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やがて、朝を告げる鐘がすぐ近くで鳴り響く。神殿全体が震えてでもいるような荘厳な音だ。
完全に姿を現した太陽は悠然と人々の営みを見渡し、惜しげも無くその慈愛を注ぐ。気配だけだった人々の姿が、通りに、広場に見え始めて声が聞こえてくる。
その光景は、マリアにはまるで奇跡のように思えた。魔法などという小さなものではなく、神々の存在をありありと感じるような壮大で雄大な奇跡だ。
光が差すだけで、色彩が生まれる。経験的に知ってはいても、当たり前すぎて自覚することのない感覚だ。
それをこれでもかと強烈に訴えかけてくる。あらゆるものを超越する美しさの生まれる瞬間、純粋で原始的な喜びの生まれる瞬間、この世界全体が神々に愛されているのだと証明するような、感動的な光景だった。
マリアは、これほど圧倒的な美を見たことがなかった。
そしてキースの指先が目元に触れたことで、初めて自分が涙をこぼしていたことに気付く。
そっと涙を払われた瞳でキースを見上げると、照れ臭そうに嬉しそうにマリアを見つめている。
言葉は、今ばかりは要らない気がした。だからマリアは黙ったままキースの背に両腕を回して抱きしめた。
キースもまた、無言でマリアをそっと抱きしめ返してくれた。
登りと違い、下りはゆっくりと階段を降りた。
「実はどこで朝の最初の光を見るか、ずっと悩んでいて。王都全部を見渡せる西の丘からの眺めも素晴らしいし、東の丘だと王都には背を向けてしまいますけれど、王家の森の向こうから昇る朝日も清々しくて捨て難いし。
でもやっぱり、せっかく王都で夜明けを見るなら街中が良いなって思ったんです。それに、僕にとって王都は住人を含めての大事な故郷なので」
「とても感動しましたわ。太陽が昇る光景の素晴らしさはいくらでも書物に見つけることが出来ますし、どんなに素晴らしいものだろうかと夢想はしておりましたけれど」
「実際に見ると、こう、こみ上げるものがありますよね。特に、大変な思いで長い階段を登った後だと余計に」
「まるで登山のようですわね。冒険家ストームスの手記にも、大変な思いをするからこそ山頂からの眺めはより一層素晴らしいものに感じると書かれてありましたわ」
「え!? 意外です、マリアさんがそういうのを読むなんて」
「教材でしたのよ。冒険に向かうためにストームスは様々な準備や訓練を行ったのですけれど、それを領地経営に準えるんです。先生方から予め最終目標と、資金や人材などの手持ちの札を提示された上で、ストームスの行った様々な準備な訓練を当てはめていく」
「へえ! 難しそうだけれど、面白そうですね」
「ええ。大変でしたけれど、その分やりがいも達成感も大きかったように思いますわ。机上のことですから、実際には思ったようには行かないでしょうけれど」
階段を降り終えると、せっかくなのでそのまま礼拝堂に入った。驚いたことに既にちらほらと人がいて、思い思いに祈りを捧げている。
中央神殿はその名の通り、全ての神々が祀られている唯一の神殿で最大の規模を誇る。
幸運の女神ユーステラは人気があるので、中央近くにその巨大な像がある。二人に縁が一番深いと信じている女神様に祈りを捧げるのは、まずもって当然の帰結と言えよう。
荘厳な石造りの神殿は見応えもあり、柱に刻まれた古代象形文字の文様も芸術的で美しい。時間があれば、一日中でも見ていられそうだった。
その時までには、是非ともキースにもらった古代象形文字の一覧表を暗記しておかねば。マリアはそんな風に考えて、またひとつ楽しみが増えたと笑みを浮かべた。
広場に出ると、上から見た時とはまるで違う喧騒にマリアは驚いて固まった。
何もなかったはずの広場には、簡易の商店とでも言おうか、木組みで作った小さな屋根付きの台が立ち並んでいた。
「これが、朝市というものですの?」
「残念、あれは屋台ですよ。ほら、いい匂いがするでしょう? ここに出ているのは全部食べ物屋さんです。朝市はディアティア様の神殿の広場で、五日に一度です。ここは毎朝屋台が出て、朝食を買って済ませる人々が集まってくるんですよ。ほら、あの白い幟があるところがパン屋さんです。焼きたてを売ってますよ」
マリアはしっかりとキースと腕を組んで、その喧騒に恐る恐る足を踏み入れた。
忙しさを感じさせない優雅さや落ち着きを求められる生活をしていたため、駆け足気味で行き交う人々というのはマリアにとっては荒波のようなものだ。
キースの腕を離してしまったら、きっと寄る辺ない小舟のように瞬く間に波に飲まれてしまう。
そんなマリアとは裏腹に、慣れているキースはひょいひょいと上手い具合に人を避けて進んで行く。
辿り着いた白い幟の屋台には、まだ湯気が出ている丸くて平たいパンが山積みにされていた。
「手袋を外して」
キースに言われて手袋を外し、外套の内側のポケットに仕舞う。
見慣れない厚手の少し野暮ったい灰色のジャケットを着たキースは、とてもこの場に馴染んでいた。改めて周りを見回して女性の姿を探してみる。男女問わず灰色や茶の服が多く、マリアは密かに安堵のため息を漏らした。
二人の前には二人組の男がいて、パン屋の店主と思しき恰幅の良い壮年の男と年末の話をしていた。最後にパンを受け取って小銭をやりとりし、去ってゆく。
どうやらこの屋台のパンは、五十シーリンらしい。シーリンは金銭の最小単位なので、マリアには馴染みがない。百シーリンが一ペイリンで、百ペイリンが一エリンだ。小麦の相場などは一トン当たりで考えるし、領地経営の予算などを考えるとエリンが一番馴染みのある単位ではある。だが、実際にその金額を扱ったことはないし、硬貨そのものも見たことはなかった。
デルフィーネにおける領民の平均所得は四エリン前後だったはずだが、このパンが高いのか安いのかマリアには見当もつかなかった。
パン屋の主人はキースと面識があるらしく、キースを見て大きく歓迎するように両手を挙げた。
「や!久しぶりじゃないですか、騎士様! 女連れとは隅に置けないね、非番ですかい?」
「おはようございます、デールさん。いやあ、騎士稼業からは足を洗ったんですよ。彼女が僕をお婿にもらってくれまして」
随分と気安い雰囲気での紹介に、マリアは面食らいつつも赤面した。
「へえ、そりゃめでたい! こんな別嬪さんが嫁さんだなんて羨ましいねえ!」
店主は豪快に笑って、祝いだからとひとつ分を無料にしてくれた。
渡されたパンはまだ温かく、両手を合わせたよりも一回り大きかった。香ばしい匂いがふわっとマリアの鼻腔をくすぐる。
キースは鈍色の硬貨を一つ渡し、店主に礼を言って後ろに並ぶ客に場所を譲った。
「このパンはこのまま食べるんじゃなくて、屋台を回って好きな具を載せてもらうんです。僕のおすすめを紹介して良いですか?」
勝手の分からないマリアは、一も二もなく頷いた。
具材を売る屋台の大半は、何かの肉を焼いたものだ。羊、鳩、兎、鶏、色々な種類があった。その中でキースが選んだのはローズマリーをたっぷり使われた羊の肉で、ハーブのいい香りがとても食欲を刺激する。
それから煮込んだり酢漬けにした野菜を売る店もあった。
キースがそこから選んだのは、酢漬けのキャベツだった。
二種類の具材をのせられたパンを、キースは二つ折りにしてみせる。マリアもそれに倣って具材がこぼれ落ちないように慎重に二つ折りにした。
「こうやって、手で持ってかぶりつくんです」
キースは半月型になったパンの端にかぶりつく真似をして見せた。
なるほど、こうやって二つ折りにして挟んでしまえば具を落としにくくなるし、手を汚さずに食べられるのかとマリアは感心した。
「でも、この人混みで食べ歩きはマリアさんには難しいでしょうから、どこかに座りましょう」
そうしてキースに手を引かれ、向かったのは中央神殿の入り口前の広々とした階段だった。




