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晩餐を終えたマリアは、女性たちだけで集まるドローイングルームに移動する前に化粧室に寄った。
一人になると考えてしまうのは、どうしたってキースのことだ。
顔を洗って化粧をし直した後に居間に戻ったが、キースの姿は既にそこになかった。部屋に戻ったのかと思って訪れてみたが、居なかった。
ナタリーやロウィーも何処にいるのか知らないと言うし、かといって出掛けた様子もなかった。外出用の外套は玄関ホール横のクローゼットに掛かったままになっていた。
キースは何も言わずにふらっと外出するような性格でもない。決められたスケジュールを無視するようなことも今までなかったというし、マリアは比喩でもなんでもなくカチェリナが言ったようにキースを地獄に突き落とした結果、まさか世を儚んでしまったのではと真っ青になった。
冷静に考えれば、そこまでキースは弱い人間ではないと気付いたのだろうが、とにかくあの時はマリアも動揺していてちょっとした騒ぎになった。
結果的にそのおかげで大捜索が行われ、庭師のデルモットが厩舎で動けなくなっているキースを見つけたので良かったのだが。
発見されたキースにマリアが駆け寄った時、すでにキースには意識がなくて高熱を出していた。
あとはもう、沸かされた湯や薪を運び入れたり、医者を呼びに馬車が用意されて慌ただしく出発して行ったりと、家中が騒然とした。
その間、マリアは何もできなかった。
真っ青になって唇を震わせているキースの顔はまるで死出の旅路に赴く人のようで、自分の犯してしまった罪に息が止まるようだった。
実際、看病されたことはあってもしたことはないマリアはキースのそばにいても邪魔でしかなった。
「きっと少し頭を冷やすために外に出られたのでしょう。恐らくうっかりして少しばかり多めに冷やしすぎてしまっただけですし、騎士として鍛えておられるぼっちゃまなら、明日にもけろっとしていらっしゃいますよ」
優しい老執事の言葉が、この時ばかりはひどく胸に突き刺さった。
自分の不甲斐なさがキースを苦しめてしまったのだと思うと、消え入りたい思いに駆られた。それでも、明日の舞踏会の欠席の連絡を手配する老執事の姿に自分のやるべきことを思い出した。
急いで二階の居間に戻ると、文机に向かう。義姉レイチェルに向けて、今夜の晩餐はキースの体調不良でマリアのみの出席になること、明日からしばらくの間キースは舞踏会も欠席することになること、それに加えてマリアのエスコートは父に依頼すれば応じてくれるだろうことと、キースと二人でなくとも出席した方が良いものについて相談させて欲しいということを認めた。
急いで届けてもらうようカチェリナに託け、マリア一人でも済ませてしまえるものは片付けてしまおうと銀のトレーの封書に着手した。
それも終えてしまうと、キースでなければ判断できない用件や相談してから決めた方が良いものについては、緊急度順にリストアップし、万が一キースがなかなか快方に向かわなかった時の対策について代替案を書き出した。
マリアがやれそうなことは、思いつく限り全部やったと思う。
看病の手伝いは自己満足にしかならないと気持ちを押し殺し、申し出ることはしなかった。
半分先回りのようにナタリーにやんわりと止められていたのもある。
「病人が二人に増えでもしたらかないません。若奥様はキース様がお元気になられた後のお仕置きでも考えておいて下さい」
思い出したのはセロリ尽くしのフルコースだ。マリアも少しなら良いが、大量には遠慮したいと思う、あの野菜。
喧嘩したわけではないけれど、両成敗でマリアも一緒に全部食べようと思った。それから、キースが好きな蜂蜜入り紅茶の淹れ方をロウィーに習おうと思った。
もう絶対に逃げたりしないから。
だから早く良くなって欲しい。あの、少し間の抜けた笑顔を見せて欲しい。
祈るようにマリアは暫く顔を両手で覆って俯いた。
気持ちを切り替えて化粧室からドローイングルームに向かう途中で、ばったりユーグと出くわした。
気持ち的に今は余裕がないので、マリアは少々苦手に思っているユーグに軽く会釈だけしてやり過ごそうとした。
「顔色が悪いね。キースが心配?」
しかし、話し掛けられてしまっては無視するわけにもいかない。
「ええ」
マリアがそう答えると、ユーグはまじまじと不躾なほどマリアを見つめてきた。それから、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「すごいね。一月前に会ったばかりの夫でも、顔色に出るほど心配できるんだ」
その声音に、表情に浮かぶ嘲笑に、マリアは表情を無にした。
「何が、おっしゃりたいの?」
「感心しているだけですよ。キースが単純なのは昔からだから驚かないけれど、親に決められた結婚によく従順でいられるなと思って。反発心とか起こらない?
それとも、雛鳥の刷り込みのように君も無垢で単純なのかな」
ユーグは面白がって甚振るような、馬鹿にしたような態度でマリアとの距離を詰めてくる。
壁際に追い詰められたマリアは恐怖を感じて体を固くした。
「お行儀の良い人形でいるより、ずっと楽しいことがこの世にはあるのに。
知りたいと思わない?」
とん、と壁にもたれるようにしてマリアの退路を塞ぎ、反対側へ逃げるのも妨げるようにマリアの顔の真横に片手をついた。
ユーグの吐息を頬に感じるほどに近付かれて背筋が凍る。
「キースはそういう楽しいこと君に教えてあげられないよ?
俺が教えてあげようか?」
ユーグのその言葉に、無遠慮に頬に触れようと伸ばされた手に、マリアはかっとなって瞬間的に恐怖が吹き飛んだ。
気がつけば思い切り相手に平手打ちを食らわせていた。
怒りで目眩がしそうだった。
この男は、キース様の信頼を裏切った! 大事にしている絆を裏切った!
キース様がガラス細工を扱うよりも大事にしてくれたわたくしを、傷つけようとした!
あんなにも慎重に、傷つけたり万が一にもしないように触れてくれていたわたくしに無遠慮に触れようとした!
「そのお行儀の良い人形にすらなりきれず、かといって徹底的に反抗する気概もない貴方に馬鹿にされるいわれはありませんわ!
百歩譲ってわたくしを馬鹿にするのは良いとしても、キース様を馬鹿にするのは許しません!
キース様は子供時代の思い出に貴方を勇者ユーグと呼んでいらっしゃいました!
キース様が大事にしていらっしゃる思い出を踏みにじるようなこと、二度とお言いにならないで!」
怒りの勢いのまま叫んで、マリアは驚いているユーグを押しのけ、ドローイングルームに駆け込んだ。
待っていたレイチェルが何事かと立ち上がり、明らかに何かがあったとしか思えないマリアを気遣うように何も聞かずに手を引いて椅子に座らせた。
「レイチェル様」
「何かしら?」
「ご長男は根性を叩き直すために海軍にでも放り込んだほうが宜しいと思いますわ」
「……あの子ったら、なんてことを。ごめんなさいね、マリアさん」
なとなく何があったのか察したレイチェルは顔色を変えて溜息をつき、マリアに謝罪しながらそっと背中を撫でた。
「お兄様ったら最高に格好悪いわ」
先ほど引っ叩かれた頬を擦りつつ、ユーグは声の方向に顔を向けた。廊下に飾ってあった甲冑飾りの槍を抱えている妹に苦笑する。
「……子供は寝る時間だろ。物騒なやつだな」
「お姉様に何かしたら成敗するつもりだったの。お兄様みたいな中身お子様もさっさと寝たら?」
「生意気」
「あんまりお兄様が情けないと、私が後継の座を奪うわよ。それで素敵なお婿さんに来てもらうの」
「そうだな、良いんじゃない?」
「もう、お兄様ったらやっぱり私より子供みたいよ」
投げやりな様子で気怠げに笑うユーグに、キャロラインは大人びた顔で溜息をついた。
「……本気でお姉様に何かするつもりじゃなかったでしょ? だって私がいるのに気づいてたもん、お兄様」
「あーあ、嫌われたなあ」
「嫌われに行ったくせに」
「隣の幸福は妬ましいんだよ」
「お兄様、好きな人がいるんでしょ」
一瞬ユーグの目が鋭くキャロラインを睨んだ。
キャロラインは一瞬ビクッとするものの、すぐに元の無気力そうな顔になったユーグに腹を立てて思わず足を蹴った。
「なんだよ」
「今こそ勇者になるべきだと思うけど。このままお父様が決めた人と結婚するの? 勇者ユーグは腰抜けユーグなの?」
「勇者ねえ……」
自嘲気味に呟くと、ユーグはキャロの手から飾り物の槍を取り上げて軽くふりまわす真似事をした。ただの飾りだから、中は空洞で結構軽い。
「お前さ、好きになった相手がダンスが大っ嫌いで、一生ダンスはしないって言うやつでも結婚したい?」
「好きの度合いによるかも。それでも良いって思える人と結婚できるんだったら、それはそれで良いかなって思うわ」
「海と勝負かよ……」
「海って何?」
「こっちの話」
ユーグは槍を肩に担ぐようにして歩き出す。キャロラインもその後を追った。
甲冑飾りのところで立ち止まり、定位置に槍を戻す。
軽くその甲冑の兜を小突いてみたら、クワンクワンと妙な音を立てて揺れた。
「なあ、キャロ。勇者ユーグが返り討ちにあったら慰めてくれるか?」
「嫌よ、腰抜けユーグはお兄様と認めないわ。勝つまで帰って来るなって追い出すんだから」
「手厳しいな」
肩をそびやかして偉そうに言うキャロラインに、ユーグは力なく笑った。
それからポンとキャロラインの頭に手を乗せてから歩き出す。
「そろそろ寝ろよ、見つかったら母上に怒られるぞ」
「お兄様の方が怒られると思うわ」
「一言多い。生意気」
随分年の離れた兄と妹は仲良く並んで階段を上り、二階へと姿を消した。




