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マリアとてこれが初めての舞踏会ではないのだから、キースや父以外の男性と踊ったことなどもう数えきれないほどだ。マリアの場合は既婚であるし、後ろ盾がしっかりしていた上に吟味された場にしか出たことがなかったから、マリアは専らいずれデルフィーネ伯爵家を継ぐ娘として、またはアルマ子爵であるキースの妻としての対応を考えて行動すれば良かった。
また、相手もそのような立場のマリアを尊重してくれた。内心はどうあれ表面上はそうであったので、マリアとしても特に気後れや恐れを強く感じることはなかった。
とっくにマリアの義母であるイングリット殿下と国王陛下は退出されており、主催者である王弟殿下の長男夫妻も退がられた。
年越しの祭りは爵位関係なく成人貴族であれば誰でも出席可能なので、無礼講の要素が強い。
豊国祭は平民には楽しい祭りであるが、貴族には身を謹んで静かに神々に感謝を捧げるものであるように、年越しはその様相が逆さまになる。
治安上も騎士達の多くが離宮の警備に回されるために年末の三日三晩、平民は年明けの昼まではよっぽどのことがない限り家から出ず、家族でゆっくり過ごす。そのため、その準備に年末の買い物は大変重要で、割安で様々なものが手に入る中央神殿広場の特別な市は大変な人出になるのだ。
そして豊国祭での平民達のように、使用人達の舞踏会も含めてこの時期ばかりは貴族であっても多少羽目を外してしまっても目溢しされる。
普通、舞踏会の主催者は最後まで場を離れないものであるが、王族がいては気兼ねをするという意味でも、身の安全を優先するという意味でも、例外的に夜が更ける前に退がるのが慣例になっている。
そういうこともあり、普段窮屈な礼儀作法に抑圧されている分、この三日間は所謂“過ち”が起こりやすい。
もちろん未婚の娘を持つ親はその辺は警戒するのが当然であるから、重々注意するように言い聞かせるし、女性が逃げ込める男性は立ち入り禁止の臨時のドローイングルームも各処に設けられていた。
逆に言えば、恋が生まれやすくもある。暗黙の了解であるだけで、おおっぴらに不倫が認められているわけではないから、恋人達が忍び逢うにはもってこいの機会なのだ。
お互い割り切った夫婦や、そういった恋の戯れを楽しみにする夫婦も少なくなく、そういった場合は夫婦別々の部屋を手配してもらう。
ともかくも、そういう性格の舞踏会なので、既婚者は常にそういう戯れの対象として見られるということを心得ていなければならない。
先ほどから必要以上にマリアの腰を引き寄せ、密着しようとする男に辟易している。それどころか、わざとマリアに足を踏ませようとして微妙にステップのタイミングを外してくる。
これは女性を誘う常套手段で、足を踏んでしまうと酔っていますね、大丈夫ですかなどと心配する振りで二人きりになろうとする。
通常の舞踏会でやると女性に恥をかかせるような男性は顔を顰められる。たとえ踏まれても顔に出さないし、それ自体リードが下手くそと宣伝しているようなものだから嘲笑われる。
けれどこの舞踏会は例外なのだ。そういう通常とは違う常識は義姉レイチェルやキースから細かく聞いておいたから戸惑うことはないが。
三度目の“誘い”を確認して、マリアはこれで義理は果たしたと取り繕った笑顔を男に向ける。
「少しお酒をお過ごしになられたのではないかしら。お顔に出ていらっしゃるわ」
「そうかもしれませんね、あなたが余りにも美しいので酔いが回ったようですよ」
「まあ、お上手ね」
笑顔でやり取りをするが、これで交渉決裂なのだ。
女性の方から酔いを指摘された場合は、潔く引き下がって次を探すのが暗黙の決まりだ。
当たり前だが嫌がる女性を無理矢理にというのは、目溢しされる範疇にない。
ちゃんと対処法を知っていれば、大体は何とかなるのだ。
無事に男とのダンスを終えて父の元に帰ってくると、義兄夫妻のエドワードとレイチェルが一緒にいた。
「今日はまた咲き初めの薔薇のようだね。キースは君のような美しい人を置いてどこに行ったのか」
「本当に。その髪飾り、素敵だわ。若い貴女に良く似合っていてよ」
「ありがとうございます。お義兄様とお義姉様も素敵ですわ」
余り表情の動かない義兄と、反対に控えめながらも静かで優しい微笑みを浮かべる義姉は、いつもと変わらずにマリアに親しげに挨拶をしてくれる。
似ていない二人だが、寄り添っている姿は支え合う夫婦の姿として憧れる。マリアの直接知っている仲の良い夫婦というのはこの二人が今では一番だ。今日も深緑で揃えた二人の装いは落ち着きがあって、似合いの一対だ。
これなら二人の間に割って入ろうと思うような無粋者は、まずいないだろうと思う。
そう思うと、キースが隣にいないことがとても恨めしい。
しばらく父も交えて四人で歓談していたが、義兄夫婦はまだ挨拶しておきたい人がいるらしく、音楽が四拍子のドネッツァに変わったタイミングで別れた。
ドネッツァは大勢で輪になって内側に男性、外側に女性で並び、次々と相手を変えながら踊る輪舞で、テンポがとても早くて盛り上がる。
父は苦手だから遠慮すると離れたが、マリアはドロテアに誘われて参加した。
ドロテアはマリアと違ってこの舞踏会を心から楽しんでいるらしく、ほんのりと赤く上気した顔で婚約者と少しばかりはしたないくらいに大きな声で笑いあっている。
楽しい曲だし、マリアだってドネッツァは嫌いではない。キースだって好きだ。
始まってしまえば軽快な音楽とステップに心が浮き立つし、体も自然と生き生きと動く。
それでも、笑いながら、楽しみながら、ちょっとばかり大きな寂しさに舞踏会場の出入り口を何度も気になって見てしまった。
だから、ほんの少し注意がおろそかになっていたのだろう。
何度か挨拶をしただけの、同じ年の女性に声を掛けられて余り警戒せずにドローイングルームに誘われてしまった。




