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 ヴァンスウェル伯爵夫人は部屋の外から響いて来た悲鳴に、好奇心を抑えきれなかった。本格的に盛り上がる前だったし、彼女の恋人もまた好奇心を刺激されたようで二人で顔を見合わせた後にすぐ何事かを確かめるために部屋を出た。

 ちょうど警備に当たっていた騎士も駆けつけたところで、悲鳴を上げていたのは若い娘のようだ。気の毒に真っ青になって震えている。

 しかし、解せないのは彼女のすぐ足元に蹲っている男だ。しかも酷い臭いだ。まるで香水を頭から被ったらような強烈なそれに、思わず夫人は顔をしかめて扇子で僅かでもそれから逃れようと扇いだ。よく見れば、男の足元に小さな香水瓶が転がっている。

 それでも、こんな面白そうなことを見逃せないとその場を立ち去る気は毛頭ない。

 それにしても、勿体ない。遠目でもあの香水瓶はなかなか細工の良いものだ。


「どうなさいましたか、レディ」


 護衛の問いかけに、若い娘は青い顔をしながら何かを言いあぐねているようだ。無体を働かれかけたのなら、さもありなん。

 見た所何もなかったようだが、これだけの騒ぎになっては有る事無い事噂されるだろう。周りをみれば、夫人のように好奇心に目を輝かせる面々が集まりつつあった。

 さて、その哀れな犠牲者は一体何者かと夫人はもう一度その娘をよく見た。しかし、それより先に恋人の方が正体に気付いたようだ。


「へえ、今年のデビュタントで話題になっていたマリア・デルフィーネじゃないか」

「まあ、本当だわ。アルマ子爵夫人じゃない」


 未婚でないのは不幸中の幸いかと思うが、他人の不幸は蜜の味を地で行く夫人には少しばかりつまらなかった。

 ただ、少々難のある血筋の娘で、まんまと王家の血を引くイングリット殿下のご子息を婿に迎えたとなれば、色々と面白おかしく噂する楽しみはありそうだ。


 もはやヴァンスウェル伯爵夫人の好奇心のほとんどはアルマ子爵夫人に向けられており、男の方にはあまり注目していなかった。


「レディ、何があったのか話してくださいませんか? この男性は?」

「……あの、この人はわたくしの親族なのですけれど」

「ご親族ですか」


 騎士とアルマ子爵夫人の会話に耳をそばだてていると、そこにもう一人騎士が駆けつけて来た。

 そして蹲っている男の傍に顔をしかめながら膝をつく。それはそうだろう、相当香水臭いはずだ。


「あれ、君、リチャードじゃないか。大丈夫か? 何があった? 血だらけじゃないか」


 血だらけという言葉にぎょっとした周囲の注目が、今度は男の方に集まる。


「っ、その、女がっ! 歯を折られたっ! 暴力女を捕まえてくれっ」


 男の顔はひどいものだった。涙でぐちゃぐちゃの上に真っ赤だ。鼻血を出し、口からも血が溢れている。

 だが、周囲は首を傾げた。それはそうだ、明らかに華奢で非力そうな女性が大の大人の男の、それも身長差もある中で歯が折れるほど殴るなんて無理だろう。

 それを裏付けるように、アルマ子爵夫人の白い手袋にはなんの染みも見当たらない。


「おいおい、リチャード。いい加減にしろよ、相当酔ってるな。君が昔から彼女に夢中で、その割には子供みたいな恥ずかしいアプローチしか出来ないのは聞いていたけどな、これはやり過ぎだ」


 後からやって来た男の知り合いらしき騎士がため息交じりに、何かを拾い上げた。


「いくら好きな女性の気を引きたいからって、蛇の玩具で驚かそうとする奴があるか。それで驚いた彼女に香水瓶を投げつけられたんだろ?

 運悪くそれが顔に当たって歯が折れたからって、それは言い掛かりっていうものだ」


 周囲も、それから言われた当の男も、その余りにも突拍子もない真実に呆気にとられて静まり返った。

 そうすると、その騎士が周囲を見回して手に持った精巧な蛇の玩具を茶目っ気たっぷりに振り回しながら一礼した。


「大変お騒がせいたしましたが、酒の上での初恋をこじらせた哀れな男の悪戯です。どうぞ皆さま、笑ってお流し下さいますよう」


 その台詞に、ヴァンスウェル伯爵夫人は堪え切れずに笑い出した。周囲もつられて笑い出し、しまいには涙が出るほど笑う者まで出る始末で、その哀れな男は真っ赤になって血を飛ばしながら何事か叫んでいたが、誰も相手にしなかった。

 結婚してしまった初恋の人の気を引きたくて酔って蛇の玩具で脅かそうとし、驚いたその人に香水瓶を投げつけられ、香水まみれになった上に運悪く歯を折って鼻血まで出した。

 滑稽極まりないこの話は、離宮にほとんどの貴族が集まっていたこともあり、瞬く間に広まった。三日三晩の舞踏会が終わる頃には、知らない者はいないくらいに。





「マリアさん!」

「キース様……」


 キースの元同僚であり、友人の一人であるベンに保護されていたマリアの元にキースが駆けつけたのは、事件から數十分経った頃だった。

 入れ違いのように舞踏会場に戻ったキースは姿の見えないマリアを探し回っていたため、すぐには捕まらなかったのだ。

 ベン、ピーター、ユミル、それに後五人ほど事情を知っている者がいて、それぞれが離宮内でばらけて警備についていた。誰か一人は必ず、マリアの元に駆けつけられるようにだ。事前に宿泊予定者のリストが出回っていたから、リチャードが三日間全て滞在することは把握されていた。

 何か事を起こすとしたら、この時だろうと皆思っていたのだ。


 キースはマリアの無事な姿にホッとして、それからすぐに泣きそうな顔でマリアを抱きしめた。


「貴女が無事で、本当に良かった」

「わたくし、頑張りましたの」

「うん」

「怖かったですけれど、わたくしは一人ではないって皆様が教えてくださったから」

「うん」

「やってやりましたわ。ずっといつか見返してやる、やり返してやると思ってましたの」

「うん」

「でも、もう泣いてもいいかしら」

「いくらでも」


 小さく嗚咽を漏らしながら泣き出したマリアをしっかり抱きしめて、キースもまた涙を滲ませた。

 そんな二人を、茶番を成功させたベンとキースを連れて来たピーターは静かに見守った。

 家名に傷を付けず、マリアの女性としての不名誉な噂を排除し、リチャード個人にのみ損害を与え、心を折って二度と社交界に顔を出せないようにすること。

 その難しい課題をこなすために、キース達は知恵を絞って今回の茶番を考え出した。

 今後は逆恨み対策に、ユミルが中心になって画策してくれる。リチャードが泊る予定だった部屋から、これから凶器や拘束具などが見つかる予定だ。それは未遂だから表に出ないが、僻地に飛ばすには十分な理由になる。

 おそらくそれで二度とリチャードはマリアの前に姿を見せられないだろう。


 


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