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ミランの特別授業では、得るところが大変多かった。
初めて聞く昆虫の生態などは話術の巧さもあってとても興味深く楽しく聴けたし、昆虫だけでなく動植物全般にかなり詳しく、驚きと発見に満ちた時間を過ごせた。
中でも間違って思い込んでいた事柄を正せたのは大きい。
博物図鑑に載っていたアホロートルは幼生成熟したサンショウウオだとの記述から、単純にサンショウウオの成体を一回り二回り小さくして、丸みを増したようなものだと思っていた。
ところが、実際のアホロートルはもっと愉快な外見をしていた。
それからすっかり勘違いしていたのだが、サンショウウオというのは爬虫類ではなくて両生類だということだ。別名火トカゲ、サラマンダーなどとも呼ばれると書いてあったので、てっきりトカゲの仲間だと思い込んでいた。
そもそも両生類というものについて、マリアはよく知らなかった。童話や民話の挿絵に出てくるからカエルの姿は知っていたが、その幼生体については想像の埒外だ。
これもミランが丁寧に絵を描いてくれた。カエルと全く違うその姿にマリアは衝撃を受けた。足が生えて、手が生えて、尻尾が消えるという変化も驚くし、顔立ちがそもそも全く別物だ。
水の中で幼生時代を過ごし、成体になれば陸で生きる両生類というのは、まるで死を経ずに生まれ変わるがごとき変わりようなのだ。
生きる環境を変えることについても、人間という生き物である自分のことを思えば驚くしかない。おとぎ話ならともかく、人魚が人間になる話など全くもって荒唐無稽である。
そして、幼生成熟するサンショウウオはその変化を拒否した個体とも言えた。
ミランの描いてくれたアホロートルは、水の中で生きるために必要な魚と同じような鰓があり、まるで風にたなびく髪のように見えた。
そしてその姿は、マリアが想像していたよりもずっと愛嬌があって可愛らしいと思えた。
両生類の常識そのままに陸に上がる者たちは、鰓が消えてサンショウウオのあの姿になるのだという。
大人になることを拒否した永遠の子供。
それがアホロートルの正体だとするなら、それにキースが似ていると言ったミランの示唆するところは、思いの外深いのかもしれない。
そこに込められたキースへの情愛も。
脳裏に過るのは夢に出てくるサンショウウオだ。きっと次に夢に見る時には鰓があるに違いない。
正しく幼生成熟したアホロートルの姿で、人の悪意など全く知らぬげに人形や妖精相手におままごとをするのだ。
優しいおとぎ話のような光景なのに、懐かしさと慕わしさの他に覚えている感情が確かにあった。
目覚めると最初に気づく切ないような、悲しみの名残。
エペローナという名を得て姿を得たあの不思議な生き物は、本当は一体誰なのか。
思索に耽ることは、マリアは昔から嫌いではなかった。
よくよく内向きに思考が深くなりがちな子供だった。
閉じた世界で幸せな夢を繰り返す大人になれない子供は誰なのか。
拒絶することで平穏を保とうとした、その根源は何なのか。
本当はどこかで分かっていた気がする。
いや、あの家を出たからこそ目が開いたのかも知れない。
キースがミランによって目を開かれ、そのよく見えるようになった目で新しい世界へ旅立ったように。
考えることも避けてきた母親という存在と、向き合わねばならない時が来た。
あの夢は、それを告げているのかも知れない。
折しも外から子熊がやって来たのだ。
子熊はきっと、優しい夢に囚われたままでいたい姫君を助けに来た王子様だ。
わたくしも、あの人とならきっと。
本来は自分一人で立ち向かうべきことなのかも知れない。子供の頃からずっと棚上げにしてきた課題だ。
けれど、キースはマリアの運命の人なのだ。
怯えていた小さな娘に気付いてくれたあの人が、指先すら触れずに優しい陽射しだけを投げかけてくれたあの夜から、いつでもマリアの一番近くで寄り添ってくれていた。
思えば、素直に甘えることを自分に許したのは、記憶にある限りキース相手が初めてだった。
ミランと別れてから、マリアはただひたすらに歩いた。
冬の透き通るような空の青さと、近づいてくる冬の気配。
あの夢には、寒さも暑さもなかった。
日が傾いて寒さを増した空気が頬に心地良い。
歩き続けていたから体の中心は温かいが、末端の指先は手袋をしていてもすっかり冷えている。
マリアは自分の手を温めてくれたキースの両手を思い出した。
胸に抱えたスケッチブックをぎゅっと抱きしめる。
それはミランが預けてくれた大事なものだ。
珍しくて変わった動植物や昆虫を海の向こうで見つける度に、年の離れた小さな弟の為にミランが描きためた色あざやかな宝箱。
その中に“ラフ”も見つけた。
寒さも暑さも、苦しみも悲しみもある、けれどキースがいつも隣にいてくれる世界は美しく輝いている。
この輝きが消えないように生きていきたい。




