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後から合流したユミルも交えて話し込んでいたら、かなり遅くなってしまった。出迎えてくれた爺やに二階の居間でマリアさんが待っていると聞いて、駆け足気味で階段を登る。
ノックしようとして、ちょっと待てよと自分の服の匂いを嗅いだ。
ちょっと酒臭いかも?
気休めに、ぱぱっと手で服の表面を払う。
真夜中近いので、控えめに二回ノックして返事を待つ。
あれ?
待ちきれなくて寝てしまったのかな。
耳を澄ましていたけれど、何の物音もしなかったのでそっと扉を開いた。
燭台は灯されたままで、何となく人のいる気配がする。
毎朝手紙を書いている机、寛ぐのに丁度良い長椅子、そのどちらにもマリアさんの姿がない。
どこにいるんだろうと少し不安な気持ちで足を忍ばせて探していると、テラスへのガラス扉の前に置かれた安楽椅子に人影があった。
起こさないように、静かに近づく。
そういえば、最近全然座ってなかったなあ。僕が生まれる前に亡くなってしまったお祖母様の安楽椅子は、僕にとって最高の昼寝椅子だった。だって揺れるし。揺れるってすごいことだ。赤ちゃんの揺りかご、大人用だってあって良いと思う。
文通にも書いたっけ。
マリアさんが来てからは、昼寝に時間を使うのが勿体無くてすっかり忘れてた。
そろそろと椅子の背後から覗き込む。
燭台の灯りもほとんど届かないけれど、月明かりのおかげで朧げに寝顔が見える。
盗み見みたいでちょっと後ろめたいけど、ドキドキする。
無防備な表情に、穏やかな寝息。寝ているときは誰でも天使、なんて言うけど、起きている時だって天使のマリアさんの寝顔は天使の寝顔なんて表現じゃ追いつかない可愛さだ。もうお化粧も落としているからか、いつもの凛とした雰囲気もなくて。守ってあげたくなる無垢なあどけなさって、こういうことなのか、なんて思ってしまう。
ずっと見ていたくもあるし、揺り起こして微睡の眼差しを向けられてみたいとも思う。夢うつつで僕を見て、それから何を一番に口にするんだろう。
驚いて、顔を赤くするのかな。それから怒った顔をするのかな。それとも、全然平気な顔を取り繕って、澄まし顔で淑女の寝顔を覗くなんて無作法な騎士様ですこと、なんて言ったりするのかな。
どれでもきっとすごく可愛いだろうな。
想像しだすとキリがない。
でも、そろそろ本当に起こさないと。こんなところで寝て居たら、体が芯まで冷えてしまう。
眠り姫はキスで起こして差し上げるのが定番だろうけど。
僕の中でヘボ詩人殿が騒ぎ出す。
ダメだと思いつつも頬にするくらい許されるかなとか、グラグラ心が揺れる。
僕はそっと安楽椅子の背を押した。
ぎしりと小さく軋む音がして、前後にゆっくりと椅子が揺れる。
マリアさんの閉じた瞼が月明かりの中で震えて、僕は思わず屈みこんでそこに口付けた。
その瞬間、マリアさんの目がパチリと開いた。
「……」
「……」
ものすごい至近距離で見つめ合っている。
でも甘い雰囲気とか微塵もない……!
僕はうっかり冬眠中の熊を起こしてしまった狩人のように、目をそらさないまま慎重にゆっくりと体を起こしてマリアさんから離れた。
完全に直立したところで、深呼吸した。
「調子に乗りました」
「お帰りなさいませ」
二人同時の発言は全く噛み合ってなくて、一瞬の沈黙の後で同時に噴き出してしまった。
「ええと、ただいま帰りました。待っていてくださったんですね、遅くなってすみません」
「気になさらないで。久々に一人の夕食だったのでなんだか調子が狂ってしまって。落ち着かない気分だったので、ちょっとここに座ってみましたの」
マリアさんはゆっくりと安楽椅子に揺られながら、そう言ってはにかんだ。
まだ少し眠気を引きずっているのか、いつもよりぼんやりした表情が可愛い。
「お気に召しましたか?」
「はい」
「それは何よりです。でも、そろそろ体が冷えてしまいますから。部屋まで送ります」
差し出した僕の手に、マリアさんの手が重なる。
その手が結構冷たくて驚く。
僕は立ち上がったマリアさんの両手を自分の両手で包み込んだ。
「冷えちゃいましたね」
「あの……」
「はい?」
マリアさんは僕の手に包まれた自分の両手をじっと見ながら、黙り込んだ。
嫌がっては、無いよね?
大人しく僕の手の中に収まっている一回り小さな手は、だんだんと僕の熱を奪って温もっていく。
「先ほどの、あれは……どういう意味ですの?」
「えっ!? ええと、それはその」
まさか直球で聞かれると思っていなかった! どうしよう、どう答えるのが正解!?
ちょっと待て、落ち着け。怖いとかそういう嫌な思いをさせちゃってたら親愛のキス一択だ。友情の延長線上ってことで全力で誤魔化そう!
「先に聞いておきたいのですが、嫌ではありませんでした? 怖かったとか。ええと、僕に遠慮とかせずに正直にお願いします」
「それは、ありませんでしたわ」
「よ、良かった」
とりあえず、怖がらせたりはしてなかったみたいで安心した。
……嫌でも無かったってことは、もしかして次の段階に行けるかも?
僕はにわかに緊張してきた。そわそわしてきた。
最近良い感じの雰囲気になることも、結構あったし!
素に近い表情も見せてくれるようになったし!
「あのですね、呆れないで聞いて欲しいんですけれど。こう、眠っているマリアさんを起こそうとした時に、眠り姫を起こすなら口付けだよな、なんて思ってしまいまして。気がついたら瞼に、してました」
ああもう、何言ってんだ自分!
見ろ、マリアさんが返答に困るって顔してるぞ!
「随分可愛らしいことをなさいますのね」
「可愛くないよりは可愛ほうが良い気がするので大丈夫です。いや、大丈夫じゃない! ええと、そうじゃなくてですね。何か誤解されている気がするのですが」
「童話になぞらえて悪戯をなさったんでしょう?」
「まあそうなんですけど、そうじゃなくて逆というか。童話をダシにして欲望に負けたというか」
「欲望?」
「はい、つまり婚約者同士っぽいあれこれをそろそろしてみたいなーという欲望です」
目の前で、マリアさんが真っ赤になって固まった。
僕も同じように固まった。多分、真っ赤だと思う。
焦ると全部白状しちゃうこの癖、本当やめて。
死にたい。
「そ、そうですわね。だいぶ、その……親友っぽい感じは達成できましたし」
「む、無理しなくても、良いですよ」
「だ、大丈夫ですわ。その……具体的に、婚約者同士っぽいあれこれとはどういうものかしら。今までと何が変わりますの?」
「えっ。ええと、そですね。挨拶の時に、口付けを交わすとか。あっ、頰とか額とかです! あとはお揃いの装飾品を身につけるとか」
「……やってみますわ」
「えっ」
「何事も挑戦しなければ始まりませんし」
なんだかマリアさんが決意に満ちた顔をしている。さっきちょっとあった気がする甘酸っぱい感じは何処へ?
でも、やる気に満ちているマリアさんも可愛いから良いか。
次の段階に進めることになったし!
その後マリアさんをエスコートして部屋の前まで送ったところで、マリアさんから不意打のお休みなさいのキスを頂いた。
真っ赤になって部屋に逃げ込むマリアさんの後ろ姿を呆然と見送った僕は、まだはっきりとその柔らかい感触の残る右頬に手を当てて無言で転げ回った。
本当は叫びたかったけど、真夜中なので我慢した。その代わり、ベッドの上で未だかつてないほど暴れた。小さい頃だって、こんなことしたことない。
結局一睡も出来ずに迎えた朝、白い羽毛がそこら中に落ちていた。
げに恐ろしきは若き情動の激しさよ。
この歳にして爺やに「ぼっちゃま、寝台はお休みなる場所でございます。遊び場ではございません」という情けないお小言を頂きました。とほほ……。




