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早朝に落ち合う約束をしたので早めに就寝したが、色々と気になる事が多くて浅い眠りしか訪れなかった。それはそれで予定通りに目覚める事が出来て良かったのだが。
月明かりで置時計の時間を確かめて、ランプに火を灯す。
いずれ領内を歩き回るようになれば必要になるだろうと作っておいた、一見地味で質素な毛織物の外出着が早速役に立つ。前ボタンだけで脱ぎ着できるものなので、カチェリナの手を煩わせなくて済む。色は葡萄茶で地味だが質は良く、暖かい。
まだ朝の気配のない外は、かなり冷え込んでいるはずだ。しっかり防寒するようにとカチェリナが出しておいてくれた真冬用の外套、ブーツと革手袋、それから目の詰まったしっかりした毛織のショールで身支度を整える。
どれも色は茶系で落ち着いた感じにまとめられているから、目的地がどこだろうと悪目立ちすることは無いだろう。
ブーツは羊の毛皮で作られた柔らかくて暖かいもので、試着した時から実際に履いて出掛ける日が楽しみだった。
未だ暗い外に出ると、息が白かった。
ランプを掲げて待ち合わせ場所である厩舎前に行くと、既にキースは馬と一緒に待っていた。
マリアは乗馬を嗜まないので、馬に慣れていない。ましてや一際大きな体躯のキースの愛馬には、少し怯んでしまう。暗くてよく見えない分、余計に怖れを感じる。
大事な相棒だというのは、聞き知っているのだが。
そんなマリアの戸惑いなど知らず、キースは嬉しげにマリアの手を取った。小さく抑えた声でおはようとマリアに囁き、そのまま頬に口付けをする。
マリアもまた、馴染みつつある朝の挨拶を返す。
いつも通りの気負いが無さそうなキースに、マリアもほっとして緊張よりも期待感に思わず笑みが浮かぶ。
馬に相乗りも初めてなら、こんな時間に出掛けるのも初めてだ。
それも目的地はまだ知らされていないのだから、ちょっとした冒険だ。
月が結構明るいからランプは要らないということで、火が消されてしまうと闇が一気に濃くなった。
先にキースが馬に乗り、マリアは差し出されたキースの手を握る。予め用意されていた踏み台に足を掛けた。
緊張しているのが繋いだ手から伝わったのか、キースが少し強めにマリアの手を握り返してくれた。
「左手はロックの鬣をしっかり掴んで下さい」
「鬣を? 痛がったりはしないんですの?」
「大丈夫です。僕も散々掴んで乗ってますから」
マリアはふっと白い息を吐いてから、思い切って左手で鬣を掴んだ。掴んでみると、艶やかで柔かそうな見た目とは違ってかなりしっかりした感触が手袋越しにも分かった。
「ワルツの三拍目に思いっきりターンを決めるつもりで踏み台を蹴ってください」
「分かりましたわ」
マリアは心の中で三拍子を唱えて、身構えた。
「それじゃ行きますよ、一、二、三!」
ぐん、と勢いに乗って力強い腕に引き上げられる。
思わず目をつぶってしまったマリアは、気付けば上手いことキースの腕の中に収まっていた。
最初は少し怖かったが、マリアの腰にキースがしっかり片腕を回して支えてくれているので、すぐに多少の余裕はできた。緊張は完全には解けないが、片手でも慣れた様子で手綱を握るキースにまるで背後から抱きしめられているような格好なので、そちらの方が気になって鼓動が忙しなく鳴る。
「どこに向かいますの?」
「最初の目的地は中央神殿です。
マリアさん、せっかく初めての王都なのに全然見れてないですよね。デビュタントの舞踏会に婚姻式に社交にって、次々と予定に追われて。
もちろん劇場も王宮も、それからラティアス植物園も王都には違いないですけど。
僕にとっての王都はそういうものとはちょっと抱いている印象が違うんです。言葉で説明するより感じてもらった方が早いから、行ってみてのお楽しみです」
気性が荒い、なんて聞いていたけれど、そんなことを全く感じさせない安定感のある背に揺られ、キースの声に後ろから耳を擽られる。
斜め後ろから囁くように話されると、なんだかいつもと違って妙に艶めいて聞こえる気がする。慣れないマリアは、ちょっとそわそわしてしまう。
「王都のことは、隅々まで知っていらっしゃるのでしたわね」
「はい、そこは胸を張って言いますよ。学校時代から王都中を走り回らされましたから」
キースは道中、騎士学校時代に雑用係として走り回った思い出話をしてくれた。騎士学校と聞くと、とても厳格で大変な印象を持っていた。確かに大変そうではあったが、キースの語る思い出はだいたい愉快なものが多くて、マリアは度々笑ってしまい、白い吐息が夜空に溶けた。
やがて中央神殿に真っ直ぐに続く大通りに出る頃には、人々が起きて活動している気配が感じられた。少しずつ東の空が明るくなり始めていた。
日も登らないうちから、これほど人の気配がすることにマリアは驚いた。それに、ちらほらと既に煙突から煙が立ち上っていて香ばしい匂いが漂ってくる。
「皆、早起きですのね」
「ええ、灯り取り用の油は庶民には高めですから、日の出から日の入りまででなるべく全て終わらせるんです。特に冬場は日が短いから、暗いうちからみんな動き出します」
なるほどとマリアは初めて知る庶民の実態に感心した。マリアも成人前は早寝早起きの規則正しい生活をしていたが、その理由は全く違う。貴族が使用人たちに頼っている部分も全て自分たちで賄うのだから、時間はいくらあっても足りないように思えた。
「もう朝食の支度をしているのですね」
「朝食というか、パンを焼いているんです。今あちこちから流れてくる良い匂いは、パン屋なんですよ」
マリアは改めて暗い街並みを見回した。十は白い煙が確認出来たので、随分とパン屋が多いような気がした。
「パンは買うのが普通なんですの? 自宅では焼きませんの?」
「大きな家なら自前のパン焼き窯があったりしますけど、薪代もかかりますし管理も大変なので。忙しい商家なんかだと買って済ませます。
そうじゃなければ、地区ごとにある共同のパン焼き窯を使います。薪代を住人が出し合って大量に焼くので、安く済むんです」
「公共施設なのですね。知らなかったです。水車や粉挽き小屋に、貯蔵庫などについては知っておりましたけれど」
「パン焼き窯は神殿の管轄だから、あまり領地経営とは関係ないですからね」
「でも、とてもよく考えられたやり方だと思いますわ」
生活の知恵、というものなのだろうか。その言葉は知ってはいたが、あまりピンと来ていなかった。マリアはようやくそれを実感できたような気がして、少し嬉しくなった。
デルフィーネの地に帰ったら、パン焼き窯についても見聞してみたい。
中央神殿前の広場手前で、二人は馬から降りた。広場入口横に騎士団の詰所の一つがあり、そこに馬を預けた。
「ちょっと急ぎますね」
そんなキースの言葉に急かされて入った中央神殿だったが、それから先が大変だった。長くて急な螺旋階段を随分と登らされたのだ。登り切ったときには、季節を忘れるくらい体が熱くなって、額に汗がうっすら滲むほどだった。
「マリアさん、こっち!」
「待って、呼吸が」
もう少し落ち着く時間が欲しいと言おうとしたマリアを、待ちきれなかったのかキースが抱き上げた。
マリアは驚いて声を上げる間も無くキースの首にしがみつく。
走るキースに揺らされて、思わず目を閉じた。
しかしすぐにその揺れは止まって、そっと床に降ろされる。
「見てください、ほら」
その言葉にそちらを向けば、眼下に広がる王都の街並みを朝日の最初の光が染め始めていた。
東の地平から、闇を払いながら光が溢れる。
明けの明星が最後の輝きを放ち、朝が圧倒的な輝きで街を色付かせていく。
暗く沈んだ鈍色の壁が白く輝き出し、くすんだ茶のように見えた屋根が鮮やかな橙に染まる。
その美しい光景に、しばし言葉を忘れて二人は見惚れたのだった。




