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マリアは結婚に何一つ甘い夢を抱くことはなかった。
物心ついた時から現在に至るまで両親を身近に感じたことはなく、一人娘だったマリアは早くから婿取りをすることが決まっていた。
父には愛人が複数いるようだったが、詳細はマリアもよく知らない。
社交の季節以外は月に一度の晩餐を共にする決まりがあるので、かろうじて定期的に交流は持っている。
他は親族が集まる行事などの時ぐらいしか顔を合わせない。ただし貴族においてはこのような親子関係は珍しくなく、並よりは希薄だが普通の範疇に入る。
母には結婚前から入れ込んでいる“愛する人”がいて、その人との間に弟がいるらしい。マリアは母がどこに住んでいるのかも知らないし、知りたいとも思わなかった。母からは気まぐれのように何度か誕生祝いのカードが送られてきたが、その程度の交流しか持たず、直接話した記憶などは全くない。
出席せざるをえない親族の集まりにはやって来るので、姿はもちろん知っている。
けれど母は親族の集まりでも必要最低限しか口を開かず、マリアとは目も合わせないし、周りもマリアと母を近づけようとしなった。
結婚を貴族の義務として割り切った関係の夫婦は珍しくないが、デルフィーネ伯爵夫妻ほど距離があるのは珍しい。世間知らずのマリアはそのことを知らなかったが、子供にとって身近な存在が基準になるのは当たり前の話で、マリアは貴族の結婚とは両親のようなものだと思い込んでいた。
夫妻に距離があるのは、結婚した経緯によるところが大きい。
元平民の妻に由緒正しい伯爵家の嫁は荷が重く、家の内部でも代々仕えてきた地位のある使用人たちほど女主人と認めなかった。伯爵もまた、父親の尻拭いのような結婚に思うところがあった。
家の存続のために子は成したし、経済状態も回復させて以前の数倍もの資産を得た。夫妻はお互いに既に義務は果たしたと考えてもおかしくない。
しかし、娘のマリアが捨て置かれたかといえば、そういうわけではない。
親が直接子育てしないことがステータスでもあるので、庶民のような分かりやすい愛情は示すことはなかったが、伯爵は家の大事な跡取りであるマリアに貴族としての英才教育を施す環境を整えた。
身の回りの品は金では動かされず、顧客を選ぶような名高い老舗の高品質のものを揃え、衣装については流行も取り入れつつ古風な品の良さのあるものを誂えさせた。
食事についても腕の良い者を複数人雇い入れ、各地の伝統的な料理や我が国と付き合いのある他国の料理もしっかりと教育の一環として取り入れた。
血筋で見下される隙を作らぬように、マナー教師は複数人付け、貴族女性に求められる教養を高い水準で習得させるために幼い頃から専門の教師をつけ、徹底的に叩き込んだ。それらは確かに社交界に出てからマリアを守る鎧となるだろう。
けれども、身内の毒に対してはそれほど役には立たなかった。むしろ理想的な淑女としての擬態は、どちらかといえば強欲な親族を付け上がらせる温床となってしまった。
常に楚々とした微笑みを浮かべ、慎しみ深く口数も少なく、口応えなどもってのほか。
そんなマリアの態度は、強欲な親族たちに御しやすいと舐められてしまったのだ。
分家や嫁に出た叔母の息子たちをマリアの婿にと強引にねじ込もうとする彼らの態度は常に上から目線で、恩着せがましい。
「半分は卑しい血の流れるお前を妻にしてやっても良いと言っているのだ。泣いて有り難がるべきだろう」
だいたいこんな感じのやつである。
マリアはといえば、淑女に上手く擬態しているが、己の置かれた状況に泣き暮らすような繊細さは持ち合わせていなかった。
ついでに性格も一筋縄ではいかない負けず嫌いであった。
いつか絶対見返してやる気満々で、内心は淑女らしからぬ罵詈雑言の嵐が吹き荒れていた。
気質としては祖父であるボーダル男爵にとてもよく似ていたのである。ボーダル男爵にしても、男爵の血を見下すような男がデルフィーネ家の婿に入って乗っ取りなどされてしまっては冗談では無い。あくまで取引相手として対等でなければ、爵位で劣る男爵家は不利になり、搾取される危険がつきまとう。
もちろん苦労知らずの欲の皮ばかり突っ張った馬鹿貴族どもをあしらうことなど、商人として経験を積み、同じような海千山千の手強い交渉相手とやり合ってきた男爵には朝飯前だ。
だが、だからと言って舐められても気にしないわけでは無い。
人好きのする笑顔を浮かべた内心では、叩き上げの成り上がりを舐めるな!と荒ぶっているのがフィリップ・ボーダルという男だ。
だからこそ、男爵は熱心に孫娘の婿を探した。
しかし、これという候補が決まりそうになるたびに話は流れ続けた。あの煩い親族たちを黙らせるに足る血筋を持つ相手となると、当然矜持も高い。それにデルフィーネの親族の妨害もあり、主に動いているのが男爵で伯爵ではなかったことが最後の最後で信用されない原因になっていた。
男爵には商人としての信用はあったが、貴族としての信用は別であった。
そんな中、最初にキースに目をつけたのは、実はマリアの父であるデルフィーネ伯爵その人だった。マリアの社交界デビューまであと一年半ほどとなった頃のことである。
その日、男爵は海外との取引高が国内随一のグランデ港にきていた。男爵は薬の原料になる植物を中心に種苗類を手広く扱い、最近は貴族相手の鑑賞用の花にも力を入れていた。
国内にない、華やかで大ぶりの貴族が好みそうな花をつけるものの苗、数種類が到着したのだ。既に育てるのに適していそうな候補地をいくつか見繕ってある。
港では船からは次々と荷物が降ろされ、忙しく立ち働く人夫たちの威勢の良い声が響く。
予定していた商談も終わり、男爵もまた雇った人夫やボーダル商会の人間にあれこれ指示を飛ばして忙しくしていた。
そんな男爵に声を掛けてくるものがあった。
「ボーダル卿」
「おお、これはこれは。珍しいところでお会いいたしましたな」
「旧友が帰国したので、出迎えに来たのですよ」
「そうでしたか」
「相変わらず精力的なご様子で、何よりです」
久しぶりに会った娘婿に男爵は、わざと思い切り力を込めて握手する。
僅かに眉を顰めて伯爵は込められた意趣をさらりと流す。
これくらいのことは出来る程度には、二人の仲は悪くはなかった。
最初のきっかけは、マリアの教師達の件であった。
働かざるを得ないとしても貴族社会で育った教師というのは、その分とても矜持が高い。特に評判の良い教師というのは公爵家相手であっても、見込みがない、最低限の礼儀がなっていないなどと判断すれば、完全に断らないまでもかなり渋る。
マナー教師の場合は住み込みで数年にわたる事もあり、非常に責任も重いから尚更だ。たとえ相手が格上であろうとも、常に引き合いの途切れない一流の彼らは生徒を選ぶことのできる立場だ。伝手もない状況で、とてもではないがマリアの出自では打診することさえ無理だった。金さえあれば何とかなる問題ではない以上、ボーダル男爵は歯噛みするしかなかったのだ。しかし、二流では足りないし、三流ではお話にならない。
だからマリアに必要以上の十分な教師を雇うことができたのは、意外にもこの伯爵の手腕のおかげなのである。
大借金を抱える前は非常に社交的で人気者でもあったウィリアム・デルフィーネは、個人的な人脈が元から広かった。当時の婚約者に逃げられたりもしたが、所詮は家同士の繋がりであったからさっぱりしたものであった。表立っての社交場では親族達のような掌返しに遭ったように見えるが、家が大借金を抱えても残った個人間の付き合いは、実は少なくなかった。
彼はこの残ったつながりを大事にしつつどうにか苦境を脱しようと足掻いた。けれども彼は若く、つながりの多くも同世代の力がない若者ばかりで、どうにもなりはしなかった。
結局父の尻拭いのような形で爵位を継ぎ、平民上がりの妻を娶った彼に色々と思うところがあったのは確かなことで、だからこそ資産運用に関しては妻の父に丸投げすることにしたのだ。デルフィーネ家の資産運用は男爵とデルフィーネ家の家宰が取り仕切っている。もちろんきちんと内容には目を通しているし、疑問に思えば家宰を通して質問もする。領地経営の方は伯爵がこなしているがそちらの方も男爵が関わってくる部分も少なくない。
家のものには疎遠に見せているが、その実伯爵は男爵と関わりが深いのだ。
金銭の扱いについては舅に任せておけば良い。それでは賄えないものを伯爵は自身に求めた。
夫婦という単位でなければ表の社交界では動きづらいが、妻は平民上がりのため却って評判を下げる可能性が高い。伯爵自身、それを妻に求めるのは酷だと分かっていた。
だから個人として紳士クラブを飛び回り、サロンを渡り歩き、個々人との交友を深めていった。そういう場では表に出ない評判や、率直な人物評が入ってくる。
そうして築いた人脈と情報から、伯爵は跡取りのために適切な教師を選び抜いた。彼らの多くは家庭教師をする必要のないそれぞれの道の趣味人であった。
あくまで友人として、娘にその知識を教えて欲しい。
家庭教師と金銭的な困窮は不可分な面もあり、世間体として受け入れられない部分をこうして伯爵は解決した。彼らにとっても周囲にとっても、彼らの立ち位置は本職の家庭教師ではなく、趣味の延長上の遊びであることが大事なのである。
一方で親族には遊び回る片手間に適当に友人達に教師役を頼み、金は舅に出させている盆暗と思わせた。
伯爵は決して親族達を許しはしないし、無能でもなかったのだ。しかし、上手くお互いを補い合う関係でありながら、この義理の親子は決して馴れ合うこともない。
必要がなければ接触することはないのだから、この邂逅が偶然であるはずがなかった。




