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「どう? キースお兄様! 本当に素敵でしょう?」


 キャロ、君の意見には大賛成だけど、マリアさんが素敵なのは君の手柄じゃないからね。でもイースのショコラは任しとけ。

 キャロに呼ばれて行ったサンルームで待っていたマリアさんは、本当に女神が降臨されたんじゃないかと錯覚するくらい神々しかった。午後の穏やかな陽光を纏わせ、まるで神話から抜け出たようで。まだ固い蕾のような清廉さのある彼女に古代風のドレスは驚くほど良く似合っていて、跪いてひたすらに敬愛を捧げたくなるような、侵し難い気高さを感じた。

 でも何より、凛として美しい立ち姿なのに、どこか所在無げな恥ずかしげな表情に心が騒めく。

 ヘボ詩人が降臨して親友の仮面を引き剥し、恋の奴隷の仮面を押し付けてくる。

 良いんじゃないかな、だって一応キャロっていう外部の目があるし!

 既に動き出していた僕は、内心で投げやりな言い訳をしながら彼女の元へと急いだ。


「我が女神よ、天界に戻られるまでの一時をこの哀れなる下僕めにお与え下さい。どのような憂いも打ち払うつるぎとなり、あらゆる風から貴女を遠ざける盾となる栄誉を」


 神話になぞらえて、僕は恭しく跪く。

 厄介な求婚者、風の神シースから逃れて地上に降りてきた水の女神セフォー。

 人の身で女神に恋した騎士は、全てを捧げ尽くして最後は星になる。

 女神が天界に戻った後も、盾となるために。


「あれはまったき風。弱き人の身で何を申すか」

 

 ややあって、凛としたマリアさんの声が響く。


「弱き人であればこそ、神々から与えられし恩寵がございますれば。深きソフィケスからは知恵を、猛きディケスからは勇ましさを、厳父たるドーンからは苦難に耐える強き心を、そして慈愛深きユーステラからは我が女神との邂逅という幸運を。

 まったき風とてあに恐れることが御座いましょうや」

「我が兄弟姉妹を疑うことあたわず。なれば許そう」


 知らない人がいないくらい有名な神話だし、マリアさんなら絶対暗唱できると思ったんだ。

 ヘボ詩人は自分の言葉で賞賛したかったって地団駄踏んでるけど、それだときっとマリアさんの言うところの“不調法”な反応をしてしまうらしいから。

 でも、気持ちとしては偽りない。


 差し出されたマリアさんの手を取り、額でその手の甲にそっと触れる。

 騎士の誇りを捧げる正式な作法だ。

 こんなところでやってしまうのは勿体無い気もするけれど、今しか出来ない気もするから。

 見上げたマリアさんはとても生真面目な顔をしていて、指先から緊張しているのが分かった。

 それから僕の願望からくる錯覚とかじゃなくて、割と顔が赤かった。

 だめだ。感染するんだよ、赤面て。


「素敵! すごいわ、マリアお姉様もキースお兄様も神話そのものみたい!」


 両手を胸の前で組んで憧れの眼差しを向けてくるキャロは、興奮気味にそう言った、照れてしまうのを押し隠し、立ち上がった僕は澄ました顔でマリアさんの腰を抱き寄せる。


「キャロがいるので、親友ごっこは一時休止です」


 こそっと耳打ちすると、ビクッとマリアさんがなった。

 ああもう、こういう反応されると期待しちゃうっていうか、行けそうな気になるから困るんだ!

 可愛いなもう、ちくしょう。


「どうだい、キャロ。ちゃんと『神々の詩』を暗唱していれば、こんなことも出来ちゃうんだぞ。少しはやる気にならないかい?」

「悔しいけど、ちょっとだけその気になりそう」


 気を紛らわせようとキャロに話を振る。ただ暗唱するのは退屈だっていうのは分かるけど、神々の詩は押さえといた方がいい。

 引用する機会が結構あるし、そもそもその知識が前提の古典文学なんかも多いからなあ。是非とも将来のために頑張って欲しい。

 とか思っていたら、突然キャロがサンルームの奥に置いてあるチェンバロに向かった。女性には必須教養の鍵盤楽器だ。僕も昔一通りは習った。

 蓋を開けて、ポロンポロンと指慣らししている。


「折角だもの、ワルツを弾くから踊って!」


 キャロのリクエストに僕らは顔を見合わせた。


「いいかな?」

「はい」


 懐かしいな、“夕べのワルツ”だ。

 僕も昔習った曲だ。

 前奏部分でお互いにお辞儀をして、すっと手を取り合いホールドする。

 ゆっくりしたテンポに合わせて滑るようにステップを踏む。

 目を瞑っていたって体は動くけれど、初めての夜会では緊張したなあ。

 マリアさんのダンスはリードする方としてはとてもやり易い基本に忠実な端正さで、才能とかよりも努力を感じさせた。

 僕も結構厳しく叩き込まれたけれど、男だから女性と違って心得みたいなものは違う。


「本当に女神様が降臨されたかと思いました。本当に良く似合ってます」

「……うれしがらせおっしゃいますのね」

「お世辞なんかじゃないですよ、僕は貴族としては残念なくらい正直者なんです。嘘がつけないし、ついてもすぐに見抜かれる」

「それは……否定できませんわ」


 少し固かったマリアさんの表情が綻ぶ。


「本当だったら見ることもなかったマリアさんのデビュタント衣装姿を見れた上に、貴女のお父上が独占するはずだったデビュタントのワルツも踊れて、今日の僕は最高に幸運です。女神ユーステラに感謝を捧げないといけない」


 なるべく冗談めかして、口説いているように聞こえないように言う。

 そうすると、マリアさんも緊張が更に解れたような感じがした。


「あら、一番の感謝を捧げるべき相手は違うのではなくて? わたくしの騎士様」

「それはもちろん! 忘れてないですよ、この哀れな下僕をお側に置いてくださった慈悲深き我が女神よ」


 芝居掛かった口調で言えば、マリアさんは小さく噴き出して笑った。


「キース様は案外ミラン卿に似ていらっしゃいますのね」

「えっ、そうですか? 参ったなあ」


 そこでくるりと一回転。

 繊細に美しく整えられた襞が、ふわりと広がった。

 思わずおー、と感嘆する。


「綺麗に広がるものですね。もともと膨らませているスカートと違って本当に花が咲くみたいだ」

「ふふ、でも襞が多い分重さも結構あるのです。回ると広がるスカートに振り回されるような心地がしますわ」

「それは良いことを聞いた。是非とも振り回されるマリアさんが見てみたい。今日はいつもより多めに回ってみませんか?」

「受けて立ちましょう」


 マリアさんはツンと顎を上げて強気に微笑んだ。

 初めて一緒に舞踏会で踊った時、お互いの緊張を解そうとしてちょっとした“やんちゃ”に誘った。それ以降、僕は舞踏会でことあるごとに基本からちょっとだけ外れた、でも顔をしかめられることのないささやかな“やんちゃ”に誘うようになった。

 初めは戸惑っていたけれど、マリアさんは持ち前の好奇心と負けん気の強さと真面目さで応えてくれた。

 しっかり基礎が出来ているからこそ出来る遊びだから、いつだってマリアさんは難なくこなす。けれど悪戯が成功した子供みたいな笑顔をちらっと見せてくれるから、すっかりクセになった。


「キャロ! もう少しテンポ上げてくれるかい?」


 今日はうるさそうな誰かが見ている舞踏会じゃないし、思いっきりやんちゃしよう。

 テンポの上がったチェンバロの音色に、マリアさんの瞳が輝く。

 やる気満々だなあ、なんて僕の気分も高揚する。

 繋ぎのステップを入れては何種類ものターンスピンで次々と白い花を咲かせる。多少ステップが乱れても構わず強引に、途中からはワルツのものじゃない回転技も入れて。

 反則よと驚いて笑うマリアさんに、女神様のご威光で全ては合法ですと笑い返した。

 僕らの様子を見てか、キャロがどんどんテンポを上げていく。

 どんどんステップが乱れ、キャロの演奏も音を外し、笑いが止まらなくなり、そして最後は息は上がるし目は回るしで壁際の長椅子に倒れこんだ。

 

 先に息が整った僕は、まだ笑いが止まらなくて落ち着こうと胸元を自分で軽く叩いているマリアさんを見つめる。

 マリアさんはもう女神様には見えなかった。

 でも、すごく楽しんだのが分かる。頬が紅潮して、取り繕うのを忘れた笑顔が眩しいばかりで。

 僕は達成感にしみじみしていた。

 ダンスにおいて、男性は女性をどれだけ美しく輝かせるかが肝心だからね。

 今日は自分に高得点をあげても良いんじゃないかと思う。


「マリアお姉様もやる時はやるのね! 私も張り切っちゃったわ!」

「キャロは音外し過ぎ。あのテンポなら“ドネッツァの踊り”より遅いだろ?」

「お兄様こそ最後の方なんてリードも出来ていなかったじゃない! お姉様の方がよっぽどリードしていらっしゃったわよ」

「女神様に勝てるわけがないだろ? ありがとう」


 水差しから二人分の水を持ってきてくれたキャロに礼を言って、一つをようやく笑いが収まったマリアさんに差し出す。


「女神様を只人にしてしまうほど、ダンスを楽しんで頂けたようで何より」


 マリアさんは目を丸くし、水を一口二口飲むとさっと髪の乱れを手で確認して澄まし顔になった。


「女神様の騎士にしては、不調法なご様子ではございませんでしたこと?」

「精進します」


 睨まれてもなんだか可笑しくてつい笑ってしまった。

 そうしたら、マリアさんも仕方ないといった様子で苦笑する。


「もう、すぐに二人だけの世界を作ろうとするんだから!」


 そんな僕らを見て、キャロは不満げに頬を膨らめた。





 結局その後すぐ、キャロはお邪魔虫はそろそろ退散すると言って帰って行った。別れ際に、しっかり高級菓子店のショコラを贈る約束を念押しして。

 僕はと言えば、着替えに部屋に引っ込もうとするマリアさんを引き止めて、お茶に誘った。

 爺やに頼んで、サンルームの長椅子の方に用意してもらった。

 テーブルだと対面になるから少し距離が遠いし、隣同士で座りたかったから。

 

「義姉上が絶賛しただけあって、本当に綺麗だ」

「有難うございます。教えて下さった師のお陰ですわ、妥協を知らない方でしたから」


 マリアさんが刺したという刺繍は見事なもので、緻密な模様で隙なく帯を埋め尽くしていた。


「んー、麦穂の乙女、賛歌を捧げる小鳥、若い牝鹿と泉とくれば、女神ディアティアの豊穣の宴かな?」

「ええ、デルフィーネ家の主神は女神ディアティアですから」


 基本、人間は食べないと生きていけないから誰もが女神ディアティアの庇護下にある。誰もが必ず豊穣を司る大地の女神ディアティアを祀る神殿に所属していて、出生時と死亡時の記録が残される。農業が主な産業となる領地持ちの貴族家は、だいたい主神が女神ディアティアだ。

 うちだと叡智の神ソフィケスが主神だから守り紋もソフィケスのもので、代々文官を多く排出している家に多い。

 

「象形文字にお詳しいの?」

「エドワード兄上が詳しいんです。子供の頃に少し教わったから」


 少し思案げにした後、マリアさんは紅茶を置いて飾り帯を腰から外した。


「読み解けまして?」

「うーん、時間を掛ければなんとか。兄上なら簡単に読んでしまうでしょうけれど」

「わたくしは時間を掛けても読み解くのは無理ですわ。翻訳された内容だけ知っている状況ですもの」

「円なんて、普通どこから読むのかまずそこから分からないですからね」


 そうなんだ、古代象形文字は基本円なんだよ。コインにぐるぐると絵文字が並んでいる感じと言ったら分かりやすいかな。

 円は大体三、四重。真ん中、その外側の円周、更に外側の円周、といった具合に絵文字が並ぶ。

 現在の文字のように左から右に真っ直ぐに書くのではないから、読む順番がまず分かり難い。加えて表音文字と表意文字が混在するので、辞書があっても読むのが難しい。

 ただ、その代わりに一番重要な真ん中の円の中にある絵文字が有名なものなら、何となく何を言っているのか分かる。飾り帯の中央の円の真ん中は麦穂と乙女で、女神ディアティアとの関係を強く示唆するし、実りや豊かな秋を意味する。その両隣の円の真ん中を見ると、歌う小鳥と椎の実は豊かな森への感謝を示し、若い牝鹿と泉は酒を意味する。

 というわけで内容が女神ディアティアを讃える豊穣の宴、今で言う豊国祭に関する内容らしいと言い当てるのはそれほど難しくない。

 守り紋はこういう複数の円のまとまりをいくつも連ねたもので、個人的には内容は分からなくても緻密な美しさという点で文字というより芸術品だと思う。

 本来なら象形文字というだけあってその形は簡略化されているけれど、守り紋は逆に簡略化する前に戻しているような感じで、糸で描いた細密画のようだ。

 美しさというものは、意味なんて分からなくてもそれだけで人の心を奪うものだと思う。知らない言葉で歌われても、美しい歌声には聞き入ってしまうよね。


「実はデビュタントの舞踏会の折に、マグナー子爵家のご令嬢と知り合いましたの。それは見事なアルオス神の守り紋の刺繍でしたのよ。アルオス神については師が詳しかったので気付きましたけど、そうでなければ分かりませんでしたわ。

 全て読み解けなくても良いのです。元より願掛けでもありますから、あまり調べるのも失礼に当たりますし。ただ少しだけ分かることが増えたら、楽しみが増すかと思いましたの」

「それなら、僕が知っている程度でも結構いけると思います。子供の頃に兄上に書いてもらった一覧表がどこかにあったはずなので、探してみますね」


 マリアさんが興味を持ったと知ったら、エドワード兄上は喜びそうだ。

 ちょっと心が揺れるけど、でも教えないことにしよう。


「マリアさんに教えてあげられることがあって良かったです。年上としての面目が少しは立ちそうだ」

「まあ、そのようなことお気になさっていらしたの?」

 

 意外そうな顔をしているけど、僕だって男の端くれです。年上の夫としては年下の妻に尊敬されたいなーなんて思います。

 実際は年下妻の方が有能そうだという現実。幼い頃から努力してきたマリアさんの方が優秀なのは当たり前ではあるけれど、ちょっとくらい良い格好したいのだ。


「男なんて見栄っ張りだから、女性の前では良い格好をしたいんです」

「たとえ相手が友人でも?」

「ええ。たとえば幼馴染の年下の女の子だったりしたら、それはもう張り切って見栄を張りたがりますよ」


 既にそれが淡い恋心だったりして、年頃になって気付いたりするんだよね。

 マリアさんとそんな甘酸っぱい子供時代を過ごしたかったです。


 夜の予定は無い日だったので、僕たちは長いこと他愛のないお喋りに興じた。




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