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『父や兄の無残な亡骸は夜毎アイリーンの悪夢となって訪れ、無念を訴え、復讐を望む怨嗟を垂れ流した。然してアイリーンは朝の訪れを待たずに涙と共に夜中に飛び起きるのが常であった。
だがそれは、己の双肩にのし掛かる重圧と、それに怯え慄く己の惰弱さが見せる有りもしない幻影だと気付いてもいた。
彼らは誇り高い人達であったから、もし未練のあまりに彷徨い出たとしても敵に対して恨み言を連ねるようなことは決してない。
ましてアイリーンは娘であり、妹。
そのような情けない姿を晒すような二人ではなかった。
どんな困難にも悲しみにも負けずに笑う逞しくも心強い辺境の民を、多くを語らずとも彼らは愛していた。
その情の深さで辺境の貧しさや厳しさすら慈しみ、守られることを良しとせず、自ら農具を武器に持ち替えて死地に向かうことも厭わぬ独立不覊の魂を持つ人々を。
それを背負わねばならぬことは、十五になったばかりの小娘にはそら恐ろしく、身が竦むのも無理はないことだ。
しかし、それでもやらねばならぬ。
アイリーンとて、この地に生を受けた誇り高き辺境の娘。この地を守って来たガムール家の勇き血潮を継ぐ女。
この身が震えるのは、決して怯えのせいなどではない。
故郷を守る戦の誉れに湧き立つ武者震いに他ならない。
馬上から父たちから受け継いだ見窄らしい、だがその両目はどの一対も炯々として恐れを知らない民を見渡す。
その前で露ほどの恐れですら晒すことなど、あいならぬ。
バルザシュから剣を受け取る束の間、二人の視線が強く絡み合った。叱咤激励するかのようなその眼光に、いよいよアイリーンの腹が決まる。
曇天を切り裂くように剣を掲げ、大音声を上げた。
我が名はアイリーン!
辺境の守護たるガムールの女!
此の地を守りし数多の英霊の声を聞く者だ!
その誇りと名誉にかけて其方らに勝利を齎す者だ!
聞け、神に祈らぬ者たちよ!
血を流すのは誰か!
愛しき者たちのために命を賭けるのは誰か!
この貧しき地を愛する愚か者どもよ、神すら驚嘆させるその武勇を轟かせよ!
我に続け!
地響きのように応える民の先頭に立ち、アイリーンは愛馬の腹を蹴った』
小説“夕暮れの薔薇”の名場面を頭の中で暗唱し、マリアは気持ちを落ち着ける。アイリーンに比べたら、このくらいのことはどうということはない。酔っ払いごときに怯えて竦むなど、あり得ない。
そう心の中で自分に言い聞かせて、腰に飾るリボンをそっと確かめるように触った。実はこの大きなリボン飾りの内側にはポケットのようにちょっとしたものが入るように細工をしてある。そこに二つほど最終兵器こともしもの時のお守りを忍ばせてあるのだ。
デルフィーネ家の重要な取引相手であるカスター伯爵に誘われて断れず、キースは男性しか入れない遊戯室に行ってしまった。すぐに戻るとは言ってくれたが、カスター伯爵は話が長いから余り期待はできない。
年越しの舞踏会の主催者は、次期国王と決まっている。まだ王弟殿下が王太子ということになっているが、今年の主催は国王陛下の甥にあたる王弟殿下のご長男夫妻が務めた。これによって、王弟殿下ではなくその嫡男の王位継承の儀が近いことを公に示したことになる。
それもあって、かなり最初から騒ついていた。
初日ということで国王陛下のご来臨もあり、最初のダンスは陛下とイングリット殿下のワルツだった。相変わらずの美貌で、深い青のシルクタフタのドレスは典型的な大陸風の正装であった。ローブ、胸当て、スカートの三部から成る様式は、美しく装うには女性に多大な忍耐と苦痛を強いる。
美しさにこだわる貴族女性とはいえ、内臓を損なうほどに締め上げるコルセットはグレイスリー王国では人気がない。男性の片手で掴めるほどの細い腰など、マリアに言わせれば狂気の沙汰である。
もともと神話時代を彷彿とさせるゆったりしたドレスを良しとするお国柄であるので、不自然に細くした腰というのは忌避感もあり、憧れはあってもそこまで浸透しなかった。コルセット自体はマリアも使っているが、過剰に締め付けるようなものではない。あくまで適度にウエストラインを整えるためのものである。
大陸風の正装というのは、ガチガチに固めて作った理想的な胴体が必要なのだ。彫刻にドレスを着せるようなもので、皺が寄ったりもせず、完璧に整った形のまま女性自らが芸術品となるのである。
ローブは襟周りから裾にかけて幾重に白いレースをあしらい、小さな真珠を刺繍のように縫い付けてあり、さながら夜空に輝く星のようだ。三角形の胸当て部分はクリーム色で、深い青の夜空に冴える月のように鮮やかに細い腰を際立たせている。ローブやスカートよりも胸当て部分はより贅を凝らすのが常識であり、色とりどりの宝石を縫い付けた絢爛豪華な刺繍は華やかな花束にも見える。
そしてそれを完璧な着こなして見せる義母に、マリアは感嘆の溜息をついた。老齢の国王陛下がお相手なので、ワルツも緩やかなテンポの伝統的な曲だったが、それでもあそこまで細く絞り上げていて涼しい顔で踊れるのは驚異的だった。流行りの白い大きな羽をあしらった髪飾りは水晶の花の周りを小振りの真珠をレースのように重ねていて、素晴らしく繊細な美しさに満ちていた。
これには何かと我が国を田舎者扱いするエトワールの大使たちも瞠目していた。
マリアはキースに手を取られて踊りながら、その事について興奮気味に話した。不自然さを感じさせないその美しさに感動したのもあるし、改めてエトワールの洗練された文化の凄味を感じたからだ。
その興奮も冷めやらぬまま予定通りに目当ての人々に挨拶をし、歓談もいつもよりも楽しめた。
いつもは格の違いから社交界では顔を合わせることがなかったドロテアとその婚約者とも会えたし、マリアは少し浮かれていたかもしれない。
キースと離れたら途端に心細さに襲われた。
もちろん、キースが離れたからと言って一人にされたわけではない。きちんとその前に父の元までキースが送り届けてくれたからだ。
ただ、その頃になると皆だいぶ酒も入って、雰囲気が少しずつ変わって来ていた。赤ら顔で無遠慮にマリアに近付き、ダンスに誘うおうとする面識のない殿方たちは、やはりマリアにとっては少なからず恐怖心を煽る存在なのだ。
今日の装いのせいか、未婚だと勘違いして父にマリアを誘う許しを得ようとしてくる若い人もいて、そちらはきちんとした方が多いからまだ良いのだが。
「何事も経験だ。今までとは趣が違うだろうが、慣れておいた方が良い」
父は相も変わらない仏頂面で最低限しかマリアに助け舟を出してはくれないので、マリアは度々アイリーンのことを思い浮かべて笑顔が引きつりそうになるのを堪えたのだった。
作中の大陸風の女性の正装は、ローブ・ア・ラ・フランセーズをモデルにしています。




