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 冬支度も佳境の十一月中旬、北の方では初雪が舞ったという。

 北に領地を持つカスター伯爵が、昨夜の舞踏会でそんな話をしていた。

 当たり前の話だが、デビューしてすぐの娘が社交界ですぐさま一人前に立ち振舞えるかといえば、そんなに甘いものではない。

 普通は母親なり親族の年嵩の女性なりが付き添いとして、未婚の娘が道を誤らないよう目を光らせる。貴族の娘というのは、だいたいにおいて箱入りで世間知らずだからだ。

 マリアの場合既婚ということもあるが、元々母親にその役割を期待できなかったため、全面的に義母であるイングリットとヴェルナ家当主夫人であるレイチェルがその役割を担ってくれた。とは言え、実質的にマリアを助けてくれているのは主にレイチェルである。舞踏会はもちろん、お茶会もどれに出席するかはマリアとキースの意見を聞いた上でレイチェルが判断しているし、ホスト側の好みや招待される人々の傾向などの情報、助言などもしてくれる。対してイングリットはレイチェルを通しての助言くらいだ。とはいえ、その名前が巨大にして何よりの後ろ盾であるのだが。

 義母イングリットのジョスラン公爵という名は大きい。

 社交界に出てみて実感したが、女性王族の少ない現在の状況で彼女の占める立場はとても大きい。それを証明するかのように、彼女の王家に関係する公務は非常に多かった。

 必然的にその交友関係も大変広く、海外の要人を含めて錚々たる顔ぶれである。

 隠居直前のヴェルナ侯爵に嫁いだのは、当主夫人の仕事をしなくても良いようにという意図があったと推察される。

 名門公爵家の当主夫人として外から王家を支えることが出来なくなったために、別の方法で王家に生まれた姫として義務を果たすために整えられた婚姻であったのだろう。

 ジョスラン公爵位を異例のことながら授けられたことも、正式な敬称が殿下であることも、それを裏付けているように思う。

 陛下方の寵愛が深いのも本当だろうが、それ以上に貢献をしていらっしゃるのだ。

 キースが幼い頃から公務で不在であることが多かったという。

 特に外交関係で表に出られることが多い。


「母上は早いうちから有力な家に降嫁することが決まっていらっしゃったから、語学に関してはそこまで力を入れて教育を受けたわけではなかったようで。本格的に語学に取り組むようになったのは、ヴェルナ家に入ってからと聞きました。今は七ヶ国語話せるんだったかな。外交関係の他は陛下の公式の場でのパートナーですね。陛下は現在独身でいらっしゃるから」


 マリアがヴェルナ家に移って一月ほど経つが、思った以上にイングリットは多忙で、実は結婚式の翌日の晩餐以来一度しか顔を合わせていない。

 キースは息子だからかやけにあっさりと話すが、その重責を思うと震えがくるようであった。

 現在の王家には姫がいない。男子に恵まれたことは良いことであるが、本当に男ばかりでイングリット以降一人も女が生まれていないのだ。そのためいずれ王位を継ぐ王弟殿下の長男ディートハルトの妃、ステラティアには婚約成立時の幼い頃から厳しい教育が行われたという。ステラティア妃は将来王妃として立つのを踏まえて内政に携わっている。

 イングリットの後を継ぐのは外交に強いカーン候爵家の長女夫婦である。ディートハルトの次男が婿入りしていて、次代の人材には不安はない。

 だが、それだけでは解決できない問題がある。エトワールとの婚姻政策だ。

 二百年前に国交を結ばざるを得ない状況になってから、エトワールの属国とならないよう、立場は弱いながらも独立国としてあるために王家はエトワールから定期的に王妃を迎えている。そしてグレイスリー王国からも王家の血を引く娘をエトワールの有力な貴族や王族に輿入れさせてきた。

 イングリットがその候補に上がらなかったのは、陛下の従兄弟の娘が傍系の姫としてエトワールの貴族に嫁いでから間もなかった事と、イングリットには兄も弟もいたため、いずれどこかに娘が生まれるだろうと思われていたからだ。年まわりの問題でイングリットが嫁ぐには間隔としては早すぎたし、丁度良い相手もいなかったという事もあったという。

 とにかく、王家には姫の誕生が心待ちにされていたのである。もし、キースが男ではなく女であったら、即座に王家に養女に出されただろう。そしてエトワールにとっくに嫁いでいただろう。

 マリアは義母からそのような話を聞かされた。何故かといえば、場合によってはマリアに娘が生まれれば、そういう事情に巻き込まれる可能性があるからである。もっともマリアの母の血筋ゆえに、よっぽどのことがない限りそれはないだろうという事だが。

 人生何があるか分からないので、一応覚悟しておくようにとのことだった。

 それはつまり、血筋に問題がなければ生まれる娘は王家の事情に巻き込まれる可能性が高い事も意味する。

 巻き込まれることを忌避する貴族家もあれば、是非にと望む政治的野心のある貴族家もあるだろう。前者に婿入りすればキースはお飾りにされるであろうし、後者に婿入りすれば良いように利用される。キースの立ち位置からして王位に手が届くことはまず無い。現実的な野心としては、確かにあり得ない話ではなかった。

 諸々の事情からグレイスリー王国はかなり貿易に関して制限を掛けている。ただ、婚姻政策で縁が結ばれるたびにその規制が緩和されていくのが通例だ。その際の利権は当然当事者に所縁の深い家に多く分配されがちであることも。


『あの子本人にそういう野心や計算高い強かさがあれば、それでも良かったのかも知れないけれど。生まれ持った性格があの通りでしょう?』


 苦笑いの中に確かな愛情を感じさせた義母を思い出し、マリアの心をちくりと刺した。

 いけないと思っても、やはり妬ましいと思ってしまうのは止められない。


「あ、見てください。あの青い三角屋根が騎士団の詰所です。なんだかもう既に懐かしいなあ」


 呑気に馬車の窓から外を眺めているキースを見ていると、余計に苛立ちを感じてしまう。


「キース様は、ご自身の境遇について悩んだことはございませんの?」


 だから、少し意地の悪い質問をしてしまった。

 驚いたように小さな目を見開いて、キースが戸惑った顔でマリアを見た。


「ええと、それは例えば面倒な立場にあること、とか?」

「ええ」

「……そうですね、深くは悩みはしなかったです。悩むに至らないように逃げていたというか。もしもを考えることは、怖いので」

「もしも、女であったら、とか?」


 ああ、と何かに合点がいったようにキースは頷いた。


「僕が女だったら、色々と都合が良かっただろうなとは思います。その場合母上以上に大変だったかも知れないですけど、だったら余計に悩まないかな」

「普通は大変な立場になれば、悩むことも増えるのでは?」

「悩みの種類によるかな。よりよい選択をするために悩んだりはすると思います。でも、自分の置かれた立場に悩むことはきっとしない。性別が変わっても性格が変わらないなら、悩んでも仕方ないことは悩みに至らないように考えること自体から逃げるはずです」


 キースの言うことは、残念ながらマリアには理解出来てしまった。マリアが生まれながらに背負わされたものは悩んでどうこうできるものではない。元からマリアに決められた道以外を行くことは、貴族の娘として在り続けるには不可能だ。マリア自身、想像しようとしても漠然とし過ぎていて形にならない。悩むだけ無駄だということだ。

 でも、マリアはキースの様に考えることから逃げられなかったから悩んだ。それは環境の違いもあるだろうが、性格の違いが大きいのだろうと思う。

 だから、キースなら自分の立場にいても悩まなかっただろうと確信に近いものがあった。


「でもそんな事を聞くってことは、マリアさんは悩んだの?」

「はい。とは言っても、愚にも付かないありきたりなものですわ。決められた道を歩むことへの反発というか。わたくしの意志や努力など関係無く人生は決められてゆくのですから」

「マリアさんは、結婚相手を自分で選びたかった?」


 マリアはキースを軽く睨んだ。お互い様だけれど、結構な意地の悪い質問だ。

 もしそれが許されたとしても、それはごく限られた選択肢の中から選ぶ自由で、しかも限られた情報しか与えられない中でということになるだろう。そうなれば、自分で判断するよりもより実像を知っている父や祖父に委ねた方がマシである。

 為人、能力、全てつぶさに可能性のある相手全員を調べ尽くした上で、選択権が自分にのみあるなら最上であろうが、そんなことは現実的にはあり得ない。

 それに、現にマリアは己の意思でない婚姻を既に結んでしまっている。選びたかったと言ったら、まるで自分がこの結婚に不満があるようではないか。


「……そうですね、可能ならそう望んだと思います」

「健全で良いんじゃないかな。だって、当主教育を受けていたなら当然だよ。いずれ自分で決断を下す立場になるんだから」

「キース様は違いますの?」

「誰しも無いものねだり、ってやつです。僕は選ぼうと思えば選べたんだと思います。それこそ平民の女性を選んだとしても、最終的にはどうにかなったと思います。

 情を別にすれば、僕はヴェルナ家にとっても王家にとってもいてもいなくても構わない存在だし、無いも同然の継承権なんて放棄してしまえば良い。

 でも、結果に責任を持てるほどの覚悟も無かったし、どんな結果になろうとも構わないと思える人に出会うこともなかったから。要するに、臆病なんです。僕は」

 

 マリアはなんとなく胸がモヤモヤして苦しくなった。歯がゆい気持ちに理由の分からない苛立ちが混ざって広げた扇子の陰で唇を噛む。

 確かに、キースには足りないところがある。マリアの目から見ても貴族としては粗や甘さが見える。けれど、キースはマリアに無いものをいくつも持っていた。

 蓄えた知識、身につけた教養、そういったものは将来実質的な当主として立つ為に必要で、それ以上のものではなかった。勿論新しい知識を得る事や、身につけたものが賞賛されたり自身で満足のいくものが結果として出れば嬉しい。 

 けれど、この短い間にキースはマリアにいくつもの別の可能性を教えてくれた。

 必要だからではない、楽しいと思える経験。必要だからではなく、面白そうだからやってみたいと思う、思考そのものも。

 それに貴族として不出来かといえば、そんなことは決してない。社交だってそつなくこなすし、むしろ相手に警戒心を抱かせないキースはマリアより優秀だと思う。

 姿だって、元騎士だけあって細身だけれど軟弱という雰囲気はないし、顔立ちはともかく後ろ姿だけ見たら完璧な貴公子だ。

 性格だって悪くない。


 それなのに、どうしてこの人は自分を卑下するのだろうか。


 キースは決して卑屈ではない。ちゃんと愛情を受けて育ったからか生来の性格ゆえか、とにかく暗さがないし、肯定的だ。

 でも、何かにつけて自信がないように感じてしまうのだ。

 卑屈ではないのに、矛盾している印象を受けるのだ。

 臆病だと自身を評することだってそうだ。

 実際に平民女性と結婚したら、キースは捨てなければならないものが多過ぎるだろう。そうなったら悲しむ人が多いのは明白だ。

 身分が明確に分かたれてしまえば、血の繋がった家族でさえ滅多なことでは会うことが出来なくなる。

 それがけじめというものだ。

 滅多なことがあったとしても、ごく秘密裏に人目を避けてということになる。

 もしキースが全て覚悟の上で平民女性を選んだら、キースの幸せを願って切り捨てられる悲しみを飲み込まなくてはならない人がいる。

 相手が貴族女性であっても、その背後の家によってはキースと縁を切らなければならない状況はいくらでもありえる。

 何かを選べば、痛みを伴う大事なものを切り捨てなければならない可能性がある。

 もしマリアがそういう状況になったとしても、マリアは選ぶだろう。それはデルフィーネ家の跡取りだという太い柱があるからだ。それを指針にしてマリアは選ぶし、だからこそ痛みに耐える覚悟をするだろう。

 カチェリナ、父、祖父、それから教師をしてくれた父の友人達の顔を思い浮かべる。

 マリアが大事に思う人々は、皆マリアを跡取りとして育てようと力を尽くし、期待し、支えてくれた人々だ。キースとマリアでは置かれた状況が違う。

 だから単純に比べることはできないけれど、選べるのに選ぼうとしなかった事を臆病と言ってしまうことには納得できなかった。

 跡取りになる事を放り出して、好きになった相手と駆け落ちするような選択はマリアには絶対にできない。

 愛を貫くという事を指針にして、あらゆる困難も覚悟するというのは確かに勇気も決断力も要るだろう。だが、賛同は決して出来ない。


「わたくしは、臆病だなんて思いませんわ」

「……なんか怒ってます?」

「気に入らないだけです」

「ええと、どの辺りが気に入りませんか?」

「キース様は恋愛を美化し過ぎですわ。

 だいたい全てを捨てても良いなんていう恋愛、そうそう転がっているはずがございませんわ。その辺に転がっていたら、そもそも貴族社会は成立しませんでしょう。そんな滅多に無いものに当たったら、それは事故です」

「えっ。事故?」

「事故です!」

 

 驚いて理解し難いというような顔をするキースに、マリアは余計に腹が立って強く主張した。


「だってそうでしょう、恋とはするものではなく落ちるものだそうですし、身分も年齢も関係なく突然神々の気まぐれのように襲い掛かる逃れられない理不尽な熱病なのでしょう? それが事故でなくて何なのですか」

「いや、そんな激しいものばかりじゃなく、ほんのり淡いのとかもありますし」

「そういうのは問題外でしょう。今わたくしが話しているのは、全てを捨てる覚悟をさせるような傍迷惑な大事故についてです!」

「あ、はい」

「恋愛を想定外の事故だとするなら、自分から大事故に遭いに行こうとするなんて愚かだと思いませんこと? それに起こそうとして起こした事故は、事故ではなく事件です」

「いやあ、上手いこと言いますね。すごいなあ」

「感心している場合ですか! 思惑ありきの事故は、勝手な欲望まみれの事件でしかありません! そんな下らないものの為にヴェルナ家の皆様や尊き方々を悲しませることが勇気なら、そんなものは貴方に必要ありませんわ!」


 つい熱くなって閉じた扇子を握りしめて力説してしまったマリアだったが、拍手までキースにされてしまってハッと我に返ったのだった。

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