません。

 でも、先日お話しした揉み消された事件、あれは悪質です。それを考えると楽観は出来ないと僕は思いました。それはその事件のことを教えてくれた騎士団の友人たちも同様の意見でした。

 ですから、万が一の時のために友人たちの手を借りて準備をして置いたんです。出来ればその準備が無駄に終わって欲しかった」


 これは本心だ。だって、マリアさんには少しだって怖い思いをして欲しくなかった。それに、誘い水のようなこの年末の舞踏会で踏み止まれるならそれはそれで良かった。そういう自制が出来るなら、何年か海軍の事務方で勤めるうちに根性も叩き直されるだろうって思えた。事務方であろうと海で働く限りは最低限泳げないと話にならないって、新人兵士の訓練に放りこまれるところだから。


「キース、それは蛇の玩具の事だけではないんだな?」


 すでに事のあらましを聞いているらしい兄上は、確認するように僕の目を真っ直ぐに険しい目で見つめてきた。

 心配かけてごめん、兄上。

 でも、大丈夫だから。ちゃんと僕がマリアさんを守っていくから。


「ええ、もちろんそれも大事でしたが。ブロックフィールド家はデルフィーネ一族の一角です。これから先も健全に存続してもらわないと困りますから、家名に傷は付けられません。本人にのみ不名誉が降り掛かるよう、マリアさんに不名誉な噂が立たないように考えたものです。本人の処分についてはまた別です」


 そこで僕は一旦一呼吸置いた。義父上に真っ直ぐに向き直る。


「義父上、申し訳ありません。けれど、僕は今後一切あの男にマリアさんの周りをうろつくことを許せない。だから貴方の実の甥を僕は陥れ、実の妹君を嘆かせます。肉親の情に、どうか目を瞑ってください」


 罪の意識に胸が痛い。これは紛うことなき冤罪、罪の捏造だ。

 これで一人の男の人生がほぼ終わるし、家族は嘆き悲しむだろう。

 それでもこれが僕の決断だ。無理をさせたユミルにはきっと一生頭が上がらないし、誰にも、特にマリアさんには絶対言えない秘密だ。ここだけの話にして、罪悪感に負けずに死ぬまで口を噤むべきことだ。


「言われるまでもない。そもそもその決断は私がするべきことだった。君にさせてしまったことを、申し訳なく思う」


 苦しげな顔をして、義父上が一瞬目を閉じた。

 気難しい顔をしていても、ミラン兄上が語ったように義父上は本来とても優しい人なんだろうと思う。子供の頃たくさんの友人たちに愛されていた義父上は、きっと本当は人一倍家族も愛していた。僕がキャロを妹のように愛しているように、ちょっと困ったあの妹君のことだって。


「いいえ、僕ならもっと肉親の情に引っ張られてしまうでしょう。最後まで信じたい気持ちを捨てられない。僕にとってはデルフィーネ家の中心はマリアさんで、だからこそ出来ることです。それに、マリアさんを守るのは僕の大事な役目だから」


 僕がそう言うと、義父上は黙って僕の肩を抱いてくれた。


「これからあの男の部屋をユミルたちが捜索します。そこで色々と事件の未遂を示す証拠が出ます。未遂なので事件ではありませんし、記録に残るだけで刑罰はありません。けれど、そういう人間を大きな金の動く海軍の事務方に置くことはできません。あの男の行き先は、監獄島の所長秘書になります。任期はありません。死ぬまであの島を出られない、そういう契約になるようにユミルが動いてくれます」


 監獄島は海軍が捕らえた海賊を収監して強制労働させている離島だ。もちろん女性は一人もいない。だから花街の女性のような被害者は出ることがない。

 そして噂は娯楽として何処へだって飛んでゆく。これから一生あの男は嘲笑され続ける生き地獄に堕ちる。

 早晩自殺でもしてしまうかもしれないけれど、そうなっても他人事のように僕は気の毒にと少し顔を顰めるだけで通り過ぎるんだ。


「承知した。ブロックフィールド家のことは任せて置いてくれ。こうなれば一刻も早く代替わりを進めた方が良いだろう」


 最後にマリアを頼むと肩を叩いて義父上は部屋を出て行った。

 入れ違いに水をもらってきた義姉上と父上が戻ってくる。


「丁度話がひと段落したところのようね。私は殿方の密談は聞かないことにしているのよ」

「私は隠居だから、何も聞かないでおこう。話してくれるなら歓迎するが」


 義姉上はまだ残る張り詰めたものを察してか、そんなふうに場を和ませてマリアさんのいる奥の部屋に向かった。父上は相変わらずの傍観者っぷりで肩を竦めると、従者のように水を張った器を持って義姉上に続いた。


 僕はというと、兄上と二人きりになるとなんだかどっと疲れて仰け反るように椅子にひっくり返った。


「キース」


 兄上に名前を呼ばれて手だけ挙げて返事をする。

 疲れた。本当に疲れた。

 やっぱりどんな相手だって、陥れれば胸が痛むよ。

 あんな、害にしかならないような男なのに。


「キース、良くやったな」


 いつの間にか椅子の背後に回っていた兄上が、上から僕を見下ろしてポンとその手を僕の頭に置いた。


「いつの間にか立派になったな、驚いた」


 そんなこと言われたら、泣きたくなるよ。

 僕は右手で両目を覆った。


「なんだか兄上が父上みたいだ」

「そうだな。だが自慢の弟でも自慢の息子でも大差ないだろう。お前は、お前だ」

「兄上」

「なんだ?」

「小さい頃、古代象形文字を教えてくれてありがとう」

「どうしたんだ、急に」

「あの一覧表、まだ持ってるんだ。教えてもらったこともだいたい覚えてる」

「……そうか」

「マリアさんにね、教えてるんだ」

「それは初耳だ」

「内緒にしたんだ。マリアさんに教える楽しみを兄上に奪われたくなくて」

「馬鹿なことを。そんなこと私はしないぞ」

「うん、そうだよね」

「教えたのは確かに私だが、覚えたものはお前のものだ」

「子供が生まれたら、教えるよ。兄上が教えてくれたみたいに」

「……お前の方がよっぽど出来た息子のようだぞ」

「うん、まあ、ユーグに比べたらそうかな?」

「確かにそうだな」


 笑う気配と一緒にもう一度僕の頭を撫でて、兄上は静かに部屋を出て行った。

 


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