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「その裁縫箱がどうかしまして?」
そう声を掛けられて、マリアは自分が今他家を訪問中だと思い出した。
僅かでも緊張感を途切れさせたことに、内心顔が青くなる。
「可愛らしい意匠に、つい目が引き寄せられましたの」
「マリア様もそうお思いになられます? 良かった、嬉しいわ。私の妹なんて子供っぽいと意地悪を言いますけれど、大事なお気に入りですの」
そう言って、嬉しそうにドロテアは古びてくすんだ色合いになった薄い緑の裁縫箱を引き寄せる。
何処かで見たような既視感を覚える裁縫箱は、正直に言えばマリアの好みでは無かった。色取り取りの花が描かれた側面、そこに紛れて描かれる可愛らしい笑顔を振りまく妖精達は成人した貴族女性が持つには些か不似合いというか。
「使い込まれたご様子からすると、随分と幼い頃から刺繍を?」
「普通よりは針を持たされる時期は早かったと思いますわ。でも、この裁縫箱が少し古いのは元は母のものだからなの。母が子供時代に中央大陸から伝わった童話が題材で」
蓋を開けると、内蓋に身長と同じくらいの長い針と、樽のような糸巻きを抱えた妖精が描かれていた。その微笑みを、やはりマリアは何処かで見たような気がした。
「針子の妖精ですわ。小さい子供が針仕事を覚えようと四苦八苦しているとやって来て、手伝ってくれる」
きっと大事な思い出があるのだろう。ドロテアは優しい眼差しでその妖精を見つめていた。
「そうですわね、わたくしも糸が縺れて絡まってしまう度にお手伝いに来てくださらないかと夢想しました、わ」
ふっと口から出た言葉にマリアはぎょっとして最後が乱れた。
これは一体何なのか。
懐かしい? 悲しい?
「まあ、ご存知でしたの?」
「いえ、はっきり思い出したわけではないのですけれど、子供の頃誰かに聞いたような気がしますわ」
急に胸に溢れた、説明のつかない感情に内心で動揺しながら、当たり障りなく会話を続ける。
「きっとマリア様も針仕事を習い始めた頃に、お聞きになったのじゃないかしら? それなら随分と幼い頃ですもの、よく覚えていらっしゃらなくても無理ないわ」
マリアの動揺を察してか、取り成すようにドロテアが言う。気を使わせてしまった事に、慌ててマリアは気を取り直した。
「そうですわね。なんだか急に懐かしいような思いが溢れて、自分でも驚いてしまいましたわ」
そう会話を締めくくって、マリアは微笑んだ。
伝統的な花嫁衣装は、デビュタントが着る襞を多用した古代風ドレスの上に、刺繍で埋め尽くしたワンピースを重ね着する。そして円筒型の帽子被る。
花嫁が幸福になるように神への祈りを込めて刺繍する、その一部をマリアも頼まれた。より沢山の人の手が入っているほど、花嫁は幸福になると信じられている。
代々付け足されて受け継がれる様式なので、刺繍は裾に帯状に足されていく。
八割がた完成した帯の未完成部分の下絵に従って、マリアは丁寧に刺繍を刺す。ドロテアはマリアの向かいで帽子の刺繍の仕上げに入っていた。
「地はシルクではないのですね。麻、なのかしら」
「ええ、亜麻ですわ。最初の花嫁刺繍の地が亜麻だったので、それに合わせて。でもそれだけではなくて、シルクの薄い生地は劣化しやすいから。密に織られた絨毯ならともかく、シルクは水にも太陽の光にも弱いでしょう?」
「修復も難しいということかしら」
「そうですわね、今のシルク地ならともかく、ご先祖様がたが渡って来られた当時のものはどんなに保管に気を使っていたとしても、触ったら崩れてしまうような脆さのものばかりですわ」
「でも、刺繍糸はシルクなんですのね」
「ふふ、騙されましたわね」
「違いますの?」
「特別な綿なのですわ。まだ生産量が少なくてほとんど市場には出回っておりませんけれど、シルクに似た光沢の出る種類ですの。それでいてシルクより強くて扱いも楽。長く受け継ぐものですもの、いずれ修復するにせよ丈夫な方がありがたいに決まってますわ」
ドロテアの堂々とした物言いに、マリアは思わず刺繍の手を止めた。
「昔と同じものを何でもかんでもというわけでは無いのですね」
「もちろん、古いものをその時代に合わせて修復する時はそのようにこだわりますけれど。実際のところ、その当時に使われたものでは無い素材で時代衣装を再現することの方が多いんですの」
「修復ではなく、再現?」
「ええ、何事にも習熟するには練習が欠かせませんでしょう。その練習台の筆頭が舞台衣装ですわ。それから古い家具に合わせて寝具やカーテンを新調したいだとか、本物を損なうのを恐れて複製を作っておく方も結構いらっしゃいますのよ。そういった場合あくまでも実用を目的に作られますから、見た目で分からなければ丈夫な方が都合が良いのです」
「なるほど、仰る通りですわね」
マリアは刺繍を再開しながら、これは認識を改めねばならないと思った。
社交界に出るようになって出会った年の近い令嬢や夫人達は、跡取りに嫁いで夫を支える教育を受けてきたからか話がまるで合わなかった。いや、話を合わせることは出来たが、実のある話はできていない。もしかしたら、一歩踏み込んだ関係になればまた違うのかもしれないが。
一見マリアよりも幼く見えるドロテアだが、家業について当たり前のこととして気負いもなく話す様子はなかなか堂にいったもので、マリアは年上と話しているような印象を受けた。
既に修復士として当主夫人である母を手伝っているというし、実戦経験という意味ではマリアよりも遥かに先を行っている。
「先日お会いした、あのお芝居の衣装。見応えがあって素晴らしいと思いましたの。もしかしてこちらの?」
「ええ! 国立中央劇場の時代衣装のほとんどは当家が手がけたものなのです。あの王女のドレスは私が修復を担当しましたのよ。だいぶ刺繍の色が褪せてしまっていたのですけれど、特にあの時代の様式が好きなのでもう楽しくて。おかげで仕事が捗りましたけれど、お返しする時は寂しくて辛かったわ」
本当に好きなのだなと伝わるような、表情豊かな声。そして自分の仕事に誇りを持っている様子に、自身を導いてくれた教師達がマリアの頭に浮かんだ。
「わたくし、ドロテア様を尊敬しますわ」
「まあ、嬉しいですわ。でもどうして?」
「もう既に当主夫人の貫禄がおありになるというか、随分としっかりしていらっしゃって。逆にわたくしは随分と未熟者だと実感しましたわ。仰ることに経験に裏打ちされた説得力がおありになって、感心しきりです」
実のところマリアは知識を詰め込むばかりで、砂上の楼閣のようだと不安を覚えることがある。実践という現実的な経験を伴わない机上の空論。
早く経験を積みたいという悔しさに似た焦燥もあるが、今までの自信や努力が砂のように崩壊する不安も常に付きまとう。
「それは家の事情の違いだと思いますわ。うちは貴族家と言っても職人よりですから。それに両親に言わせれば、私はまだまだ表面だけで分かった気になっている駆け出しらしいです」
「でも、こうやって一人前の仕事をなさるのですもの。本当に刺繍の手が速くて驚きました」
出来上がりの完成度については、マリアの刺繍だってドロテアに劣るものではない。だが、その速度については完全にドロテアの方が上であり、その速度でこの出来栄えと思うと教養ではなく仕事として既に確立しているドロテアの腕前には、ただただ感嘆するばかりであった。
「速さがなければ仕事になりませんもの。それに費やした時間が違いますわ、マリア様に負けるようでは勘当されてしまいます」
「それもそうですわね」
冗談めかして笑うドロテアに、マリアも気を取り直して微笑み返した。
「ねえ、今度はマリア様のことを聞かせてくださいませ」
話を振ってくれたドロテアに、迷いながら自らの生い立ちを話す。幼い頃から跡取り教育で勉強は人一倍頑張ってきたこと、けれど過保護な環境で友人が一人もいなかったこと、だから友人というものに人一倍の憧れがあったこと。
刺繍を刺しながらだから、話すのも途切れ途切れになりがちだ。ゆっくり自分の過去を振り返って言葉にする作業は少し気恥ずかしい。
「ですから、あの控え室でドロテア様が話しかけて来てくださったこと、とても感謝しておりますの。わたくしから何方かに話し掛ける勇気はありませんでしたし」
自分から話しかけるということは、自分から名乗るということだ。何ら自分に恥じるところはないと言っても、刷り込まれた血筋の劣等感は度し難かった。
「マリア様」
「何でしょう?」
「もう私とマリア様は友人ですわよね?」
「え、ええ、わたくしはそう思っておりますわ」
「白状しますけれど、あの時私は下心満載でした」
「下心、ですか?」
「だって、それはもうお金が掛かっているのが丸わかりのご衣装でしたでしょう? その上に伝統にこの上なく忠実でいらっしゃったから」
そこで一旦ドロテアは言葉を切った。
マリアはといえば、なんだか似たようなやり取りをキースとしたことを思い出した。
それから少しの無言の時が流れる。
「伝統にうるさい古い名家のお金持ちとなれば、うちのお得意様候補だと思って飛びつきましたの」
「まあ。それではがっかりなさったのではなくて?」
社交は商機でもあるから、マリアには特段それで問題があるとは思えなかった。領地経営を考えれば、そこを疎かにできないことは明白だ。
むしろ、マリアの出自を知ってがっかりしたのではないかと申し訳なく思った。
「いいえ、がっかりなんてしませんでしたわ」
「それなら良いのですけれど」
「嫌ではありません?」
「うちの領地で亜麻を生産していましたら、嬉々として売り込みましてよ。先ほど聞いた特別な綿。気候が合うならぜひうちでも育てたいですわね」
「……ふふっ」
少し気が抜けたような、安堵の吐息のようなドロテアの笑い声が聞こえた。
以前の自分なら、馬鹿真面目にドロテアの負い目を否定して、跡取りであれば自領の利益に重きを置いて当然と主張した気がする。
キースの影響は確実にマリアに出ていた。そのことをこんな時に実感するなんて。
好意を示すのも、相手が受け取りやすい形でさりげなく。
全く、男のくせにエットル夫人が言う理想的な淑女のような気遣いをするのだ、あの人は。
商人上がりの祖父のこと、その娘である母のこと。
数え切れないほど心無い言葉を聞かされて来た。
社交界に出てからは力ある方の庇護下にあることもあって、あからさまな侮辱を受けたことはないが、影では当然色々と言われているだろう。
職人寄りのマグナー子爵家の跡取り娘にも、色々あるに違いない。
それから先は、刺繍の邪魔にならない程度の軽い雑談を続けた。子兎がたくさん跳ね回る情景とそれを円く取り囲むように鮮やかな色合いの刺繍糸で古代象形文字を綴る。子宝祈願の内容だと言う。
他の既に完成した部分も含めていくつか分かる部分があって、勉強の成果が出たようで楽しい。
「わたくしちっとも知らなかったのですけれど、兎というのは繁殖力がとても強いのですね」
「そうらしいですわ。私も実際に見たことはないのですけれど、あっという間に増えるとか。領地で数年前随分数が増えてしまったことがあって、年中兎パイばかりでしたわ。癖が少ない肉なのでまだ我慢できましたけれど、しばらくは見るのも嫌になりました」
「それは災難でしたわね」
「マリア様のところでも兎料理はありますの?」
「ええ、冬の料理には欠かせないものですわ。パイもですが、わたくしはシチューの方が好みです。兎のシチューが食卓に上ると冬の到来を感じますわ。体も温まりますし」
「私は個人的には兎は食べるよりも毛皮の方が好きです。柔らかくて軽いですし。大量繁殖してしまった時にショールを作ったのですけれど、祖母にとても喜ばれましたわ。軽くて楽だと」
「すごいですわね、革細工もなさいますの?」
「見よう見まねですわ。こういう仕事をしていますと、分野が違いましても神殿などを通して交流が結構ありますのよ。時代によっては服飾に毛皮や革が欠かせないこともありますし」
確かにと、マリアは王子の舞台衣装を思い出す。狐と思われる毛皮をふんだんに使った襟が豪華さを演出していた
「そういえば、ドロテア様は観劇をよくなさいますの?」
「ええ、仕事の一環での役得ですわ。劇場の方から招待状を頂くので」
「ひょっとしてですけれど、エペローナ・ラフという名前に心当たりがありませんかしら? 舞台か小説か、どちらかの登場人物だった気がするのですけれど、思い出せなくて」
それは、本当に突然の思いつきだった。エペローナというのは、かなり珍しい名前だ。少なくとも貴族年鑑にその名前の女性はいなかった。だとしたらどこからか引用しているに違いないと思ったのだ。
「私もどこかで聞いたことがある名前の気がしますわ。ちょっとお待ち下さいね、思い出して見ますわ」
しばらく考え込んでいたドロテアは、もしかしたらと話し始めた。
「推理もので、その偽名を使った主人公がいたような気がしますわ。朧げな記憶ですけれど」
「偽名……男性が女性を装っての偽名?」
「ええ! そうだわ、姉が自殺した真相を調べようと弟が女装してお茶会に潜入する時の偽名!」
すっきりした顔で頷くドロテアにマリアも感謝を込めて微笑み返した。
次に観たい芝居が決まった。近いうちに公演の予定があれば良いのだが。




