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晴天続きのまま十二月に入り、社交の方は年末を控えて少し緩やかなものになった。毎日何かしら予定がある日が多かった十月、十一月に比べ、何もない日というものが目立つようになってきた。
もっとも社交の予定がないだけで、やるべきことは多い。マリアはここのところ年末の慈善会の準備に追われていた。今はアルマ子爵夫人としての立場があるため、ヴェルナ侯爵家の主神である知恵の神ソフィケスの名の下に中央神殿での市に出す品を寄付するのである。
趣味の技術を生かした手芸品は貴族夫人が寄付する定番だ。そのほかにも庶民の生活に根ざした様々な品が並ぶという。
基本的にこの市は年末の庶民の出費をなるべく抑える目的もあり、日用品や食料品が多く並ぶ。特に日用品の類は神殿で修行中の職人達の作品がほとんどだ。食料品も冬に必要な長持ちする加工品が多く、燻製肉や漬物は専門にしている職人もいて、見習いが作ったものを格安で並べる。もちろん近隣の農村からも余剰の作物を持ち込んで売る農民の姿もある。
物を売るだけでなく、靴や鍋などの簡単な修理もその場で請け負う出店もあり、とにかくすごい人出になるらしい。
その中で貴族夫人達が担う役割は、普段なら庶民には手が届かない贅沢をほんの少しお裾分けすることだ。
よくあるものとしては、ドレスを仕立て直したりした時に出る端切れを利用したハンカチーフだ。落ちなくなってしまった染み汚れ部分を切り取って、新しい布で修理することもある。そういう時は比較的綺麗なところだけ残しておいて、刺繍で染みを隠したりして見た目を整える。
シルクは庶民には手が出ないものだし、女性達には人気がある。妻や恋人、娘のために買い求める人も多い。
マリアはドロテアにも相談して悩んだ末に、刺繍で作った薔薇のブローチに決めた。色鮮やかな刺繍糸は、たとえ綿でもそれそのものが高価だ。染料というのは基本的に安くはない。
まず厚手の麻布を三枚重ねて土台にし、裏面も美しく整った目が出るように薔薇を刺繍する。余分な布地は刺繍が仕上がった後に綺麗に切り落とし、縁をしっかりとかがる。これはレースの一種であるカットワークを参考にした。
薔薇の色は現実にはない鮮やかな青と、定番の赤の二種類だ。
裏側にピンを縫い付けて仕上げる。
目標数は二十だが、なかなか手間が掛かって進捗状況ははかばかしくなかった。
そういうこともあり、つい今朝はキースと口喧嘩のようなことになってしまった。
というのも、年が改まる前にキースがマリアの母と会う機会を得たいとマリアの父と祖父に手紙を出していたことを知ったからである。
婚姻式の日に挨拶も出来なかったことを、キースは気にしていた。
性格からしても常識的にもキースが気にするのは当然だということは、マリアにも分かっている。
むしろマリアの方が父に打診して場を整えるべきだった。
けれど、正直に言えば母についてはキースには触れて欲しくないところだった。
話した記憶もない、愛人との間に子供を作って好き勝手にやっているような母親だ。どうしてもキースの母親や家族と引き比べて劣等感がひどく刺激されてしまう。
折からの苛々もあって、つい理不尽な怒りをぶつけてしまった。
すぐに後悔したが、謝ったところでどうしたら良いのか分からないマリアはキースと口をきかないという暴挙に出ている真っ最中である。
部屋に籠ってブローチ作りに没頭しようと思ったが、結局気もそぞろで効率がすこぶる悪かった。
見かねたカチェリナに気分転換に散歩でもしたらどうかと薦められた。庭師がいい仕事をしているので、敷地内の小道も散歩にちょうど良く整えられている。
外に出てみると、風が無いせいか晴天の日差しで十分暖かかった。
マリアはふと思い立って、いつもは馬車で移動している本邸への道を歩いてみることにした。馬車も通るこの道は石畳で整えれていて、両側には常緑樹の生垣が配置されている。
時折鳥の声が聞こえる以外は、とても静かだ。
マリアはなるべく頭を空っぽにして散歩を楽しもうと、ゆっくり歩きだした。
空が、とても青い。
どこまでも高い空は、美しかった。
最近自分は身近なことばかりに気を取られすぎている。
昼間出かけても社交やキースの事にばかり気持ちを向けていて、こんな風にしみじみ空を見上げる余裕がなかった。
たまにはこうして一人で歩くのも良いものだ。
考えてみれば、デルフィーネの屋敷ではよく庭を一人で散歩していた。
そろそろあちらではアザレアが見頃を迎えるだろうか。
久しぶりにぼんやりと気を抜いて歩いていると、随分肩に力が入っていた事に気付く。
キースとのあれこれは刺激と喜びに満ち、同時にそれだけでは無い感情の竜巻きに翻弄される日々で、退屈とは無縁だった。素晴らしいことではあるが、休憩はやはり必要だという事だろう。
しばらく、ただただ冬の心地よい日差しと眩しさを感じながら歩いた。
やがて道は本邸へと向けて大きく曲がる角に差し掛かった。そこを抜けると一気に視界が開ける。
その視界の中に男性の姿が映った。キースの異母兄であるミランだ。
マリアは足を止めて、様子を窺ってみた。落葉して丸裸になった木の枝を見上げ、画板を首から下げて何やら熱心にスケッチしてる。
マリアは興味を惹かれてそっと近付いた。
熱中しているせいか、マリアがすぐ近くにまで来てもミランは気付く様子がない。その視線の先を探ってみると、黄色い色をした楕円形の何かが枝に張り付いていた。
なかなか綺麗な黄色だし、整った卵型をしている。多分、昆虫の何かなんだろう。
青い空を背景にして、黄色がとても映えている。
しばらくしてひと段落ついたのかミランがマリアの方を笑顔で振り返り、ちょっと驚いたように肩をすくめた。
「やあ、小さなレディかと思ったら、立派なレディの方でしたか。
大変失礼いたしました。気づいてはいたんですが、集中を切らすのが勿体無かったものだから。良い散歩日和ですね」
「ごきげんよう。ええ、風も無くて良いスケッチ日和ですわね」
マリアが微笑み返すと、ミランは目尻の皺を深くして嬉しそうに笑った。
「思いの外良いものを発見しまして、夢中で描いていました」
「昆虫の何かですの?」
「これはヤママユガという蛾の繭ですよ。綺麗な黄色をしていて形も整っている。女性にはシルクの原料を作り出す蚕の親戚と言った方が分かりやすいでしょうか。もっとも蚕の繭は色を白くして、もっとふわふわ毛羽立った感じですが」
「シルクの? 知りませんでしたわ」
マリアは驚いて再びその黄色い物体を見上げた。
「ならば知って下さい、レディ。皆様が熱狂する美しいシルクは素晴らしき昆虫の叡智の賜物なんですよ」
そんな風に誇らしげにしているミランを見ていると、キースをなんだか思い出してしまう。得意げな顔の、その表情の雰囲気がちょっと似ているのだ。
ユーグについては未だ納得いかない部分があるが、ミランに憧れる気持ちはマリアにも分かる。
「良いですわね、是非特別授業をお願いしたいわ」
「本気で言ってらっしゃいます?」
「ええ、本気ですわ」
ミランはマリアの申し出に驚いた顔をしたが、すぐに面白そうな表情になってにっこりと悪戯を思いついた時のキースのように笑った。
「おお、なんという奇特で素晴らしいレディだ。喜んで語らせて頂きましょう」
こうして午後のひと時を、蚕についての情熱的な授業を受けて過ごした。シルクが蚕の繭から出来る事は知識としては知っていたが、実物を見た事はもちろんなかった。ミランには随分と優れた絵心があり、手早く絵を描きながら説明してれたので大変分かり易かった。
特に衝撃的だったのは、口から吐き出される繭の糸は一本なのだという事だ。とても細くて繊細なので実際に伸ばして長さを測るのは難しいが、だいたい千メートルにもなるのだという。
繭の大きさは三センチから三センチ半くらいというのだから、その小ささの中にそれだけの長さがが詰まっている、しかも中は蛹がいるのだから中が空洞だと考えるといかにシルクが細く繊細な繊維であるか驚くばかりだった。
確かにミランの言う通り、昆虫というのは人間の想像をはるかに超えた素晴らしい技術を持った職人であるようだ。
ドロテアは知っているだろうか。今度会った時に話してみたい。
せっかく良い雰囲気で打ち解けたので、マリアは思い切ってアホロートルの事を聞いてみようかと思った。
博物図鑑に記述はあったが、図解は載っていなかったのだ。
そして、マリアは思わぬところから“ラフ”の手掛かりを得ることになった。




