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キースの好きだという蜂蜜入りの紅茶は、実際のところ紅茶の風味のある蜂蜜入りの温かいミルクだった。温めたミルクにたっぷりの蜂蜜を溶かし、ほんのり色がつくくらいの紅茶を注ぐ。
「こちらがぼっちゃま専用の特別な紅茶でございますよ」
やり方を説明しながら老執事が作ってくれた特製の飲み物は、甘い香りを真夜中の厨房に漂わせていた。料理人やキッチンメイドの邪魔をしないよう、彼らの仕事が終わってから老執事に教えてもらうことにしたのだ。
できたての湯気が香るそれに恐る恐る口を付ける。
思った以上に甘く、想像していたのよりも味が濃かった。ミルクのまろやかさに負けない蜂蜜のくどさに少し胸焼けしそうだ。正直香り以外で紅茶の存在が見出せない。
「なかなか、印象的ですわね」
「人の好みとは本当に様々でございます」
老執事はそんな風に言って穏やかに笑みを浮かべた。
「白詰草の蜂蜜とは違う風味ね。わたくしが知っている蜂蜜のどれよりも濃い色をしていますし。一体何の蜂蜜なの?」
「ミントでございます」
「ミント! わたくし、ミントの蜂蜜は初めてだわ」
「普通は紅茶やミルクには使わない蜂蜜でございますから」
「何に使われるものなのかしら」
「料理に使われることが殆どでございます。肉料理、煮込み料理などに使いますと、コクが増すのだそうで」
「そうなのね」
なるほど、料理に使われるものならマリアが知らなくても不思議はない。
それにしても、ここまで蜂蜜の主張の強い飲み物が好きだとは。
確かに熊の例えはとても的を射ているのかも知れない。
「……子供の頃、キース様はここに忍び込んで蜂蜜をこっそり舐めたりしたのかしら」
「そんなこともあったかも知れませんね」
幼いキースが蜂蜜の入った壺を抱えて、厨房の隅で一生懸命舐めている姿を幻視してしまい、実際は何もないそこを見つめながらマリアは笑みを零した。
老執事も同じ幻を見たのか、目を細めている。
少しの沈黙。
マリアはほんの少し迷ってから、その問いを口にした。
「キース様がヴェルナ家を継ぐ、そういう話が出たことはあったのかしら」
老執事の顔に動揺はなかった。けれど、ほんの少し目が悲しげに陰ったのをマリアは見逃さなかった。
「ぼっちゃまはお小さい頃、少しばかり生きる力が弱い子供でいらっしゃいました。子供というものは存外周りの思惑に敏感なもので、それを感じ取っていらっしゃったのかもしれません」
そこで話を一旦切って、老執事はこのようなもので良ければお座りくださいと、厨房に置いてあった背もたれもない粗末な椅子を差し出した。
マリアに拒む理由などなく、大人しくそこに腰を下ろす。
老執事もまた同じような粗末な椅子をもう一つ、別のところから持ってきてマリアの斜め向かいに座った。
「お母君は王家の出でいらっしゃいましたし、普通であれば降嫁されたお母君のお子であられるぼっちゃまが家を継ぐのが順当でありましょうね」
「その辺りのご事情は、少し聞いていますわ。当初はお子を持たれるご予定ではなかったでしょう」
「その通りでございます。当家もそのつもりで大奥様をお迎えいたしました」
マリアは思わず目を閉じる。幼いキースを取り巻く環境は、マリアが思っていたのとは全く違って随分厳しいものだったのかも知れない。
「……扱いに、戸惑ったでしょうね」
「はい。ぼっちゃまの誕生を手放しで喜べる者は、残念ながらおりませんでした。お母君でいらっしゃる大奥様も、喜びよりも我が子の不安定な将来を憂いていらっしゃることが多かったようでございます。
本邸の奥様のご実家であるスコフィール家にとっては、特に複雑な存在でございました。代替わり直前でございましたから、当代様がヴェルナ家を継がれることには問題はございませんでしたし、どこからも文句の付けようのない事。
ですが、その次となれば話は別でございますから」
感情的なものを排すれば、キースは兄夫妻の養子となるか、兄を中継ぎとしていずれキースが受け継ぐように取り計らうか。家としての名誉や存続を一番に考えるなら、家長ならそう判断してもおかしくはない。王家の娘を貰っておきながら、その間に出来た子供に相応しい待遇を与えないなど、普通に考えれば不敬も良いところだ。
きっとキースを後継にと言い出す親族も多かっただろう。
「あの当時のヴェルナ家には、嵐の前の静けさと申しますか、張り詰めた空気が常にありました。
ぼっちゃまに対しては腫れ物に触るような扱いでございましたね。何しろ尊き血を引くお子でございますし、粗末に扱うなどということは許されません。
ですが、当代様のご嫡男として既にお生まれになられたユーグ様のお立場を脅かす存在でもありましたから、使用人達としても複雑でございました。ユーグ様はそれはもう輝くばかりの美しいお子でいらっしゃって、その活発で朗らかなご気性で当家のものは皆、夢中でございましたから。
それでも均衡が保たれていたのは、キース様をいずれ婿養子にと望むお話が複数あったからでございます」
「でも、それには問題があったのね」
「はい。私めにはその詳しい事情などは分かりかねますが、そういった他家に出るお話もなかなか決まらない状況でございました。
今からは考えられないでしょうが、ぼっちゃまはそんな大人達に囲まれていたせいか、あまり感情を表さない物静かなお子でございました」
マリアはその時キースの側に自分がいなかったことが、悔しくてならなかった。今までマリアの知り得た男性の誰よりも、キースは他人の心情に敏感で細やかな気遣いをする人だった。それが、そんな幼い頃の事情に関係していたなんて。
自分を邪魔者だと、厄介者だと、そんな幼い頃に悟らざるを得なかったキースの事を思うと涙が出そうに胸がキリキリと痛んだ。
「その状況を変えたのが、エストーマ子爵様なのね」
「はい。大人の思惑や葛藤など何処吹く風と、ユーグ様はそれはもう天真爛漫を体現するようなお子様でいらっしゃいまして。
当時、ぼっちゃまをどうするか扱いかねていた周囲は、ユーグ様を極力近付けないようにしておりました。けれども、そういう大人の思惑には全部反抗したい時期というものが幼い子にはあるものです。ユーグ様には特にその傾向が強うございました。
ぼっちゃまの存在を認識したユーグ様は、周囲の制止を振り切り、掻い潜り、毎日のようにぼっちゃまのところに遊びにお出でになるようになりました。きょとんとしているぼっちゃまに、一方的に話したい事を思い切りしゃべっては、満足してお帰りになる。まだろくに歩けないぼっちゃまを引っ張り出して、お庭に冒険に出ることもありました。流石にあれには私めも肝を冷やしましたが」
その話を聞いて、マリアは意外に思った。手紙にはキースの方が一方的にユーグを追いかけ回していたように書いてあったからだ。
「キース様の方が懐いて追いかけ回していたのではないの?」
「そうなったのは、だいぶ後になってからの話でございます。最初はユーグ様の方がぼっちゃまに夢中でいらっしゃったのですよ。おそらくですが、自分より年下の存在が出来たことがよほど嬉しかったのでしょう。ぼっちゃまを引っ張り回して寝込ませるユーグ様には毎回ハラハラさせられましたが、誰が見ても弟が可愛くて仕方ない兄のご様子でしたよ。
そのうちぼっちゃまもユーグ様に影響されてか、随分と明るい表情の子供らしい子供になって。それまでとは反対にぼっちゃまがユーグ様を追いかけ回す頃にはハーマン様も加わって、それはもう賑やかで。その頃にはヴェルナ家の誰もがぼっちゃまを含め、どのお子も同じくらい愛しておりました。いつもどこかで可愛らしい笑い声が響いていて、使用人達もそれを聞くと一瞬仕事の手を止めて微笑んでしまう」
在りし日の幸福な光景に思いを馳せてか、老執事は感慨深げにそっと息を吐いた。
「子供の笑い声が響く家というのは、とても良いものです。それだけで希望が満ちて、皆の心を明るくするのですから」
マリアは思う。確かにそれはマリアがどう足掻いても、太刀打ち出来ないほどの輝きに満ちた日々だったに違いない。
どんなに望んでも、悔しくても、その時マリアはキースの側にいることはできなかった。既に取り返しのつかない過去であるし、そもそも生まれてもいないのだからどうしようもない。
孤独な幼いキースを救ったのは、間違いなくあのいけ好かない男なのだ。
その後に起こっただろう不幸な出来事の後も、変わらない態度でキースの存在を肯定し続けてくれた。
キースの子供時代が幸福であった事は、本当に良かったと感謝している。だからこそ、マリアの大好きなあの少し間の抜けた、人の良さが滲み出ている笑顔が今も見れるのだ。
あの男が自分にしたことは、今となっては些細なことだ。キースが許さなくて良いと言ってくれたので、それでもう殆ど溜飲は下がってしまった。
でも、試されたことについてはいつか絶対見返してやると思う。
いつも、何かどこか自信がない、そんな印象を受けるキース。
どうしてなのかずっと心に気に掛かっていた。
そこに光を届かせる太陽になりたい。いつか誰も見たことのない素晴らしい笑顔にキースをさせる自分になりたい。
「もう十分よ、ありがとう」
前に進むために過去を紐解くことは、これからもあるかもしれない。
でも、今マリアに必要なものは手に入れた。
「早速練習がしたいわ。付き合ってくださる?」
「もちろんでございます」
「明日の朝、キース様に持って行きたいの」
多少失敗しても、キースなら喜んで飲んでくれる。
照れた顔で笑うだろうか?
驚きに固まって、それから挙動不審になるのだろうか?
それともマリアには予想もつかない行動に出るのだろうか?
どんなキースでも良い、早く会いたいと思う。
冷めてしまった特製の飲み物を、気合を入れるように飲み干した。
「やっぱり甘すぎるし、くどいわ。練習するなら二回が限界ね」
「さすがでございますね。私めなどは一杯の半分でも限界でございます」
胃のあたりをさすりながら言う老執事の若干げんなりした表情に、思わずマリアは笑った。




