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リファーナ・バスクスは貴族の中でもかなり恵まれた育ちだ。
バスクス侯爵家は元は伯爵家だったが、二百年前の開国の折に功績が認められて侯爵の位を賜った。
エトワールからの最初の使者を迎えたのがバスクス領のパーセル港だったのだ。一番最初に大陸の進んだ文化の洗礼を受けたのは、バスクス家だった。
その衝撃は想像するに余りある。見せつけられた国力の差、格の違いは劣等感となって未だにバスクス家を縛り付けている。
リファーナもまた例外ではなく、自国の古臭い伝統に拘る全てが気に入らなかった。グランデ港に一番の座は譲ってしまったが、第一の軍港の座はパーセル港だ。いち早くエトワールと交渉を持ち、その隔絶した技術力に危機感を抱いた先祖は多少の犠牲を払ってでも先進技術を欲した。その影にはバスクス家の男達の死があった。
開国に先駆けて領地の一つである離島の民が全滅する事件があった。バーセル家は海賊の仕業と判断し、すぐに調査を開始した。
その過程で海戦になり、バスクス家の海軍は全滅してしまったのだ。辛うじて捕虜として生き延びたバスクス家の次男は、そこで初めて相手が海賊などではなく植民地を求めるエトワールの尖兵だと知った。
離島の民は全滅したのではなく、奴隷として連れ去られていた。
それからずっとバスクス家の跡取りは女が優先される。血を絶やさぬために、この恨みと悔しさを忘れぬために。そしてたとえ無辜の民草に犠牲を出そうとも、結果的にこの国が守られれば良いのだと結論を出した。
奴隷貿易に関する密約は確かに悪事ではあるだろうが、それで時間を稼いでこの国を守ったのはバスクス家だ。その時にエトワールの海軍将校であったカプレ伯爵との縁は今に続き、バスクス家に富を齎している。そして、代々男達を国の海軍に将校として送り出していた。
だが、エトワールに傾きすぎると見なされたバスクス家は陞爵されながらも王家からは疎まれてきた。現在九ある侯爵家の中で王家の血が入っていないのはバスクス家だけであり、王家の男性を婿に迎え入れることがほとんど悲願になっていた。
リファーナは難しいことには興味がないが、バスクス家の人間が抱える劣等感や鬱屈だけは歪んだ形で十分に育てていた娘だった。
リファーナの姉は跡取りとして育てられ、一族は是非にイングリット殿下の息子であるキース・ヴェルナを婿と望み続けた。しかし、その話はどれほど手を尽くしても進むことはなかった。それでもキース・ヴェルナに婚約者が出来なかったため、一縷の望みを掛けてリファーナの姉は婚約者もいないまま適齢期を逸してしまったのである。
これで相手が由緒正しい格上の家であれば、仕方ないと諦めもしただろう。しかし、キースが婿に入ったデルフィーネ家は格下の伯爵家で、しかも元平民の母親を持つ汚れた血が半分流れる女が相手だった。
バスクス家の悲憤は凄まじいものがあった。
だが、リファーナにとっては跡取りの責が回ってきたことが何よりも重大なことだった。
既に二十代半ばを過ぎた姉には他にも結婚を困難にする瑕があり、跡取りから外されることになったのだ。数年前から一応リファーナにも予備として跡取りの教育が始まってはいたが、裕福な貿易商にでも嫁いでお姫様のように暮らすのだと思い描いていたので全く身が入らなかった。
姉と違ってリファーナは放って置かれたため、かなり我儘な娘に育っていたのだ。だから、禁止されていたにも関わらずデビュタントのドレスにこっそりレースを付け足した。リファーナにとってデビュタントの常識のドレスはあまりにも野暮ったく古臭過ぎたのだ。
当日になって気づいた両親は激怒したが、時間もなくてそのまま王宮に向かったのだ。またバスクス家は未だ新参者よと馬鹿にされる、お前はバスクス家に泥を塗るつもりか、跡取りとしての自覚を持てと散々に馬車の中で詰られたが、リファーナにとっては野暮ったいドレスを着る方が遥かに恥ずかしいことだったので気にも留めなかった。
バスクス家は金持ちでもあったので、リファーナにはいわゆる阿諛追従する取り巻きのような友人達がおり、控えの間で大いに賞賛を受けたので余計に両親の言うことなど聞くに値しないと思った。
しかし、現実はリファーナに厳しかった。侯爵家であれば相応の格式の高い舞踏会への招待は皆無ではなかったが、かなり少なかったのである。矜持ばかりは高いリファーナは悔しがったが、自分の非については全く認める気はなかった。九家ある侯爵家の中で未だに準侯爵などと揶揄されることがあると知ってなお、最先端を知っているという自負は爵位が高いだけの過去の遺物と他を見下す根拠になっていた。
だから、その古臭い連中に高く評価されるマリアのことも忌々しく思うよりも哀れんでいた。古い価値観に縛られ、あんな野暮ったいデビュタントのドレスを着なければいけないなんて、と。
ただ、マリアの夫であるアルマ子爵については忌々しく思っていた。これでキースが両親に似た美形であったら、あるいはまた違ったのかもしれないが。
血筋しか誇るものが無さそうな間抜け面のくせに姉を袖にしたことも腹立たしかったし、そのせいでなりたくもない跡取りになってしまったことも面白くなかった。
そして舞踏会で見かけるアルマ子爵は、誰が見ても妻に夢中な様子が見て取れた。だから、たまたま知り合った気の毒な男の話を聞いて、愛する妻を寝取られて悔しい思いをすればいいというアルマ子爵への悪意で男に協力することにしたのだ。
聞けば正式な婚約はしていなかったが、男とマリアは幼い頃から婚約しているも同然の関係だったらしい。それを権力で無理矢理に引き離されたのだという。それも騙し討ちのように婚姻式の当日まで伏せられていて、当事者のマリアでさえ当日がアルマ子爵と初対面で、そのまま強引に婚姻式が行われたと。マリアの実の叔母でもある男の母がどうにか阻止しようとしてくれたが、王弟殿下のご臨席もあって最早もどうすることも出来なかったと嘆いていた。
この話を聞いて、余計にアルマ子爵の評価がリファーナの中で暴落した。確かに男はアルマ子爵よりも整った顔立ちをしており、また男の母の醜聞が出回っていたこともあってその話をリファーナは信じたのだ。
個人的にアルマ子爵をどこの馬の骨とも知れない男と罵倒したという話に快哉を叫びたいくらいだったから、事の真偽などそもそも特に気になどしていなかった。
引き裂かれた元婚約者の逢瀬に、少し手を貸すだけ。
そこにマリアへの同情は有りはしても悪意など無く、そしてまた罪の意識もありはしなかった。
「以前から貴女と親しくお話してみたいと思っておりましたの。ボーダル男爵は名の知れた貿易商ですもの、エトワールと所縁のある我がバスクス家も一目置いておりますのよ」
「まあ、有り難う存じます。祖父が聞きましたらきっと喜びますわ」
「先日のデビュタントのドレスはお気の毒でしたわね、きっとボーダル男爵が用意なさったならもっと華やかで最先端のものを用意されたでしょうに」
「……伝統的なものも素晴らしいですから、お気になさらないで」
「ええ、そう言わないといけないのですものね、分かっていますわ。でも今日の装いは素敵。最近手に入れたプレートに似たものを見ましたのよ、羨ましいわ。もしかしてボーダル男爵から?」
「腕の良い仕立て屋を寄越して下さいましたの、仕事の関係からの伝手ですのでわたくしはよく知らないのですけれど」
「まあ、もったいない。貴女、いずれデルフィーネ家を継がれるのでしょう?でしたらその時は好きになさったら良いわ!
やっぱりエトワールの装いは素晴らしいもの、今日のイングリット殿下は本当に輝かしくていらっしゃって。
羨ましいわ、あの方が義理の母なのでしょう?
あの方とあちらの最先端の装いについてお話されたりされますの?」
「恐れ多くも義理の娘として目を掛けて下さっておりますけれど、お忙しい方ですから……」
思ったよりも口数が少なく、一歩引いたような謙虚な態度のマリアに、リファーナは憐憫の情を抱いた。
リファーナほどではないがマリアもなかなかの美人だし、最先端のドレスの着こなしも様になっている。抑圧する者がなければ、本場エトワールでだって目を引くだろうに。
もともと気弱なのかもしれないが、古臭い因習にとらわれた家の方針にこれでは逆らえないだろう。
唯々諾々と親の言う通りに、権力にものを言わせた婚姻を受け入れてしまうのも簡単に想像できてしまった。
「私ね、貴女を気の毒に思いますのよ。心ならずも幼い頃から言い交わした相手を裏切らなければならなかったこと、どれほど辛かったことかしら」
「……どなたかと思い違いをなされていらっしゃいませんか?」
「大丈夫、私は全部事情を聞いておりますから。さあ、この部屋ですわ」
「いえ、わたくしにはそのような方はおりません」
「良いのよ、この舞踏会は特別なのだから」
青くなって慄くマリアにどこまで気弱なのかしらとリファーナは呆れたが、せっかくここまでお節介を焼いたのだ。
リファーナは男が待っている部屋の扉を開いて中にマリアを押し込んだ。
「ああ、会いたかったよ、愛しいマリア。リファーナ嬢、恩に着ます」
男は喜色満面でマリアを迎え、リファーナは満足して微笑んだ。
マリアは未だ顔を青くしているが、二人きりにしてしまえばすぐに熱く盛り上がるだろう。
「良いのですわ、だって想い合う二人の手助けなんて素敵ですもの。お邪魔虫は退散しますわね、ごゆっくり」
リファーナは良い気分で扉を閉めた。これでアルマ子爵の悔しがる顔でも見れたらと思うが、それはさすがに無理だろう。想像するだけになるが、想像するだけでも愉快だ。
足取りも軽く、リファーナは舞踏会場に戻っていった。




