44
結論から言うと、マリアは逃亡した。
紛うことなくどこからどう見ても立派な敵前逃亡であった。
厳密には敵ではないのだが。
逃げ戻ったマリアの部屋では、カチェリナとナタリーが掃除を始めていた。
当然三人とも突然の珍事に驚いてお互いに動きを停止させた。
マリアは更にそこからも逃亡して衣装部屋に駆け込み、ぴしゃりと扉を閉めた。
いち早く動き出したのは家政婦長のナタリーで、手早く掃除道具をまとめながらカチェリナに「私はキース様のところに参ります。若奥様をどうぞよろしくお願いします」と言って出ていった。
言われなくても当然のことと、常にないマリアの様子にカチェリナは顔を強張らせて衣装部屋の扉に片耳を付けて様子を窺う。心配で逸る気持ちを落ち着かせるように、カチェリナはゆっくりと心の中で十数えた。
慎重にいつもよりもずっと小さなノックの音を響かせる。
「お嬢様、ナタリーは下がりました」
声を掛けてしばらくすると、扉が開いた。ひどく気落ちして途方にくれた迷い子のような顔をしているマリアに、カチェリナは一体何があったのかとキースに苛立ちを覚える。
とにかく座って腰を落ち着かせてもらおうと、カチェリナはマリアの手を取ってベッドに促した。
「何かお飲み物を用意して参ります」
黙ったままのマリアに少しお一人にしたほうがいいかもしれないと思い、そう告げて身を翻したところでカチェリナを弱々しい声が引き止めた。
「キース様が、わたくしを好きだと言うの」
カチェリナはすぐに引き返して、弱っている主人の前に跪く。
「浮かない顔をしていらっしゃいますね」
マリアの侍女になったのは、カチェリナにとって恩人であるかの方の願いだったからだ。だが、短くない月日をお仕えし、今では主従を超えて娘のようにその幸せを願うようになった愛しい存在だ。
そしてカチェリナ自身マリアに似た頑なさがあり、マリアの育った環境もよく知っているカチェリナにはマリアの戸惑いが分かる気がした。
「子爵様のお気持ちに困っていらっしゃるのですか?」
「……多分、困っていると思うわ」
「でも疎ましくは思っていらっしゃらない」
「……ええ」
「ここに移られてから、お嬢様は日を追うごとに表情が豊かになられました。私とのお喋りは、子爵様の事ばかりで。とても楽しそうにしていらっしゃって」
「……」
「困ることなど、何一つないように思います」
「そんなことないわ、すごく困るわ。だって、わたくしは可愛げがないもの。キース様は可愛いなんて仰るけど、絶対勘違いだもの。一目惚れなんて、絶対に違うもの」
今にも泣き出しそうな顔でキースの気持ちを否定しようとするマリアに、カチェリナはマリアの恋心を感じて穏やかに微笑んだ。
「それはそれで政略結婚であれば特に問題ないかと。当初お嬢様は先に惚れた方が負けなどという定説を引っ張ってきて、惚れさせて主導権を握ってやるなんて息巻いていらっしゃいました。その言に従うなら、たとえ誤解でも今の状況は都合が良いはずです。
でも、今はお嬢様はそれは困ると仰る」
見る見るうちに、俯いたマリアの顔が赤くなる。聡いマリアの事だ、きっと自分でも気付き掛けていたに違いない。膝の上でぎゅっと握りしめられたマリアの両手を、自分の両手でそっと上から包んだ。
「こちらに移られた日の翌日、子爵様の希望でこの離れの中だけでも全くなかった婚約時代を経験したいからと、そのようにお嬢様も扱うようにとの通達があったとお話ししました。覚えていらっしゃいますか?」
マリアが小さく頷く。
「私の目には、その頃からずっと子爵様はお嬢様に夢中でいらっしゃるように映っておりましたよ」
カチェリナは目を細めてその時のことを思い出した。
洗練されているとは良いがたい不器用な様子で、真っ赤になって必死で思いを告げていた。使用人相手に威厳もへったくれもない姿だったが、だからこそカチェリナは心を動かされた。この方ならきっと、カチェリナの大事な主を幸せにして下さると。
「……キース様は恋に憧れていらっしゃって、運命の人なんてものを信じていらっしゃって。でも、わたくしは家が決めただけの結婚相手で」
ぽつりぽつりとマリアが胸の内を語り始める。
「結婚は義務だと思っていたの。愛なんかなくて構わないと、思っていたの」
言外に今はそうではないと訴えるマリアの瞳が、じわりと潤んだ。
「臆病だからなんて言って、もし運命の人と出会っても見て見ぬ振りでずっとわたくしのそばにいてくれる人で。婿に迎えるにはとても都合が良い、無欲なお人好しで。
愛なんてなくても義務さえきちんと果たしてくれたら、愛人も好きにすれば良いと思っていたの。本気で、そう思っていたの。
でも今は考えるだけで苦しいの。わたくしの存在がキース様が出会うかもしれない運命を潰してしまうことも、そんな存在が現れることを想像することも。
たまたま家の決めた結婚相手だったことが、厭わしいの。だってわたくしじゃなくても構わないんですもの。
怖くてたまらないの。
たった一ヶ月でわたくしはまるで別人だわ。キース様の言葉に一喜一憂して振り回されて、まるで道化だわ。
天高く舞い上がったと思ったら、次の瞬間には狩人に撃ち落とされる山鳩のように真っ逆様で。
そういう気持ちを向けられるのはまだ怖いような気がして、友情のようなものを望んだのはわたくしなのに、気が付けばそれを不満に思って勝手に落ち込んだり恨めしく思ったり、支離滅裂だわ。酷い理不尽だわ。
自分で自分が信じられない。
キース様が思ったような反応を返してくれなくて落胆して、そのくせ特別な気持ちを告げられて嬉しいはずなのに信じられなくて逃げ出して!
もういや。わたくしの方がよっぽど臆病じゃない……」
溢れるものを留めておけなくて、涙と一緒にマリアが内心を吐露する。すっかり気弱になってしゃくり上げ始めてしまう様子に、切ない気持ちと愛おしい気持ちとでカチェリナもつられて涙ぐむ。
ほんの子供の頃から知っているマリアだが、こんな風にカチェリナの前で泣くのは初めてのことだ。いつだって歯を食いしばって耐えていた。
裕福な貴族の一人娘として恵まれた生まれでありながら、そのせいで長いこと幸せと縁遠かった主の初恋だ。
報われて欲しいと、心から願った。
「子爵様に恋していらっしゃるのですね」
「苦しいばっかりだわ。これが恋なら憧れるなんて頭がおかしいのよ」
「恋煩いと人が言うくらいですから」
「やっぱりこれは恋なの?」
「私にはそう思えます」
「……キース様も、わたくしと同じだと思う?」
「それはもう。お嬢様よりもずっと天国と地獄とを行き来されていると思いますよ」
あれほど見ていて分かりやすい恋する人間を、カチェリナは他に知らなかった。実感を込めてそう言うと、マリアが泣きながらも少し笑った。
「そうね、わたくし何も答えずに逃げて来てしまったの。酷い仕打ちだわ」
「きっと待ち焦がれていらっしゃいますわ」
マリアは顔上げて背筋を伸ばした。いつもの自分を取り戻そうとするかのように、気弱な表情を追い出して凛とした様子に変わる。
それから一度ぎゅっとカチェリナの手を握り返して、見守っているカチェリナの目を真っ直ぐに見つめ返してくる。
「カチェリナの手は、温かいわね。キース様の手も……温かかったわ。当然のことなのに、今まで知らなかったの。ありがとう、カチェリナ」
「お嬢様は私の大事な主でございますから」
「顔を洗いたいわ」
「すぐにご用意いたします」
マリアの意を受けて、カチェリナもまたいつも通りキビキビした動きで主の願いを叶えるために立ち上がったのだった。




