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二人の関係に重大な変化をもたらした出来事はあったが、表面上生活そのものは以前とほとんど変わらずに穏やかに過ぎて行った。
相変わらず寝室は別であるし、朝食後に二階の居間にて共同作業をするのも同じである。
目立った変化と言えば、朝顔を合わせればお互いの頬に口付けを贈ることと、お休みの挨拶と共にお互いの額に口付けを贈ることくらいだ。
特に話し合って決めたわけではなく、いつの間にかそういうことに落ち着いた。最初はやはり緊張もあってぎこちなかったが、三日もすれば案外慣れるものである。
年末に向けて慌ただしくなる中、マリアは自分たち二人にひっそりと馴染んでゆく新しい日常に幸福を見出していた。
「最近、面白い夢を見ますのよ」
昼食後のお茶を頂きながら、マリアはふとその事を話題に挙げた。
「面白い夢ですか?」
色味のだいぶ乏しくなってしまった庭を眺めながらの、冬の柔らかい陽射しが振り注ぐ午後のひと時だ。
のんびりした今の空気には、なかなかに相応しい話題ではないだろうかとマリアは思った。
「はい、おとぎ話のような夢なのですけれど」
「へえ、お姫様や王子様が出てくる話ですか? それとも兎や狐が出てくる?」
「一見すると後者のようではあるんですけれど。まだはっきりと言えませんわ」
「ちなみにどんな夢です?」
興味を持った様子のキースに、マリアはにこりと微笑む。
「とある爬虫類が熱心に人形の服を縫っている夢なんです。服は着ていませけれど、おままごとのお茶会などをしている様子からして女の子だと思いますの。針仕事を手伝ってくれる妖精も現れたりしますし」
キースは小さな目を丸くして紅茶に噎せた。
「し、失礼。なるほど、アホロートルですか」
ナプキンで口元を拭いながら、顔を赤くしている。察しの良いキースにマリアは楽しげに御名答ですわと笑った。
エペローナの名字であるラフについては、未だ謎のままである。
「こちらに来てからたまに見るようになったのですけれど、最初はすぐに忘れてしまって。けれど数回見るうちに既視感もあって起きてから暫く記憶に残るようになりましたの。何となく気になって、覚えている事を書き留めるようになったのですけれど」
不思議で懐かしいような気持ちを抱かせるその一連の夢は、いつもだいたい同じだ。起きた時にはもうほとんど忘れてしまうような、些細な夢。
それが気になり始めたのは、その夢の中に出てくる裁縫箱がドロテアのものに似ていると気付いたからだ。
「内容的にはずっと変わらないものでしたのに、昨日の夢は新しい登場人物が加わりましたの。お茶会に招かれたのは、蜂蜜が大好きな子熊でしたわ。仕立ての良いベストを着ていたので、男の子だと思いますの」
「なるほど」
キースは心当たりにますます顔を赤らめてそわそわと落ち着かない様子だ。
それがまた、夢の子熊に似ていて噴き出しそうになる。
「ちょっと気になるのは、その爬虫類の女の子と子熊の男の子がとても仲睦まじい様子な事です。わたくし、ちょっと妬けてしまいました」
エペローナも子熊も実のところキースの事なので、一人芝居のようなものなのだろうが。そもそもがマリアが見ている夢なのだから、願望が夢だというなら、よくよくマリアの夢は正直者である。
「いやあ、その、夢ですし」
笑いを堪えるマリアを見て嫉妬を額面通りに受け取ったのか、キースは照れつつも焦った様子でそんな事を言った。
本当に、キースはからかいたくなってしまう人で困る。
「あら、たかが夢とおっしゃいますの? 物語では夢というのは大きな鍵になることも少なくありませんのに」
「ごめんなさい」
「ですから、わたくしもそのお茶会に乗り込んでみたいと思いますの。動物に例えるなら、わたくしは何だとお思いになります?」
「猫です」
戯れに聞いてみた問いに、即答されてマリアは目を丸くした。
「猫、ですか」
猫という動物は、ネズミを捕る役に立つものとして少し知っている程度だ。もちろんデルフィーネの屋敷にも飼われていて、見かけた事はあった。
「猫、です。近くで見たことはありますか?」
「庭で見かけたことは、何度かありますけれど」
「ネズミ捕りの為に飼われているのは、あまり人に寄ってきませんからね。でも、愛玩用の猫というものがいまして」
「話には聞いたことがあります。白く美しい長い毛足の、宝石のように美しい瞳の猫だとか」
「ええ、大陸から渡って来た種ですが、性別に関係なく“女王”の愛称で呼ばれる気品のある姿をしていまして。姿形だけではなく、性格も誇り高いと言うか」
なるほど、そういう風にキースにはマリアが見えているのか。
今度はマリアの方が赤面して黙り込むことになった。
「あ、ええと、はい。そうなんですけど、同時にとても可愛いんです。ツンとした態度で興味なさそうに見えて、好奇心旺盛で遊びには真剣に夢中になるし」
何かを取り繕おうとしてか、挙動不審気味に視線を彷徨わせながらの追加の台詞は、マリアを更に赤面させた。
客観的に、そういう性情の小動物は確かに可愛いだろうと思う。
それを自分になぞらえられるというのは、かなり居た堪れなかった。
マリアは気持ちを落ち着けようと紅茶を飲む。
正面では、キースも同じように紅茶を飲んでいた。
それから、沈黙を払うようにキースが咳払いを一つした。
「ところでですね、もうすぐ年末です」
「ええ、そうですわね」
「それですね、“夕暮れの薔薇”はもう読み終わりました?」
「もう少しです」
「今までのヒロインとは毛色が違いますが、どうでしたか?」
「そうですわね、なに分大陸のお話でも我が国とはだいぶ違う事情がある地域のことですから、戸惑いはありましたわ」
新しくキースに薦められた小説は、大陸のとある大国の辺境が舞台になっていた。隣国との小競り合いの絶えない国境近くの領地で、領主たる父と兄を戦で亡くし、幼い弟が成人して家督を継ぐまで必死で故郷を守る娘の話だ。
ヒーローはその娘を支える騎士の青年である。
グレイスリー王国は島国であるので陸続きで国境を接している国がなく、田舎という概念はあっても辺境という概念はない。ゆえに、その切迫した状況というのはマリアには正確には想像できないものがあった。
「ああ、確かにそうですよね。辺境という考え方が我が国には存在しないし」
「ですけれど、そのやり方や常識が違っても領地を守りたい、故郷を守りたいという思いは共感できましたわ。わたくしもあのように強くありたいものです」
兵士達の戦意高揚のためとはいえ貴族の娘が鎧を纏って戦さ場に立つなど、マリアには想像もつかない。ただその覚悟と果敢に敵に立ち向かう姿は、確かに憧れるものがあった。
「うん、マリアさんならそう言うかなと思ってました」
キースはホッとしたようにそう言って微笑んだ。それからちょっと真剣な顔になる。
マリアの方も、何かあるのかと自然と真剣な顔になった。
「それでですね、年末といえば王宮での舞踏会です。離宮で開かれる三日三晩の」
何の話が始まるのかと身構えていたので、マリアは面食らって訝しげにキースを見つめた。
「騎士であった僕から言わせると、あれはとっても危険なんです」
その詳しい話を聞いていくと、なるほど確かにそれは危険であるらしかった。
年末、王都の南にある離宮で三日三晩に渡る年越しの舞踏会が行われるが、成人貴族の殆どが参加する盛大なものだ。しかも、これは泊まりがけであることが通例だ。
その間に屋敷では貴族家に仕える使用人達だけの舞踏会が行われる。使用人達にとっては年に一度の主人一家公認で羽目を外せる楽しみでありご褒美でもある。この使用人達の舞踏会に金惜しみせずに酒や食事を用意することは、貴族家当主の見栄の張りどころだ。これを吝ると使用人の忠誠心が下がるし、使用人同士のつながりから他家に知られて恥ずかしいことになる。
そんな事情はさておき、心置きなく使用人達に楽しんでもらうため、泊まりがけになることが多い離宮の舞踏会は参加人数が多く、下は男爵から上は公爵までと身分の上でも幅広い。
広大な離宮では警備の目も人の目も行き届かないことがしばしばあり、未婚の女性にとっては悪い男に暗がりに引き込まれる危険が高いことでも有名なのだそうだ。
そして、その舞踏会中の警備はかつてのキースのような家督相続などに絡まない騎士達が動員されるのだという。
「酒が入って気が大きくなった男というのは、普段では考えられないような非道を行うことがあります。物をまだ知らないように見える若い女性に対しては特にです。何かあっても、女性の方が失うものが大きすぎるので泣き寝入りするしかない。
マリアさんはそういう場で隙を見せるようなことは無いと思いますし、慎重で思慮深いですから余計な忠告かもしれませんが。
気を付けてください。
僕がずっとつきっきりでいられたら良いのですけれど、そういうわけにもいかない」
思いがけず、重要な話だった。
そして真剣で厳しい表情をしたキースは、いつになく騎士であったことを感じさせて凛々しい。
「はい、重々気を付けますわ」
「それでここからが本題なんですが。どんなに気を付けていても危機に陥る可能性はゼロにはなりません。付け焼き刃でも無いよりはマシということで、護身術を習いませんか?」
なるほど、それでさっきの小説の話が出たのか。
マリアは重々しく頷いた。
「立ち向かう必要はないですし、それはしてはいけません。けれど、逃げる技術はあって損はしません」
「是非お願いしますわ」
真剣にマリアの身を案じてもしもを想定するキースは、まるで件の小説でヒロインを支える騎士のようだと胸がときめいた。




