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マリアという名を持つ唯一無二の貴女へ
最後に貴女の顔を見てから、既に三日が経ちました。ようやく熱も完全に下がり、すっかり元気です。それでも念のためということで、今日一日はベッドから出してもらえないようです。
丁度良いので、丸一日かけて貴女への手紙を書こうと思いました。
まず、心配をかけてしまった事、申し訳なく思います。そして、嬉しくも思います。
それから、手紙をありがとう。
貴女の言うように、確かに言葉というのとても不自由な部分があります。ありがとうだけでは伝え足りないけれど、どんなに飾り立てても飾り立てた分だけ真実から遠ざかってしまうようにも感じて、結局一番飾り気のない言葉を選んでしまいました。
もしこれが手紙ではなくて目の前に貴女がいたとしたら、僕は表情や声や身振り手振り、そういった僕自身の全部を使って感謝や喜びを表すのに。なんだったら歌っても良いし、踊ってもいい。気持ちの全部を伝えられるなら、僕の気持ちが貴女に真っ直ぐに届くなら、思いつく限り試すのに。
でも、言葉というのは不思議なもので、心の中にある名前のない不明瞭な想いを理解しようと言葉を使って考え始めると、急にそれは明確な輪郭を持ち始め、最後にはある種の納得と共にすとんと腑に落ちるんです。
それなのに、明確な存在として心に落ち着いた想いを伝えようと言葉にしようとしても到底無理という、なんだか矛盾しているような状況に陥ります。
それでも僕はそれできっと正しいんだと信じています。言葉で説明しきれる程度の想いしか僕の中になかったら、きっと僕は自分自身に落胆して寂しい思いをするに違いないから。
そしてその作業をするときは、いつだって貴女が切っ掛けになっていました。手紙を書いているまさに今、この時も。僕にとって貴女と向き合うことは、自分と向き合うことでした。
いつだったか、貴女は僕を案外素直じゃないと評しましたね。そして、とっくに選んでいるのだと。
確かに僕は選んでいたようです。ずっと昔、幼い頃に。
明確にするのが怖くて考えることから逃げ、ずっと見て見ぬ振りをしていたそれを、僕は貴女と出会ってから恐る恐るですが目を向けようとし始めました。
震えながらも逃げずに立ち向かおうとしたあの夜の貴女の意地らしさが、僕と真摯に向き合おうとしてくれた時に見せてくれた安易な同情を許さない凛とした強さが、挑戦することを恐れない強い輝きを放つ瞳が、僕の弱い心を鼓舞し、勇気をくれたからです。
そして貴女からの手紙が、うじうじしていた僕の背中を蹴飛ばしてくれました。僕がずっと抱えていた恐れの正体が一体何なのか、熱がぶり返してしまうほど考えて、考えて、僕は一つの仮説を導き出しました。
少しだけ、昔話を聞いてください。
幼い頃、僕には太陽のように僕の世界を照らしてくれる人がいました。僕はその人がとにかく大好きで、幼い本能の赴くままに大好きを全開にして彼にまとわりつきました。
けれどもある日、ある人物から自分の振る舞いが大好きな彼から、彼の進むべき道を奪うものだと言われてしまいました。
僕の周りの大人たちは皆、月や星のように僕達を優しく見守ってくれていましたし、僕はただただ心のままに彼を大好きでいただけ。
それが彼を害するだなんて、彼に仇なす行為だなんて、考えもしなかったことでした。
あまりの衝撃に、僕は記憶を失いました。記憶を失った僕は、変わってしまった。彼が進むべき道を奪う事の無いよう、そう疑われる事の無いよう、その原因となるような行動の全てを封印してしまいました。
残念ながら、僕自身は記憶を失っているので想像でしかありません。けれど、そうであれば納得のいく事も確かにあったんです。
僕は誰かを特別好きになることを、ずっと避けてきました。それが罪だという意識が、多分ずっと根底にあったからなんじゃないかなと思います。
だから僕が彼に対して抱いていた強い憧憬と似通った特別な好きという気持ち、恋愛というものに強く憧れた。
そして同時に、自分には決して触れることを許されない罪だと忌避していた。
僕はその恐れの理由として、最もらしくてありそうなものを適当に貼り付けていただけなのじゃないかなと思います。
誰でも思いつきそうな僕の悩みは、実際大変都合良く僕自身も騙してくれました。それについて僕が深刻に悩んだことがあるかといえば、今考えてみればそんなことは全く無かった。
それは悩むまでもなく、現実にはまず起こりえないことだったのだから当然といえば当然だったんです。
そしてまた僕にとっては幸運にも、彼は僕が変わってしまっても太陽のように僕の世界を照らすのをやめなかった。だから僕は、そんな不自然に歪んでしまったままでもとても幸せな子供時代を過ごしました。
それでも、いつまでも甘やかされたまま揺り籠で過ごすわけには行きません。そうして僕は彼という太陽の光が届かない場所へと送り出されました。
そこでの僕はもう不幸のどん底でした。今まで燦々と浴びていた太陽の光を奪われてしまった向日葵のように萎れてしまいました。けれどもそんな中で、僕は僕の次の太陽になってくれる人を見つけました。
その人は彼と違って僕の側にはいませんでしたが、遠くから僕を照らし、その自由で力強い生き方で僕を励ましてくれました。そうすると目がよく見えるようになり、たくさんの友達が出来たんです。僕の少年時代を幸せなものにしてくれたのはあの人と、あの人が開いてくれた目で見つけた友人たちでした。
やがて年齢的に大人と言われる年に達して、仕事をするようになって、周りの友人たちは巣箱から飛び立つ準備を始めました。
ですが僕は居心地良い巣箱から飛び立ちたくなくて、ずっとぐずぐずしていました。都合良く作った理由に甘えて諦めたふりをして、特別な人を作ることから逃げ続けました。
そんな僕の世界に、今までとは全く違った輝きの太陽が昇りました。
マリアさん、貴女です。




