68
「みんな、お客さんだよ。騎士のキース様、覚えてるだろ。その嫁さんだよ。王都は初めてだそうでね、ヒヨコ騎士時代からの旦那の話を聞きたいとさ!」
マーサが声を掛けると、そのテーブルにいた女性達が一斉にマリアに注目した。
「なんだい、そりゃめでたい話だね。あの子がもう結婚かい」
「あの子のひよっこ時代を知りたいって? 良いさ、いくらでも話してやろうじゃないか」
子供を何人も産んでいそうな逞しい女性達は、マーサと似たように力強く笑ってマリアを歓迎してくれた。簡単な自己紹介を受けるに、だいたいが職人の妻であるようだ。それぞれ、持参した籠に溢れるように焼く前のパンと思しきものを詰め込んでいる。朝の屋台で売っていた平たいパンと同じように丸い形だ。それとは別に裁縫道具や縫い物も持ってきてるらしく、仕立て途中の服や、擦り切れて穴が空いたズボンなどがテーブルに広げられていた。
その中でも目を引くのは先日ドロテアのところで見たのと同じような、刺繍を施された細長い布であった。半分ほど刺繍で埋められたそれは繊細さには欠けるが、彩りも華やかで力強い感じのするものだった。
「なかなか片付かないでいた末の娘がね、とうとう嫁に行くことが決まったんですよ。末娘はキース様のことも知っているし、そのお嫁さんのあなたに刺してもらえたら嬉しいわ」
そう嬉しそうに笑ったのは、石工職人の妻だと言った初老の女性だ。
もちろん、すぐに快諾した。
聞けば、順番待ちや焼けるまでの間を使ってこうやってお喋りしながら針仕事をするのが楽しみだという。風が強い日や雨の日は、すぐ近くの神殿が待機場所になるらしい。
「流石に大雨の時はパン焼きもお休みだけどね、そういう日は滅多にないよ」
マリアはその珍しい豪雨の日の出来事をちらっと思い出した。
皆がそれぞれ針仕事を始める中、マリアは石工職人の妻、レダから針を借りて刺繍に取り掛かった。生地は黒い毛織物で、刺繍に使われる糸も毛糸だった。力強い印象は、この太い刺繍糸の存在感によるものかと思いつつも、慣れた刺繍とは勝手が違うので少し戸惑った。やり始めればすぐに感覚がつかめたし、下絵があるから特に迷うこともない。それに糸が太いこともあって、面白いように刺繍が進んだ。
「あなたの旦那さんは、それはもう可愛らしいヒヨコ騎士様だったのよ。他の子達に比べて頭一つ小柄だったのもあるけれど、最初のころなんか私ら庶民のおばちゃん相手にえらい人にでも会ったように緊張しててねえ」
「そうだった、そうだった、横柄な態度の子もたまにいるからね。そういう子達も最終的には立派な騎士様になって巣立ってったもんだが」
「ふん、単に頭の足りないお人好しなだけだね」
「そういうあんたが一番可愛がってたじゃないか」
和気藹々と、懐かしげに次々と口を開く女性たちに、マリアは微笑んだ。
「皆様、随分と夫に良くして下さったのですね」
「違うよ、良くしてもらったのは私らの方さ。あんたの旦那だけじゃない、ほかのヒヨコ騎士達もみんな私らの守護天使さ」
「あんたは他所の育ちだから知らないだろうけどね、王都の住人はみんな騎士学校の生徒を愛して、誇りに思ってるんだよ」
「さあ、マーサの出番だよ」
「そうだね、語り部マーサの仕事だ」
「久しぶりに聴けるなんて儲けたね」
「ふん、あたしゃ聞き飽きたけどね」
「そういうあんたが毎回一番熱心に聞いてるじゃあないか」
「良いから、始めとくれよマーサ!」
「そう言われちゃ仕方ないねえ」
姦しく次々に喋る女性達に促されてマーサは一つ咳払いをする。
「みんな!! 語り部が一人、マーサ・ギエムの話を聞きたきゃ寄っといで!」
その掛け声に、瞬く間に人々が集まってきた。職人見習いも、孤児院の子供たちも、騎士学校の生徒達も。
そして集まったのを見計らって、マーサは重々しく低い声で語り始めたのだった。
「時は今を遡ること二百年。王都を騒がす怪異があった。
曰く、広場で遊ばせていた子がほんの少し目を離した隙に消えた。
曰く、子守に表を歩いていた子が赤子を残して消えた。
曰く、水汲みに出た子が戻らず、井戸端には桶が転がっていた。
子を失った親は悲嘆に暮れ、その慟哭は王にまで届いた。
王の命を受けた騎士達はすぐさま動き、怪異は治まったかに見えた。
消えた子の行方は杳として知れず、だが新たに消える子は絶えた。
しかし、その中で一人、怪異はまだ続いていると気づいた者がいた。
その名はテオ。
我らが初代ヒヨコ騎士様、その人だ」
朗々と語るマーサは、そこでにんまりと騎士学校の生徒達に笑いかけた。
周りに静かな笑いの波が起き、生徒達は面映ゆそうに、だが誇らしげに胸を張った。
聞きながら、マリアはすぐにあることに思い当たった。エトワールと国交を結んでから頑なに我が国が全面的な交流を拒み、貿易に厳しい規制を設け続ける、その原因になった事件だ。
当時、新たな土地を求めて中央大陸の国々は海へと繰り出していた。長く続いた戦乱に次ぐ戦乱に疲弊し、その不毛さに気付いた国々は、中央大陸内で略奪し合うことから外の世界の富を奪うことに舵を切った。
航海技術の発達もあり、多くの島や陸地を発見し、現地の人々を奴隷として支配していた。それらの地域の多くは文明が遅れており、また外見も肌の色などに大きな違いがあったため、奴隷を連れ帰ることは穢れを連れ帰るようなものとして忌避されていた。
だが、時代は中央大陸の内部も大量の奴隷を必要としていた。造船を始め各方面の技術の発展から鉄や石炭の需要が高まったが、鉱山で働く鉱夫は重労働で常に命の危険があるため、しばしば刑罰として犯罪者が就く職業でもあった。
そして狭い坑道でも仕事ができ、管理しやすい子供が働かされていた。口減らしに売られた貧農の子供たちも多かったというが、それ以上に攫われて売られた子供の方が遥かに多かったと言う。
流石に国益のためとして目を瞑るには行き過ぎた状況に人攫いから子供奴隷を買うことは取り締まられるようになったが、そのせいで我が国が目を付けられてしまったのである。
先祖を同じくするため外見はほとんど変わらず、言葉も似ていて、国交を結んだばかりで事情に疎く、騙しやすい田舎国家。格下と完全に見縊られていたのだ。だから王家のお膝元にも関わらず、人口が一番多く子供も多い、貿易商としても入り込みやすい王都で子供たちを攫い、借金の証文を偽造して奴隷として売り払ったのだ。
全て、歴史としてマリアの頭の中に入っていた。そうだ、マーサから聞く前から知っていたはずだった。それなのに、それはマリアにとって現実ではなかった。遠い過去の話は知識でしかなくて、そういったことがもう起こらないように対策されている。
だからデルフィーネの地と民を第一に考えるマリアにとっては、それは重要なことではなかった。
「テオは未だ消え続ける子供がいることを知っていた。
孤児院の子供たちだ。
騎士を志す少年テオは一計を案じ、孤児たちに紛れ込んだ。
そして孤児たちと共に攫われ、密かに船に運ばれて船倉に閉じ込められてしまった!
未だ船は港に留まっていたが、いつ出航するかは分からない。
しかしテオは何も持っていない、哀れな孤児ではなかった。
寝静まる頃に隠し持っていたナイフで綱を切り、捕まっていた子供たちと一緒に甲板に出た。
そして、そこに見たのは海の向こうのある王家の紋章が描かれた旗。
テオは即断した。
この船にグレイスリー王国が立ち入ることは出来ない。
よっぽどのことがない限りは!
だから燃やしたのだ。
松明の火をマストに投げ、床に投げ、そして叫んだ。
女神ディアティアの愛子たちはここにいる!
愛子たちを連れ去らんとする者がここにいる!」
マーサの臨場感溢れる語りと、魂のこもった叫びに広場が静まり返る。
一同を見回し、たっぷりの空白を取ったマーサは再び厳かに話し始めた。
「その後テオは王都に戻ってきた。
攫われた子供たちと共に、そして国王の親書と共に。
そこに綴られていたのは、謝罪と誓約であった。
中央の大国に比べ弱き我が国を守るため、真実を記録することも公表することも出来ぬと。
そのかわりに二度とこのような事が起きぬよう取り計らうと誓うと。
そして英雄であり新しき護民の騎士たるテオの志を継ぐ者たちを育てると誓うと。
そしてまた、不甲斐無き我らにかわりて真実を語り継ぐことを汝らに願う、と」
ほう、とあちこちから感嘆のような溜息が聞こえた。マリアもまた、そっと張り詰めていたものを吐き出した。
二百年前にエトワールから嫁いで来た王妃は、きっと知らなかったのだろう。不平等な条約や、属国化しようとする本国の動きを牽制し、グレイスリー王国の地位向上に寄与したその功績からも窺い知れる。彼女は故国に泥を塗られたのだ。どれほど口惜しく、憤ろしく、悲しかった事だろうか。
醜聞を隠す見返りで故国から国益を引き出すため、また己の立場を守るために、真実は表向き葬られることになった。
隠し立てが難しいほどに騒ぎを大きくしたテオの機転も素晴らしいが、こういう形で真実を残そうとした王と王妃の決断も感じるものがあった。
「これが騎士学校設立の本当の理由であり、騎士学校の生徒たるヒヨコ騎士が子供らの守護者であり、我ら王都の民の守護天使である所以である」
そう結んだマーサは、皆を見回してから唇に人差し指を当てた。
「他所の人間には内緒だからね!」
お決まりの台詞なのか、慣れた雰囲気で周囲がどっと笑いに沸いた。
「さあ、散った散った! そろそろ最初のパンが焼き上がるよ!」
マーサは威勢良く解散を宣言して、パン焼き窯の方に向かった。
確かに香ばしい良い匂いが漂ってきている。人々もそれに気づいたのか、慌ただしく動き始めた。
マリアは語りの余韻を少し引きずりながらも刺繍を進める。
「……今はね、もう子供があちらへ攫われるようなことはないけれど。それでもこうして将来の騎士様がすぐ近くで一番弱い立場のあの子達の近くにいてくれて、私らにも気を配ってくれる事がとても心強いのよ。
困りごとや不安なこと、話した全部が全部ではないけれど、ヒヨコ騎士様から上に話が行けば対処してくれることも多いの。
だから私は安心して五人の子供たちを育てられたわ」
そう話してくれたレダは、とても誇らしげだった。
マリアはキースに話したいこと、キースと話したいことが心の中に溢れてそっと唇を噛んだ。
その土地を愛するということ、故郷を愛するということ。
受け継がれた歴史を誇りに思うということ。
そして、それを守っていくということ。
マリアが目指すべきものの一つが、確かにここにはあった。
思わずキースの姿を探せば、孤児院の子供たちの傍にその姿があった。
何事か話して、子供たちに楽しそうに笑いかけている。
そして、ふとマリアの視線に気付いて手を振ってくれた。
そのことを、とても幸せだと思った。
だからマリアは、もう一度気合を入れてレダの末娘のために刺繍を刺したのだった。




