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 マリアは幼い頃から優秀だったかといえば、決してそうではなかった。

 幼い彼女にとって、世界は決して優しい場所ではなかったので、だいたいにおいて反抗的で懐疑的で恐ろしく頑固であった。

 家庭教師というものは鞭で動物を調教するように知識を叩き込むのが一般的であったので、それだけでマリアとは相性が最悪であることは明白、実際本格的な教育が始まる前に基礎的な触りを教えたジャネスも手を焼いた。

 納得なく大量の暗記をすることを、マリアは頑として受け入れなかったのである。

 しかし、マリアの師匠たちは父であるデルフィーネ伯爵の個人的な友人であった。

 そのため偏屈で頑固者ばかりのマリアの師匠たちは、マリアの自分たちに似た頑固さや懐疑的で反抗的な部分に対して比較的好意的だった。

 もちろん、大事な友人の娘だからという贔屓目もあったろうが。

 懐疑的な部分は学究の徒に必要なものであったし、一途にその道を極める頑固者達にはマリアの頑固さなど可愛いものであったし、反抗的な部分は世間に易々と迎合しない矜持の現れでもあるというのが彼らの言い分である。

 ただし、それで甘やかしたりするような御仁達ではなかったので、幼子相手にえげつないほどに本気で事に当たった。ある程度素養のある大人相手と大して変わらない調子でマリアに相対したのである。

 元々の負けん気の強さは、この師匠たちによって更に磨き上げられたと言って良い。

 家庭教師はだいたいにおいて子供にとっては恐怖の象徴であったが、マリアの場合は師匠とは恐怖の象徴ではなく立ち向かうべき壁であり、突き崩すべき敵であった。

 そうした関係性から、マリアの学びは常に能動的な性質が強かった。相手を突き崩すためにどんな知識が必要なのか、その知識を得るためにどのような方法を取るべきか。師匠達は助言はくれたが、選択して決断して実行するのは常にマリアの意思に委ねられていた。

 これは随分と遠回りで、丸暗記が主な他の貴族の子弟達に比べれば最初はかなりマリアの学習速度は遅れていた。けれどもその教育方針が肌に合ったマリアは着実に実力をつけていき、それが一番だと結論を出せば真綿に水が染み込むように暗記も厭わず積極的に努力するようになった。

 つまり、マリアは負けず嫌いを背景とした努力型の秀才である。いつだって課題に対しては勇猛果敢な戦士もかくやと言う真剣さで食らいつく。

 なぜ、今更こんなことを振り返っているかといえば、マリアは今重大な課題に直面したからだ。


 マリアがキースに薦められた恋愛小説は、未婚でもギリギリ目溢しされる程度の内容である。

 つまり、口付けだとか抱擁だとか、そういうことをかなりぼかして書かれていた。胸が高鳴るだとかそういう表現はあっても、口付けそのものについては、『涼やかな棗椰子の香りがした』だとか、『未だ青いオレンヂの実のよう』だとか、そういう分かるような分からないような説明しかない。

 唇以外の場所への口付けは経験していたから、ある程度は覚悟はしていた。けれども、実際の初めての口付けは小説にあるような何らかの感慨を抱くような余裕などまるでなかった。

 本当に、死ぬかと思った。

 鼻で息をすれば良かったのだろうが、今更言ってもしょうがない。

 今一番問題だとマリアが思っているのは、死にそうだったという他に、初めての口付けの具体的な所感がまるで頭に思い浮かばないことである。

 これは由々しき事態だとマリアは頭を抱えた。

 キースのことである、きっと恋愛小説よりも素晴らしく抒情的に初めての口付けにつての思い出を記憶しているに違いない。

 片思いも恋愛なのだろうが、マリアにとって今キースとしている恋愛は二人でするものである。であるならば、共通の重要な出来事についてはできれば同じように記憶に留めたいし、思い出として共有したい。

 経験豊富な筋から見れば、たった一ヶ月程度のマリアの経験など吹けば飛ぶようなものだろう。それでも共通の思い出や経験というものが恋愛を豊かにするのだということは、動かしようのない事実であるとマリアは結論付けたのだ。

 例えば恋愛を事故と表現するのはマリアとキースの間だからこそ通じるやりとりであり、そういった二人だけの間にある秘密を共有するような特別感はマリアに驚くほどに喜びを感じさせた。

 キースも同じように感じてくれているように思うし、それはマリアにとっては大きな発見だった。

 ゆえに、初めての口付けという一大事は、素晴らしい思い出として残さねばならない。

 それが今マリアにとって一番重要で難しい課題だった。

 反復が可能な学習ではなく、やり直しがきかないということが今までとは違ってマリアを悩ませた。

 未知なものに立ち向かうときに有効な試行錯誤が出来ない。

 もう、結果は出てしまっていて、これ以上はどうしようもない。

 それでもマリアは諦めたくなかった。


 マリアは思考を整理するためにノートを取り出した。

 放っておけば、記憶は薄れるばかりなので、できる限り状況を詳細に思い出して手掛かりとして箇条書きにしてゆく。


・蜂蜜入りホットミルク紅茶風味

 大変懐かしがっていた。甘党である自覚はある模様。両手で包むように持って飲む姿は子熊を彷彿とさせた。


・無精髭。長さにしてだいたい五ミリほど。


・癖が付きやすい髪質。整えるのに時間がかかりそう。


・唇の色は薄い橙と紅が混じったような明るい色。


・薄い寝間着越しの胸は硬かった。


 そこまで書いて、マリアはペンを置いて突っ伏した。

 これは恥ずかしい。蘇る前後のあれこれにまた心臓がおかしくなる。

 


「……他にも色々あって、そっちは全部覚えているからもう良いかしら」


 誰も見ていないとはいえ、自分一人で悶えているような状況がさらに恥ずかしさを助長させ、マリアは言い訳するように独り言を言ってみた。

 でもやっぱり悔しい。

 恋愛小説でもそうだが、先日見た舞台でも王女と王子の初めての口付けのシーンは、それはもう素晴らしく美しい演出をされていた。

 初めての口付けというのは、おそらく普遍的にとても重要なものなのだ。

 

「諦めるのはいつでもできるわね」


 マリアは思い直して別の手段を模索しようと頭を捻った

 書き出した箇条書きをぼんやりと眺めながら、色々と考えを巡らす。

 ふと、何か閃くものがあった。

 箇条書きの下に、ペンを取って思いついたことを書いてみる。


「……嘘じゃ、無いわよ。キース様が言う後付けの納得よ。記憶の編集みたいなものだわ」


 言い訳じみた事をぶつぶつ言いながら書き出した文章を読み返す。



 死にそうになった思い出も、年月が経てば悪くない素敵なものに変わるかもれない。時間の経過というのは、得てしてそういう魔法を掛けることがある。

 ただ、やはりロマンチックではないと思う。

 我ながらキースに影響され過ぎだと思うが、そんな自分が嫌ではない。


 いつか子供ができて、二人の恋を語る機会があったなら、こんな風に話したい。


“無精髭がちょっと痛くて、それから蜂蜜の味のする優しい口付け”


 書いた文章を指でなぞって、一人で照れ笑いをしてしまった。

 でも、こんな失敗をしないように、徐々に段階を踏むべきだとも思う。

 ……ほんの少し、焦れったい気もするけれど。

 

「まずは照れずに頬に口付けを出来るようにならなくてはね」


 もう新しい朝が始まっている。

 もうすぐカチェリナが来て、朝食になるだろう。

 それが終われば、また新しい冒険の始まりだ。

 新しく見つけた夢中になって学びたいことが恋愛だなんて、師匠たちに打ち明けたら何と言うだろう?


 マリアはノートを閉じて、踊り出すような心を宥めるようにノートを胸にぎゅっと抱きしめた。


一日しっかり休んで、だいぶ体調が戻りました。

ご心配お掛けしましたが、また今日からよろしくお願いします!

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