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「海賊では、無かったのですね」
「表向きはそうして置くのが一番良かったんだと思います」
「……色々思う事があり過ぎて、何から話したら良いのか……」
昼前には帰途に着いた。午後にはお茶会の予定が入っているから、この後少し忙しなくなるだろう。
ただ、急いでしまうのが勿体なくて、おそらくそれはキースも同じで、だからゆっくりと馬の背に揺られながら帰り道の行程を長引かせている。
話したいことも、聞きたいことも、たくさん溢れるようにあるのにどれも上手く言葉にできない。
キースを育てたのはあのヴェルナ家だけではなくて、人々を含めて王都の全てがそうなのだろう。
最初の朝日をどこで見るか悩んで、あの場所に決めたことの意味が今ならもっと深くマリアの心に響く。
「悲しい出来事はありましたけど、そこから生まれた英雄がいたから今の騎士があります。
海賊と戦う海軍は当時からありましたが、技術は立ち遅れていて戦争になれば負けるのは明らかでした。そして、騎士は形骸化の一途を辿っていました。中央大陸と違って国を守るという切実で重大な仕事を長くしていませんでしたから、すっかり腑抜けてどうにも身の置き所がない貴族子弟が体面を保つためだけになる名誉職になっていました。
それでも治安維持の一角は担っていたらしいですけれどね。
今と比べると人口も少なかったですし、犯罪と言っても窃盗や酒の上での喧嘩が大半で、大概は神殿が中心になって作った自警団で対処していたらしいです。
でも、エトワールと国交を結んだことで良いものも悪いものも入って来てしまって。その悪いもののせいで、王都の治安は急激に悪化してしまったんです。それまで大それた悪事など知らずにのほほんと生きて来たから、そういうものに王家や貴族を含め誰もが慣れていなくて。
そういう状況でしたから元々、早急な変革は求められていたんです」
「小さな英雄テオは、ちょうど良い旗頭だったのですね」
「そうですね。でも、実は英雄テオは一人じゃないんですよ」
「他にもいたのですか?」
「テオって言うのは、元々昔語りにある本物の騎士に憧れた貴族の子供たちの集まりだったんです」
マリアにはピンと閃くものがあった。御伽話のように語り継がれる、民の危機に颯爽と現れては獅子奮迅の働きで敵を退け、礼も言わせずに立ち去る護民の騎士。物語の背景から中央大陸のもので、恐らくは先祖と共に海を渡った。
元々名前が似ていると思ったのだ、憧れてそう名乗ったのかと思う程度には。
「もしかして、護民騎士テオドール?」
「はい、つまり王都の子供たちと一緒になって“ごっこ遊び”をしていたんですよ」
まさかの事実にマリアは少し衝撃を受けた。
英雄とまで讃えられた雄々しくも誇り高い少年騎士を思い描いていたのに。
「……ちょっと知りたく無かった気がしますわ」
「あはは、そうですよね、せっかくの英雄テオの印象が崩れちゃいますよね」
笑うキースから伝わる優しい振動に身を任せながら、でも、とマリアは思い直した。
マーサ達の口にする“ヒヨコ騎士”という親しみを込めた呼び名は、もしかしたら英雄になる前からのものだったのかも知れないと。
それはとても掛け替えのない、素晴らしいもののように思えた。
「でも、憧れが本当に攫われた子供たちを救ったなら、本物の騎士になれたのなら凄い事ですわ」
「うん」
答えたキースの小さな相槌は、マリアの耳のすぐ横への口づけと一緒だった。
腰に回されたキースの腕に少し力が入って、ますます抱きしめられているような感じになる。
マリアは顔が赤くなるのを感じた。胸の鼓動が忙しない。
「あのね、マリアさん」
「はい」
「憧れや理想って、それだけじゃ現実はどうにもならないけど、それでもそれがあるのと無いのじゃ全然未来が違うと思うんです」
「はい」
「僕はマリアさんとの話を頂いた時から、相思相愛の夫婦になるのが憧れでした」
「……はい」
「でも、今はもっとたくさん色々憧れています。兄上を支える義姉上のように血筋だけじゃなくて必要とされる自分になりたい。王都のみんなにとってのヒヨコ騎士様のように、揺るぎない信頼で結ばれたい。
それ以上に単純に、本当に単純にマリアさんの特別になりたいんです。誰から見ても僕がマリアさんの特別だと思えるように、それから僕自身が思えるように。
だからマーサさん達が僕らを騎士に育ててくれたように、マリアさんも僕を育てて下さい。そうなれるように何が必要なのか教えて下さい。僕も考えますけど、どうしても僕が考えるマリアさんの視点になってしまうから」
どうして今なんだろう。
マリアは思った。今ならきっと恥ずかしいなんて思う間も無くキースに抱き着いて、唇に口付けだってできるのに。
それから悔しい。どうしてこの期に及んでキースがマリアにとって特別で掛け替えのない人なのだと思ってくれないんだろう。
それにマリアだってキースと同じように思うのだ。今日、あの光景を、キースがどんな思いを王都に、王都の人々に抱いているか知ってしまったのだから。
あんなふうに、キースにとって価値のある自分になりたい。誇れる伴侶になりたい。
その憧れを、どうしてキースは気付かないのだろう。
「キース様は、時々馬鹿ですわ」
「割といつでも馬鹿だと思います」
「何故で自分でおっしゃるの?」
「だって本当のことですよ。最近は特にひどくて、マリアさんと比べてどっちが年上なんだかって落ち込んだりします。マリアさんが絡むとあまり冷静じゃないし、客観的になれません。どうしてくれるんですか。
あれです、親馬鹿ならぬマリア馬鹿です」
マリアは恥ずかしいやら悔しいやらで本格的に腹が立ってきた。
だって、まるでキースが一方的にマリアを好きで、マリアの方はそうでもないような言い方だ。
「ひどい言いがかりですわ、私だってキース馬鹿です!」
「え、そうなんですか?」
「そうです! 全くずっと調子を外されっ放しです! どうしてくれるのですか!」
「どうもしません、嬉しいです」
見えないけれど、きっとあの気の抜けるような、とびきり幸せそうな笑顔。そう思える声音で囁かれて、マリアは黙り込んだ。
そういう切り返しは卑怯だと思った。
「……本当は、休戦協定なんて思っていませんでしたの。ただ、キース様以外がいる前で謝りたくなかったの。だって八つ当たりだなんて格好悪いでしょう? わたくしだって格好つけたい時もありますわ。
ですから、ごめんなさい。
キース様が母のことを気にかけるのはキース様のお立場なら当然だって、分かっております。
慈善会の品が思うように進まなくて、苛々してましたの。
それもあって。
ほら、わたくしだって子供のようで恥ずかしいわ」
それは本当に自然にマリアの口から出た。元々謝らなければとは思っていたから、一度話し始めてしまえば素直に謝れた。
「八つ当たりだったんですね。いやあ、なんか嬉しいな」
すっきりした気分と気恥かしさでいたマリアに、キースが意味不明なことを言って嬉しそうに声を弾ませる。
「どうしてそうなりますの?」
「だって、それって僕に甘えて下さったってことでもありますよね?」
なるほど、本当にキースは色々と前向きだ。
「……そうかも知れませんわね」
「きっとそうですよ。どんどん甘えてくださいね」
「嫌です」
「えっ」
「キース様も同じくらい甘えて下さらないと不公平ですわ」
黙り込むキースの反応に、やり返せてマリアはちょっと満足した。
「僕も、ちょっと先走ったのでごめんなさい。
マリアさんが話題に上げるのを避けていたのは気付いていたんですけど。だからこそ話さなきゃいけなかったのに、怖くて。
うん、拒絶されるのが、きっと怖かったんです。
マリアさんにとって大事なことに触れさせてもらえないことが」
思ってもいなかったことを話されて、マリアは瞠目した。
考えてみれば、気遣いの人でもあるキースが気付かないわけがないのだ。だとすれば、その話題に触れさせなかったのはマリアの態度が原因だ。
「拒絶なんて、そんなことはありませんわ。そうではなくて、これはわたくし自身が受け入れられていないだけで」
やはり少し考えるだけで気が重くなる。
憂鬱をはねのけるように、一呼吸置いて勢いをつける。
「でも、キース様が一緒なら大丈夫な気がしています」
「そう言ってもらえると、嬉しいです。でも、最初は義父上のことを話しませんか? まだ全然知らないんです、義父上のこと。ミラン兄上から聞いた話がほとんどで」
マリアは嬉々として絵を描きながら蚕や両生類の話をしてくれたミランのことを思い出した。
あの人と父が友人だということが、とても不思議に思える。二人の会話が想像つかないのだ。
「そういえば、オオサンショウウオって爬虫類ではなくて両生類なのですって。ご存知でした?」
「え!? そうなんですか? 僕はてっきりトカゲの仲間かと思ってました」
「分かりますわ、だってサラマンダーの名の方が有名ですもの」
「ですよね」
「わたくし正直父のことは良く分かりませんの。わたくしの方がミラン卿に教えて頂いて欲しいくらいだわ」
「じゃあ今度ミラン兄上を離れに招待しましょう」
「賛成ですわ」
そうして他愛のない会話を弾ませていると、不意に気付くのだ。
結局キースはこうしてマリアをこっそり甘やかす。段階を踏ませてくれる。
そしていつだってマリアの味方だ。
欲張りで、なかなか満足してくれない理想の高いこの人が、少しでも多く自信を持ってくれたら良い。
だからマリアは勇気を持って甘えてみようと思った。
「キース様」
「はい」
「今すぐ叶えて欲しいお願いがあるのですけれど」
「はい、なんでしょう?」
「口付けが欲しいわ。唇に」
斜め後ろを見上げるとキースはあっけに取られた顔をみるみる赤くし、それから視線を逸らして一つわざとらしい咳払いをした。
マリアは思わず小さくふふっと笑い、それから目を閉じた。
鼓動は高鳴って呼吸が浅くなるような胸の苦しさはあるけれど、それ以上に恋を噛みしめる喜びに満ちていて、それを今この瞬間に感じられるまでに余裕が出来たことにしみじみとした感慨があった。
慣れとは、素晴らしいものである。
四角四面の淑女にさえ、このような蛮勇を与えるのだ。




