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逃げられてしまった。
恥ずかしくて逃げたとかならまだ望みありだけど、そういう感じじゃなかった。
なんでこうなったんだろう。
さっきから何度か聞こえるノックの音にも応える気力が起きない。
多分爺やかナタリーだと思うけど。
なんかもう、放っておいて欲しい。
いい感じだって思ってたのは僕だけで、マリアさんには僕の気持ちは迷惑だったのかな、どうしようもない勘違い野郎だったのかな。
無視してたら諦めたのか、ノックの音も聞こえなくなった。
銀のトレーには封書が積まれたままだ。
やらなくちゃと思うけど、やる気が全然起きない。
「……そうだ、ロックのとこに行こう」
誰にも会いたくなかったし、姿も見られたくなかった僕は外套も羽織らずにこっそり裏口から外へ出た。
厩舎へ行くのに通り抜けなければいけない裏庭は、朝から降り続いた雨のせいで、かなり泥濘んでいた。
きっと靴は泥まみれになるし、服もひどいことになるな。
見上げた空は、分厚い雨雲に覆われていて簡単には止みそうにない。
すでに寒い。こんな薄着で雨に濡れたら風邪を引くだろうな。
淡々と、ただひたすらザーザーと降り続く雨をしばらく眺めていたけど、不意に全部どうでも良くなった。
寝込んだりしたら心配されるだろうけど、それすら煩わしくてどうでも良かった。
むしろ寝込んだら誰にも会わなくてよくなる。
雨の中に踏み出すと、走るのも億劫な僕はすぐにずぶ濡れになった。
厩舎の扉を開けると、馬達が一斉に僕を見る。
「なんだよ、見世物じゃないんだぞ」
意味のない悪態を吐いて、僕はロックの前に立った。
「ロック、また弱音を吐きに来たよ。僕は駄目だなあ。子供の頃からちっとも変わってないや」
濡れ鼠のままでロックの首を抱きしめると、迷惑そうにブルルと鼻を鳴らした。
でも、長い付き合いだから僕がひどく落ち込んでるのが分かるのか、こういう時はロックはいつだって僕の好きにさせてくれる。
濡れて冷たい服越しに、ロックの高めの体温が伝わってくる。
寒くて震え始めていた僕は、ロックの温もりに縋り付くようにしてくっついた。
獣臭いロックの匂い、干した飼い葉の匂い、馬糞の臭い。
ひどく落ち込んだ時の思い出は、いつもそんな臭いと一緒だ。
恋愛小説も恋愛が題材のお芝居も、たくさん読んだし、たくさん観た。
大体のことは知っている気になってた。
浮かれてた僕は、どこかで慢心してたんだ。必ずマリアさんは僕に振り向いてくれるって。
「苦しいなあ。こんなに苦しくなるなんて、知らなかったよ」
目頭が燃えるように熱くなって、涙が零れた。
「気持ちが通じ合わないって、こんなに辛くて苦しいんだね。
マリアさんが笑ってくれたら、それで良いと思ってたんだ。ひどい思い上がりだったよ。
無償の愛なんて、僕には無理だったよ。
だってさ、僕にとってこんなにもマリアさんは特別で、それが一方通行だなんて耐えられない。
マリアさんの特別になりたくてたまらない。
見返りが、欲しいよ。
こんな卑しい根性だから、マリアさんに見抜かれたのかな」
一瞬、諦められたら楽になるのかな、なんて考えが過った。
求められるままに種馬な婿殿やって、仕事の一部だって割り切って。
だけどやっぱり嫌だった。そんなのは嫌だと子供の癇癪みたいに感情が吹き荒れて、涙が馬鹿みたいにあふれた。
なんかもう、やけになって泣いた。
気がすむまで泣いたら幾分気持ちもスッキリして、投げやり気分もおさまった。
だけど、確実に馬鹿をやったツケというのは支払わなければならないわけで、これはまずいと思った時には立っていられないくらい体調が悪化していた。
僕はずるずるとロックの足元にへたり込んだ。
頭が熱いし、痛いし、体がすごく重くて怠い。
ロックが心配そうに僕の顔を鼻先でつつくけど、反応を返すのも辛い。
そしたら、ロックが甲高い声で嘶き始めた。
「さすがロック師匠、賢い……でも、頭痛いよ」
その意図を察して感心するけど、そのおかげで頭痛が増した。
意識が遠のきそう。
これ、寝ちゃいけないやつじゃないかな。
不鮮明になりそうな意識が、誰かが雨の中走ってくる音を捉えた。
「何やってんですか坊ちゃん!」
あー、デルモットだ。
「遭難、した」
「何馬鹿なこと言ってんですか! ほら、背負いますから乗っかって下さい!」
「声、大きい。頭痛い」
「いいからさっさとして下さい!」
僕はどうにかデルモットの背中に張り付いた。
ゴワゴワの外套を着たデルモットの背中は、あまり居心地が良くなかった。
「ロックの方が、あったかい」
「そりゃ馬の方が体温高いですからね」
「ごめん」
「そりゃ爺やさんに言って下さい。寿命縮める気ですか」
「困る」
デルモットの背中は、ロックの背中よりもずっと乱暴に揺れた。
頭痛は酷いし世界は回るし助けが来て安心したしで、僕はいつの間にか意識が飛んでいた。
目が覚めた時、僕の体調は最悪だった。
まあ当たり前だ。自業自得の極致だった。
頭も痛いが、喉も焼けつくように痛い。身体中の関節も痛い。
サイドボードに水差しがあるのを見つけたけど、そこまで辿り着ける気がしない。
僕は仕方なく、枕元にあった呼び鈴を鳴らした。
「ああ、良かった。お気が付かれたのですね」
すぐさまやって来たナタリーは、ホッとした顔をした。
色々言わなきゃいけないことがあるのは分かってるけど、とにかく水が今は欲しい。
でも、水って言おうとして声が出ないのに気づいた。
「水ですか? お待ちくださいね」
すぐにナタリーが察してくれて、吸飲みに水を満たしたのを持って来てくれる。
ナタリーに手を貸してもらって、枕を背もたれにして少し体を起こした。
焼け爛れたような痛みを訴える喉を冷たい水が通り過ぎて行く。
飲み込む時にも痛みを感じるけれど、とりあえずは乾きが癒されて一息つくことができた。
ふと、雨の音がもう聞こえないことに気づいた。
窓の外を見れば、もうすっかり真っ暗だ。
雨だったし、今日出席予定だったお茶会は中止になっていたと思うから大丈夫かな。
今夜は久々に本邸で晩餐だったと思い至って、声が出ないなりに口をはっきり動かしてどうしたのかナタリーに聞いてみた。
「若奥様一人であちらにいらっしゃいました。キース様は体調を崩され、念のために大事を取っていることになっております」
なんか気を遣わせちゃったなあ。
真面目なマリアさんのことだ、絶対気に病んでそう。
しかし、この体調じゃしばらく舞踏会は欠席だ。
明日の分は、爺やのことだからもう先方に欠席の連絡をしていてくれていると思うけど。
義父上に連絡してエスコートしてもらえば、マリアさんだけでも出席できるし、どうしよう。
「社交のご予定のことは、若奥様が奥様にご相談されるそうです。ですから心配せずにお身体を治すことだけお考えください」
そうか。義姉上なら安心だ。
社交嫌いの兄上と、そんな兄上を上手に支えてくれている義姉上。
理想的だよなあと、今更だけどしみじみ思う。
補わないといけないようなところ、マリアさんには見当たらない。
護衛ぐらいの役には立たないと。
「早くお元気になってくださいね。若奥様がそれはもう、心配していらっしゃったんですよ」
……今はちょっと会うのが怖いよ。
「情けない顔をなさらなくても、大事な若奥様に風邪を移したら大変ですから会わせませんよ」
そう言われるとすごく寂しい気がして来た。ただでさえ弱ってるときは甘えたくなるんだから。
「知りませんよ、今回のことはキース様の自業自得です」
知ってる。
「さあ、そろそろ薬を飲んで休んで下さいませ」
僕は大人しくナタリーに従って、やたら苦い薬を飲んだ。
ここ数年は風邪らしい風邪を引いたことがなかったから、薬を飲むのも久しぶりだ。
子供の頃はこの苦い薬を飲んだ後は、必ず爺やが蜂蜜たっぷりミルクたっぷりの紅茶を淹れてくれた。
懐かしくなったけど、それを欲しいと言うのはやめておいた。
爺やにも合わせる顔がない。
ナタリーの言う通り、さっさと治してしまうことが各方面の精神衛生上一番だろうと思うので、元気になって、それから遠慮なく叱られよう。
……叱られなかったらどうしよう。
いや、叱ってもらうような年じゃないことを僕は自覚すべきだ。
ちゃんと謝らないと。
冷たい水で絞った布を額にのせてもらって、僕は目を閉じた。
眠気はすぐにやって来て、翌日昼前までぐっすりだった。




