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「何かあったんですか!?」


 久々のキースの顎には、初めて見る無精髭というものが生えていた。いつも綺麗に整えられていた金髪も、あちこち跳ね散らかしている。

 病み上がりの寝起きなのだから当然なのだが、そういうキースも新鮮でマリアは嬉しくなった。

 早朝に襲撃した甲斐があった。得した気分だ。

 マリアがノックと共に名を告げると、慌てた様子で血相を変え、寝間着のまま飛び出してきたキースはとても元気そうだ。


「こんな時間から押しかけてしまってごめんなさい。でも、どうしても待ちきれなくて。キース様は騎士時代の癖がまだ抜けなくて、かなり早起きだとお聞きしたものですから」

「なんだ、良かった。マリアさんに何かあったわけじゃないんですね」


 心底ホッとしたと言わんばかりのキースの様子に、マリアはむず痒いような嬉しさを感じる。何事かと心配させてしまったのは申し訳ないけれど、マリアがこんな早朝にこっそり訪ねてきた事を喜ぶよりも心配するキースに、ああ、これがこの人なのだと妙な納得と、安心感があった。


「大有りですわ。早くわたくしに会いたくて仕方ないなんて手紙にお書きになったのはどなたかしら。

 多少常識を逸脱することも厭わないくらいには、わたくしも浮かれておりますのよ」

「えっ、あ、あの、それは、はい……」


 キースは途端に真っ赤になって、しきりに寝癖のついた髪を手櫛で直そうとし始める。

 マリアもつられて顔が火照るのを感じた。


「……お邪魔しても、よろしくて?」

「もちろん!」


 数日ぶりのキースの笑顔は眩いばかりで、マリアはキースの方がよっぽど太陽のようだと思った。




 カーテンを開くと、一気に室内が明るさを増す。とはいえまだ夜の気配を引きずる朝の太陽は、まだ低い位置で寝起きのぼんやりした光しか届かせられない。既に冬の気配が濃くなっていることもあって、うっすら曇る窓ガラスをマリアはそっと指で拭った。冷たさの移った指先で赤らんだ頬に触れると、心地良い。


「冷めてしまう前に飲んで下さいね」

「ありがとう」


 キースは寝間着の薄着で飛び出してきたので、また風邪がぶり返しては困るとベッドに再び押し込んでおいた。マリア自身はしっかり毛織物のドレスを着込み、厚手の肩掛けで防寒してきたので問題はない。

 マリアが作った特製レシピの紅茶に口を付ける様子を、固唾を飲んで見守る。


「うわあ、懐かしい味だ」

「良かったですわ、一応合格は頂きましたけれど、少し不安でしたの」

「えっ、マリアさんが淹れてくださったんですか?

 ありがとう、嬉しいな。

 実を言うと、ここ数日ずっと飲みたいなって思っていたんです。久々に寝込んだから、子供の頃を思い出してしまって」

「結構な甘党ですわね」

「バレちゃいましたか」


 微笑み合う穏やかな空気が、戻ってきた何気ない会話が、とても愛おしく感じた。

 その温もりまで大事に味わうかのように、両手でカップを包み込んで嬉しそうに飲んでいる姿は、蜂蜜大好きな子熊を思わせて思わず顔が緩む。


 アホロートルも良いけれど、子熊も捨てがたいわ。


 成人男性に対しては相応しからぬ喩えだろうが、やはりキースはとても可愛らしい人だとマリアは思う。見栄っ張りだというキースの誇りを慮って口に出したりはしないが。

 ベッドのすぐ横に置かれていた椅子に腰を下ろす。


「わたくしね、キース様からお薦め頂いた『遠い日の約束』を読みましたの」


 詳しい爵位などは書かれていなかったが、おそらく伯爵家以下で比較的豊かな農村地帯を擁する領主の長男ディー。そしてその隣の領主の娘エラ。幼馴染として育った二人は自然と年頃になって婚約をかわしたが、青年になったディーは隣国との戦争に行くことになってしまう。

 内容は離れ離れになった二人の間に交わされた手紙が主軸となっていて、幼い頃の思い出話を通じて想いを通わせていくというものだった。


「どう、でした?」


 なんだか緊張した面持ちになるキースに、マリアはふふっと笑みを零す。先ほどの自分のように、固唾を呑んでマリアの感想を待ち構えているのだ。


「寝込んだエラの為に、ディーがエラが大好きな木苺を探して届ける話があったでしょう?」

「ああ、季節がもう終わりかけでなかなか見つからなくてっていう話でしたっけ」

「以前のわたくしだったら、使用人に質の良いものを届けるよう手配させるのが一番なのに無駄な事を、なんて思ったに違いないわ。今のわたくしは、そんな過去のわたくしを思い出すと恥ずかしくて死にそうな気分です。なんという朴念仁かしらって」

「……」


 キースの顔が分かりやすく赤くなって、そわそわし出したのが分かる。

 途端に込み上げる面映ゆいような恥ずかしさを振り切るように、マリアは早口で続けた。


「わたくしね、初めて竃でミルクを温めましたの。とても緊張しましたわ。火加減が難しくて、ただミルクを温めるだけですのに技術がいるんですのよ。強すぎると、上に膜ができてしまいますの。そうすると風味が損なわれるのですって。それから、蜂蜜はいっぺんに入れてはいけないのです。ゆっくり紡ぎ糸のように垂らしながらかき混ぜるのですけれど、同時の作業がなかなか上手くいかなくて」


 まだまだこのまま話していられそうだったが、不意にこれは本題ではないと我に返って途中で打ち切った。


「とても楽しい冒険でしたわ。キース様が喜んでくださったので、とても満足ですの」


 恥ずかしい。火が出そうとはこのことか。けれど、キースはずっとこんな思いをしながらも気持ちを伝え続けてくれていたのだと思うと、ここで逃げるわけにはいかない。


「今なら分かります。出会ってからずっと、素晴らしい冒険の旅の途中だとおっしゃった気持ちも、恋愛に憧れる気持ちも。

 わたくし、何も知らなかったわ。だからもっと知りたいと思いましたの。会えない間、時間の許す限り恋愛小説を読んでみましたのよ。最初にお薦めされたものももう一度読み直しました」


 驚きと嬉しさとで小さな目を丸くして笑みくずれるキースの顔が直視できなくて、ほんの少し目を逸らす。


「今度は、楽しめました?」

「はい。素敵でした」

「良かった」

「でも、わたくし負けず嫌いなんですの」

「うん?」


 マリアは深呼吸した。これはなかなか勇気が要る。

 勇者ユーグのことは良く知らないが、キースも相当勇者なのではないかとマリアは思った。


「わたくしとキース様の事故の方がずっと素敵ですわ。ディーの手紙よりも、キース様から頂いた手紙の方がずっと素敵」


 ぽかんとしたキースの顔が徐々に真っ赤になって、耳まで赤く染まった。

 ぱくぱくと、口を動かして何か言おうとするけれど、声にならない様子だった。

 マリアもきっと似たように真っ赤だ。

 胸がドキドキして目眩がしそうだ。気付薬が必要かもしれない。

 居たたまれなくて、とうとうマリアはふいっと横を向いてしまった。


「もう、黙っていないでキース様も何かおっしゃって」

「ご、ごめん、なんだか胸がいっぱいで」

「だめ。許して差し上げないわ、わたくしだけ恥ずかしいのはずるいです」

「ええと、はい。あの……、僕とマリアさんの関係についてなんですけれど。僕なりに考えてみたんです。それで、全部っていうのは駄目なのかなって」

「全部?」


 上擦った声で要領を得ない話を始めるキースに、マリアは視線を戻して首を傾げた。


「なんていうか、僕はマリアさんに関してはとても我儘で欲張りになってしまうんです。

 だから親友同士で、婚約者同士で、書類上は夫婦で、そういうの全部が良いなって。ついでに、恋人同士っていうのも新しく加わると更に良いなって。

 だって、どれも捨てがたいんです。マリアさんの特別な友達という位置を手放すなんて嫌です。婚約者同士の関係も捨てがたいんです。花を贈ったり、お揃いの装飾品を誂えたり、夫婦や恋人同士でも出来ることも多いけれど、それぞれ心持ちが違うんです。

 将来デルフィーネ家を担う事を見据えて頑張るマリアさんを支えたいな、とか、凛々しくて素敵だなとか、そういう家の部分を含めて敬愛している部分も大事なんです。何よりまだ全然、満喫してないし。

 あ、書類上の夫婦っていうのも今はすごく好きです。だって約束された未来みたいに思えるじゃないですか。そこにたどり着くまで、たくさんマリアさんと冒険したいです。

 ああ、でもやっぱり今日くらい十割恋人同士が良いかな。

 好きです。大事故だと確信しています。

 愛していますってこの場合言うべきかもしれないですけど、まだ僕の身の丈に合わない気がするので。

 好きです、大好きです。

 僕の恋人になって下さい」


 話しているうちにどんどん饒舌になっていくキースは、途中から赤味が顔から引いて、真顔になっていた。

 

 マリアは立ち上り、キースの手からカップを取り上げてサイドボードに置いた。

 それからキースの胸に飛び込んだ。

 そこに思考という段階はなかった。ただ、熱い何かに突き動かされて体が勝手にそうしたのだ。

 マリアの体を受け止めたキースは、それはもう優しく、ガラス細工に触れるよりも大事そうに抱きしめてくれたのだった。


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