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エペローナという偽名を使う主人公が出てくる芝居の題名は『騙し騙され咲く花は』というもので、調べてみたところ推理ものではなく喜劇だった。題名と種類くらいしか分からなかったので、どういった内容なのかは分からない。
ドロテアの情報だと姉の自殺の真相を探るため、女装した弟が使う偽名がエペローナらしい。だが、その内容でどう喜劇になるのか疑問だった。
ただ、数年前に公演された時の主役の名前だけは確認できた。
“主演:ドミニク・カスター(ライール・デロス/エペローナ・デロス役)”
書き方からして一人二役とも考えられるが、男性が女性の偽名を使って女装するというのは強い印象として残るから、おそらくその部分は間違いないのだろう。
「ねえ、カチェリナ。貴女はこのお芝居のこと、知っていて?」
「いいえ」
「過去の公演記録を見てみても、ここ数年は無いのよ。あまり人気が無いのかしら」
残念ながら、国立中央劇場では近く公演の予定もない。年末が近くなると、この時期の定番の演目が増えるのもあって、あらすじくらいは知っている有名どころばかりが予定表に並んでいる。
「それにしても、知っている人なら真っ先に色々と疑いそうな偽名を使うなんて。困った方。ねえ、そうは思わなくて?」
何もなかったし、特に不審に思う者もいなかったから今となっては笑い話だ。
逆にキースの少し抜けたところに気付いて楽しくなってしまうのだから、マリア自身自分に少し呆れる。
「私が思いますに、子爵様は全体的に思考が若くていらっしゃるのではないかと」
「そうね、たまに子供のようなことをおっしゃるわ。細やかな気遣いをするかと思えば、急に悪戯っ子のようなこともするし」
してやられた気分になることもあるが、それ以上にからかいたくなることもある。
『騙し騙され咲く花は』を観たいと言ったら、キースはどんな反応をするだろう?
そう思うと心が弾んでしまう。
「私としては、お嬢様が楽しそうにしていらっしゃることが何よりでございます」
そんな気持ちが顔に出たのか、カチェリナに微笑ましげな言葉を掛けられてしまう。気恥ずかしくてつい顔を顰める。
「ところで、針子の妖精というものを知っていて?」
「存じております。北スラボルド地方に伝わる民話かと」
話題を逸らそうとしたら、思いの外きっぱりとした答えが返ってきてマリアは驚いた。
「知らなかったわ。有名なの?」
「中央大陸の西側諸国では有名かと」
「その民話を題材にした装飾の裁縫箱も、よくあるものなのかしら」
「はい。我が国では裁縫の上達を祈るのは糸紡ぎの女神ファタゴというのが通例ですが、あちらではその文化が失われましたから。針子の妖精の装飾の付いた裁縫箱は、貴族家の娘であれば誰でも持っているような当たり前の品です」
「そうなのね。カチェリナも持っていて?」
「私は持っていませんが、母が持っておりました」
「そう。今日マグナー子爵令嬢のお持ちのものを見せて頂いたのよ。薄緑色に色とりどりの花が描かれていて、妖精があちこち隠れているの。内蓋を開けると針と糸巻きを持った妖精がいて。似ている?」
「はい。母のものもそのような感じだったかと思います」
「そう。どこかで似たようなものを見た気がしたのだけれど、思い出せなくて」
「案外お嬢様も昔お持ちだったのでは? ボーダル男爵であれば、お嬢様のために大陸から取り寄せてもおかしくはないかと」
確かにそういう可能性はあるかもしれない。商売柄あちらの文化にも詳しいし、マリアをとても可愛がってくれている祖父ならば。幼い頃に贈られたものなら、余り陽の目を見ずにしまい込まれてしまったのかも知れない。
現在マリアの持つ裁縫箱は螺鈿細工を施したもので、伝統的な籠型をしている。きちんとした品という意味なら、我が国では貴族の娘の持ち物としてはこちらの方が相応しいのだろう。
「カチェリナ、貴女物知りね」
「私の両親はあちらで生まれ育ちましたから、少し知っていることが多い程度でございます」
そこでマリアはカチェリナの生家であるスヴェーロフ子爵家のことを思い出した。確かに考えてみれば名前からして中央大陸の北がルーツであるのは察しがつくし、貴族名鑑にも余り詳しいことが書いていない家だ。
「カチェリナのご両親の代で帰化されたの?」
「正確には祖父の代です。外交官としてこちらに来たのが契機だと聞いております」
「そうだったのね。スヴェーロフ子爵様も外交関係の仕事を?」
「恐らくは」
ここまでかしら。
マリアはそう思って話題を打ち切ることにした。カチェリナがここで自分の侍女をしている理由は家の事情と無関係ではないだろうし、疎遠になっているなら自ら話してくれない限りは触れるべきではないだろう。
「それにしてもエペローナの出所は分かったけれど、ラフは何なのかしら」
「謎でございますね」
名前と苗字を別々のところから引っ張って来ていたとは思わなかった。
答えを見つけたと自信満々で課題を提出したら、引っ掛け問題で途中からやり直しと言われたような悔しさがある。
キースに聞くのは簡単だが、絶対自力で探し出してやると妙に意固地な気分になった。
その日の夕食は、マリア一人で取ることになった。マリアがドロテアにお呼ばれしたように、キースの方も友人にお呼ばれしたらしい。
騎士学校時代からの友人でもある元同僚と会うのだと言っていた。
夕食までには戻ると聞いたのに、結局夜半になるそうだ。
ここに越して来てから、初めての一人きりの夕食だ。以前は一人での食事が当たり前であったのに、すっかりキースと一緒の食卓に慣れてしまった。
寂しさを感じている自分に苛立つ。こんなことでいちいち寂しいなどと思うような軟弱さが疎ましい。こんな風に自分を弱くした原因にペチコートの内側で悪態を吐く。
キースが優しいのがいけないのだ、甘やかして弱くしておいて、一人にするなんて酷い。
いつも通り夕食は美味しかったはずなのに、食が進まずに残してしまった。マリアは気分を変えようと、二階の居間の方に食後のお茶を用意させることにした。
キース推薦の小説でも読もうかとも思ったが、その気になれずにぼんやりとしてしまう。
今頃、キースは友人たちと楽しくやっているのだろうか。
そんなことをとりとめもなく考えていると、ノックの音が響いた。
どうぞ、と返事をすると老執事だった。
「失礼いたします」
食後のお茶を用意して来たのだということは分かったが、いつもはカチェリナがそれをする。
訝しく思いながらも供された紅茶に手を伸ばした。
マリアは夕食後の紅茶は薄めでミルク多めを好んでいる。砂糖も入れるが、甘さがいつもと違った。蜂蜜だ。
デルフィーネ領では養蜂はされていないので、普段使いするものではなかった。砂糖よりも高価であることは知っている。
体調を崩した時に蜂蜜を溶かした温かいミルクが出されることもあったが、大体は紅茶との相性の良い蜂蜜のいくつかを知識として叩き込むために嗜んだ記憶しかない。
下がる様子のない老執事に、マリアは声をかけてみる事にした。
「何かあるのかしら?」
「今夜は坊っちゃまが珍しくいらっしゃいませんから、もしよろしければこの爺がお話相手になればと思いまして」
マリアは実家の家宰よりも年を重ねた老執事を見上げる。穏やかな笑みを浮かべるその顔を少し見つめた後、頷いた。
「今少し八つ当たりしたい気分ですの。それでもよろしくて?」
「はい、ありがとうございます。何か不都合でもございましたか?」
「あるわ。ここの人たちは寄ってたかってわたくしを甘やかそうとするのね。おかげで我儘になりそうよ」
「はて、そのようなことがございましたか?」
「この蜂蜜入りの紅茶が、もうそうでしょう」
「食欲が振るわない時など、坊っちゃまにもお小さい頃からよくお出ししておりました」
「ほら、甘やかしているじゃないの」
「元気になるためのお薬ですから。服用していただかないとこちらが困ってしまいます」
「こんな素敵なお薬なら毎日でも服用したいのだけれど?」
「それはお勧めいたしません。常用すれば効果が薄れますので」
「そう? それじゃあもうやめておいた方が良いかしら」
「もう一杯ほど飲んでいただけると、処方としては完璧でございます」
マリアは楽しくなって少し笑った。ユーモアのある優しさがじわじわとマリアの心に染み込む。
嬉しいけれど、苦しくて涙が滲みそうだ。
この優しい人たちがいたから、キースがあんな風に育ったのだ。そしてマリアはこの優しい人たちからキースを奪って行くのだ。
マリアは目を閉じてゆっくりと蜂蜜入りの紅茶を味わう。これは白詰草の蜂蜜だ。癖がなくて後を引かない優しい甘さ。
味を覚えるために飲んだ記憶には、好きとか嫌いとかいう印象はなかった。気がついていなかったけれど、自分はこれがとても好きだ。美味しいと思った。
空になったカップに、再び紅茶が満たされる。
白いミルクが渦巻いて、柔らかな香りが広がる。
とろりと美しい金色の蜜が、そこに吸い込まれていく。
それはなんだか夢のように幸せな光景に思えて、マリアはため息をついた。
「正直に言うと、恐ろしいわ。わたくしはいずれここを離れるのに。どうしてくれるの、こんなに弱くなってしまったら昔に戻れないわ」
「大丈夫でございますよ。この程度でしたらしっかり坊っちゃまに処方をお教えしておきますから。私共はご一緒できませんが、坊っちゃまはずっと貴女様と共におられますから」
マリアは滲んだ涙を指先でそっと払うと、紅茶に手を伸ばす。
優しい味に、やっぱりまた涙が滲んでしまう。
「わたくしも、覚えた方が良いかしら。その、キース様のために」
「お望みでしたら、いつでもお教え致します」
「上手くできるかしら」
「そこは練習あるのみでございます」
「そうね」
マリアは、今すぐキースに会いたいと思った。
何でもいいから、話したかった。
寂しかったと言ってみたかった。
きっと本人を前にしたらそんなことは言えないのだけれど。
優しいあの人は運命の人に出会っても、見て見ぬ振りをしてマリアの傍にずっといてくれる。
それ以上を望んだら、罰が当たるから。
「そうだわ。ラフという名前に心当たりはなくて?」
「ラフ、でございますか?」
「ええ、苗字だと思うのですけれど」
何でも知っていそうな老執事だったが、残念ながら知らないらしい。
「申し訳ございません」
「貴方でも知らないことがあるのね」
キースに関することで。
マリアはわかりやすく機嫌が上向いた。




