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「ようやく君に会えたよ、まったくアルマ子爵の君への執心ぶりには驚くね。

 いや、僕だってね、君ごときを気に掛けているわけじゃないから、そこは誤解しないで欲しいんだけどね。

 君が僕を憎からず想ってくれていることは知っているし、誤解したいのも分かるが。

 あちらで随分可愛がられているようだけれどね、それは君がデルフィーネ家の跡取り娘だからだということは君にだって分かるだろう?

 僕だって気に掛けているのはデルフィーネ伯爵家のことだ。

 ただし、僕は真にデルフィーネ家のことを思いやっているんだよ。

 何と言っても母上の生まれ育った大事な家だし、由緒正しい家柄だ。

 確かにアルマ子爵は王家の血を引くかもしれないが、果たしてそれだけでデルフィーネ家を任せられるかといえばどうかなと僕は疑問に思うのだよ。

 君も賢そうなことを言っていても、所詮は女。男が一家の舵取りをするのがやはり正しいことなのだよ。それをあの血筋だけしか取り柄のないアルマ子爵にこなせると思うかい?

 いや、答えなくても構わないよ。曲がりなりにも王家の血を引く方ではあるからね。けれど、真にデルフィーネ家を思う僕はどうすることが今後一番良いのか考えたわけだよ。

 君がアルマ子爵と結婚したことは今更覆しようもない。長い目でみれば、王家と縁が繋がったことはデルフィーネ家にとっても良いことだろう。

 だがね、半分汚れた血の君と、あの血筋だけの頭の足りない男の子供が跡を継ぐというのは大問題だと思うのだよ。

 君だってその辺は十分理解できるだろう?

 言いたくはないが、僕たちの祖父は正統な血を引いて誰にも憚ることなくデルフィーネ家を継いだけれど、その能力の無さで家を危うくした。

 だから君は是非とも優秀な子供を産まなくてはいけない。

 そう、僕のような、真に優秀な男の子供をだ。

 ああそうか、今気付いたんだけどね。

 君のことだ、僕を思って未だに純潔を守っているのだろう?

 そういう健気で謙虚なところは、僕は君を評価しているんだよ。

 だから君は何も遠慮せずに僕の子を孕めばいい。

 僕の子だと公にできないことは僕も辛いけれど、デルフィーネ家のことを思えば堪えることなど何ほどもない。君にもそれくらいは耐えてもらわないと困るけれどね、この僕の子を産めるのだからそれ以上の喜びなんてありはしないだろう?」


 久しぶりに会ったリチャードは、前とは比べ物にならないほど醜悪なものに成り果てていた。

 狂気に満ちた目は、一言でもマリアが口応えをしたらすぐさまマリアを殴りつけるだろう。人の目があればそれはいつも隠されていたが、幼い頃にマリアに暴力を振るった凶暴性は消えてなどいない。

 だからマリアはいつも従順なふりをしていたのだ。

 しかし、あまりのおぞましさにマリアはそんなふりをする程の余裕もない。体は金縛りにあったように動かず、つま先も指先も小刻みに震えている。

 こんな男に汚されるくらいなら、純潔を奪われるくらいなら、悠長なことを言ってキースに甘えていないで初夜を完遂していればなどと今更な後悔がマリアの胸を突き刺す。

 理由は全く違うがマリアが未だ純潔なのは紛れもない事実で、それを知ったときにこの男がするだろう勝ち誇ったいやらしい笑みが頭を過ぎり、怒りと絶望とがマリアに強烈な吐き気を起こさせた。

 この男の子を孕むくらいなら、いっそ一思いに死んだほうがましだ。

 しかし、マリアの諦めそうになる心に、アイリーンの勇姿浮かんだ。叱咤激励するように鋭く天を切り裂く剣を掲げる。

 そうだ、この震えは怯えているからではない、武者震いだ。

 マリアはそっと腰のリボンを上から触った。


 大丈夫、アイリーンにバルザシュという騎士がいたように、支えてくれる多くの人々がいたように、わたくしだって一人じゃない。


 マリアの心に多くの人々の顔が浮かんだ。父や祖父、カチェリナ、ヴェルナ家の人々、その他沢山、王都で出会った屋台の男やパン焼き広場で出会った女達まで、皆、マリアの幸せを願い、キースとの結婚を祝ってくれた。

 そしてキース。心配そうな顔の子熊とアホロートルが手を繋いで見ている。

 

 大丈夫、今だってキースはマリアと一緒に戦ってくれている。友人達まで巻き込んで、知恵を絞ってマリアの為にもしもの時のことを考えてくれた。

 まだ、震えは止まらない。

 でも、やるべきことは分かる。

 冷静に状況を考えることができるようになると、背後の扉に鍵は掛かっていないことを思い出せた。


「リチャード様のご慧眼には、感服するばかりでございますわ。

 けれど、少しお待ちになって。先ほどダンスですっかり汗をかいてしまって。

 香水を使うことをお許し頂けますかしら」


 いつもリチャードに見せていた淑女然とした微笑みを、恥じらうように広げた扇子で半分ほど隠す。


「ふん、なかなか可愛げのあることを言うじゃないか」


 マリアの言葉に上機嫌になったリチャードを見て、完全にリチャードにとって都合の良いマリアの姿しか見えていないことが分かった。

 マリアは震える指先でどうにか腰のリボンの内側から小さな香水瓶を取り出す。自分に吹きかけるふりをしながらその小瓶の蓋を外し、その中身を思い切りリチャードの顔に向かってぶちまけた。



 悲鳴を上げてうずくまるリチャードを背に、マリアは扉を開けて逃げ出した。

 あれはキース特製の唐辛子の粉末を大量に混ぜ込んだ特別な香水なのだ。

 まだ震えが治らない両足は縺れて、何度も転びそうになった。それでも必死でマリアは走った。

 移動途中でなんとなく気にしていた騎士の立ち位置は覚えている。けれど、もともと走ることに慣れていないマリアは、リチャードが追ってくる気配がしても気が急くばかりで一向に前に進んでいる気がしなかった。

 ようやく騎士の姿が見えるところまで来た時に、とうとうマリアの手首をリチャードが掴んだ。怒りと痛みで充血した目から涙を流したその悪鬼のごとき顔に、マリアは思わずヒッと小さな悲鳴を上げた。


「恥をかかせやがって! 女のくせに! 下賤の血を引くくせに!」


 前までなら、きっと竦んで怯えて何もできなかった。でも今のマリアにはアイリーンの魂が、キース達の魂が宿っているのだ。

 そう思うと勇気が湧いた。

 力任せに引っ張られるマリアの細い手首が悲鳴を上げる。

 だが、マリアは躊躇わずに悪鬼の顎めがけて飛んだ!

 鈍い音と呻き声がして、手首の拘束が緩む。

 

 マリアは倒れこみそうなリチャードから逃れて、もう一つの秘密兵器を投げつけた。

 そして凍りついた喉を振り絞るようにして、きっとこの先もこれ以上の悲鳴を上げることはないだろうと思える渾身の悲鳴を上げたのだった。


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