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わたくしをガラス細工より大事に扱いたいとおっしゃる貴方へ
貴方と初めてお会いした日から、こんなにも長く離れているのは初めてです。
たった一日。
それでも気が遠くなるほど長く感じるのです。
文通から始まったわたくし達ですが、思えば擦れ違ってばかりいた気がします。
擦れ違いと気付きと歩み寄りと。
そんなものを幾度も繰り返して、わたくしの知っている貴方を増やしてきました。
けれどその度に不安と喜びとが交差して、更に複雑で広大な迷路に迷い込んでしまうのです。
出会う前、文通だけで繋がっていた時は少しの迷いもなく書き出しを決められたのに、今はそれがとても難しい。
親愛なるキース様というのは、きっと不適当ではありませんし、悪くはないのでしょう。
けれど、わたくしにはそれがどうにも余所余所しく感じてしまいました。親愛という言葉の意味を考えた時、わたくしにとっての貴方を言い表すには単純過ぎて到底足りないと思うのです。かといって、他に適当なものも思い浮かびません。
今のわたくしと貴方の関係は、一体何と言い表せば良いのでしょうか。
書類上は夫婦ですし、けれど少し前までは文通から始まった友人関係で、そして今は挨拶の軽い頬への口付けも躊躇ってしまうようなもの慣れない婚約者同士。
どれも本当のようで、どれも本当ではなくて。
ですから、出会ってからのことを一つ一つ思い起こしてみたのです。
貴方がわたくしに下さった言葉はたくさんありました。
中には腹を立てた言葉もあります。思い出すと逃げ出したくなる言葉もあります。心躍った言葉も、切ない思いを覚えた言葉も、本当に様々な色合いの言葉を頂きました。
その様々に思い浮かぶ言葉を心の中の夜空に飾って、一際輝く星を探しました。
そうして見つけたのは、ガラス細工よりも大事に扱いたいのだという言葉でした。
ですから、わたくしから見た貴方の一番素敵な言葉を手紙の一番上に飾りたいと思います。
けれどそうしたところで、なぜこの言葉が一際輝いているのか、その理由をわたくしはすぐには思いつきませんでした。
貴方がとても優しい人だということは、この言葉がなくとも知っていましたし、考えるまでもないことです。貴方は出会ったときから、いいえ、出会う前からとても優しかった。
偽名を使っての文通も、文通の内容も、全てがわたくしの為のものでした。わたくしの好むもので居心地良く整えられた部屋、庭の花々、食事に到るまで、貴方の細やかな気遣いが感じられて、それだけでもう十分なほどわたくしは大事にされていたのです。
出会った日の夜の出来事でさえ、貴方はわたくしの為に全てを整えて甘えることを許して下さいました。
そして今日この日まで、貴方のわたくしに向ける優しさや気遣いはずっと変わらずわたくしの上に降り続いていると感じています。
けれど、日々を重ねるうちにそれに対するわたくしの心持ちはどんどん変わっていったのです。
最初は気遣われることに対して、心地良さよりも己の不甲斐なさを感じて悔しく思うことが多くありました。
そのうちそれも薄まり、今度は柔らかなリネンのシーツに包まれるような心地良さに変わってゆきました。
何気ない会話、小さな悪戯の秘密の共有、目が合えば交わされる微笑み。
間違いなく貴方はわたくしにとって初めての、そして特別な友人でした。
けれども、それもまた次第に変わっていきました。
それは、貴方の優しさが普遍的なものだという思いが強くなったことで生じたように思います。
わたくしの目から見て、貴方を取り巻く人々は概ね善良で慈愛に満ちていました。貴方の伴侶となったわたくしにも、皆様の慈愛は注がれる。その当たり前の中に身を置くうちに、貴方のわたくしに向ける優しさが特別なものではないと思ってしまったのです。
それからは貴方の優しさや気遣いが、まるでわたくしと貴方とを隔てる障壁のように感じるようになりました。
貴方がわたくしに優しいのは、伴侶であるからだ。家が定めた伴侶であるならば、わたくしでなくともその優しさは注がれる。
全ての命の上に降り注ぐ神々の慈雨のように、分け隔てのないもの。
それゆえにわたくしは貴方の本当に特別な存在にはなり得ないのだと思い込んだのです。
それからのわたくしは、迷走していたように思います。いつか現れるかもしれない貴方の運命の人の影に怯えて、少しでも特別な存在に近づきたくて、時には理不尽に貴方を責めて。
そんな有様でしたから、目を曇らせたわたくしは貴方からの言葉を上手に受け取れなかったのです。
貴方が差し出して下さった想いを信じられず、逃げ出してしまったのです。
そのような大失態を演じて初めて、わたくしは自分の胸に宿るものの正体を認めました。
そしてわたくしは打ちのめされたのです。
逃げ出したわたくしが犯してしまった罪に。
貴方を苦しめてしまったこと、悲しませてしまったこと、それを思うと身も心も凍るような後悔に苛まれます。
その後悔の渦中にあって、その覚りは突然訪れました。
先日、エストーマ子爵様と口論のようなことになり、急に距離を縮められた時のことです。
わたくしは、すっかり忘れていた若い殿方に対する恐れを思い出しました。
そしてそのことが、いかにわたくしが貴方に特別大切にされていたのかを鮮やかに突き付けたのです。
ガラス細工よりも大事に扱いたいという貴方の思いを、そうなって初めてきちんと知ったのです。
貴方はどんな時も、わたくしが傷付かないよう細心の注意を払って下さった。
わたくし自身にいつの間にか刻み込まれた貴方の心が、貴方の言葉の偽りようもない真実をわたくしに教えて下さったのです。
今ここに在る貴方を想うわたくしという存在そのものが、答えの全て。
たった一月でわたくしは別人のように変わってしまった。
わたくしに訪れた大事故の兆しを、その奇跡のような出来事を信じて良いのかと畏れ怯える己の姿を、一月前のわたくしにどうして想像出来たでしょう。
今わたくしの胸は、夜明けを待つ渡り鳥のように一杯なのです。
その最初の朝の一条の光を、貴方と共に見たいと切に希うのです。
そして貴方と共に、道無き空へ飛び立ちたい。
喜びばかりがあるわけでは無いでしょう。もしかしたら苦難の方がずっと多いかもしれない。
それでも、そう願わずにはいられないのです。
その朝の訪れを、待ちわびているのです。
貴方にとってわたくしが何者なのか思い煩う、一人の愚かな娘より




