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「申し訳ありません!
騙すつもりは毛頭なく!
偏に僕の不見識が招いてしまった失態でありまして!」
狼狽えた僕が正確に分かったことはといえば、打ち明ける前にエペローナが架空の存在だと知られてしまったということで、反射的に謝罪の言葉が出た。
反射的に出た言葉だから、どういったわけかまんま騎士の頃の癖が出てしまい、気がついたらマリア嬢の前に、直立不動の姿勢で立っていた。
しまったと思う間もなく、ぽかんとしたマリア嬢と目合う。
「わたくし……随分と貴方を悩ませてしまいましたのね」
申し訳なさそうに呟くマリア嬢に僕は慌てて先ほどの位置に座り直した。
「いや、そうではなく、あっ、悩んではいましたけれど、どちらかというと僕自身の問題というか」
「分かっておりますわ。昨日今日という短い時間ではありますけれど、それでも貴方が人を欺くようなことをなさる方ではないと分かります」
何を言って良いのか混乱がおさまらない僕に対し、マリア嬢は大丈夫だと言うように穏やかな様子で言葉を続ける。
先程までの興奮がすっかり吹き飛んでしまって、一気に頭が冷えた僕はどうにか気持ちを立て直した。
どうしてこういう話の流れになったのか、僕が話す前にマリア嬢が先を制してこの話をしたのは、多分だけど僕が謝る必要はないと、そういう気持ちで種明かしをしてくれたのではないか。
マリア嬢の意図を汲もうと、必死で回らない頭を働かせる。
「いえ、そうだとしても、その……貴女はとても楽しみにしていらっしゃったのに」
「はい、ですからつい意地悪をしてしまいましたの」
ああ、やっぱり。
僕が言うより前に、マリア嬢は僕を許してしまおうとしたのか。
「本当は、昨夜のうちに朧げながら察しておりましたのよ。けれど、おっしゃる通りエペローナ嬢に会えるのを一日千秋の思いで待ち焦がれておりましたから」
少し懐かしそうに、それから寂しそうにマリア嬢は目を伏せた。
「少しくらいお困りになればよろしいのよ、などと思ってしまいました」
「少しどころかたくさん困った方がいいです。貴女は優しすぎます」
「あら、キース様はわたくしを意地悪な女にしておしまいになりたいと?」
「それは意地悪とは言いません。必要な仕置きですからもっとするべきです」
本当に、これはもう、本心からそう思う。至らな過ぎて、こんな気遣いをマリア嬢にさせてしまうなんて。
それからはたと気付いた。お仕置きを強請るって変態かよ。
「あっ、マリアさんにお仕置きして欲しいとかそう言うことでは!
……いや決して嫌というわけではなく満更でもな……違います、ええと」
焦って思わずいらんことを言い出してしまい収集がつかなくなっていると、マリア嬢がそんな僕を見て笑った。
口元を手で隠しながら、小さかったけど声を上げて笑っていた。
抑えきれなくて、つい。
そんな風に、笑っていた。
こんな風に笑ってくれるなら、変態でも良いか。
そう思えるような、笑顔だった。笑い声だった。
「キース様の、そういうところです」
「……そういう、ところですか?」
どこ。え、本当にどこ? どこが何?
駄目だ、全く頭が働かない。
「多少の意地悪くらい、きっと笑ってお許し下さると。そう考えるまでもなく、無意識に信じてしまっておりました。
これは信頼ではないかしら。わたくしはそのように思いましたの。
その気持ちを後押しして下さったのは、貴方のお母君でしたのよ」
「母上が?」
「はい。お義母様が仰るには、キース様は無意識に都合が良いのだと。その時は良く分かりませんでしたわ」
母上ー!それ本当に昔から何度も言われるけど全くわからないです!
何でマリア嬢にまで言うかな!?
「けれどお話しているうちに、不意に腑に落ちましたの」
「えっ」
僕は本気で驚いた。昔から母上が唱える謎の呪文をわずかな時間であっさり理解できるなんて。
なんて事だ、天使で女神な上に天才か。
そこで少し改まった表情になるマリア嬢に、僕も自然と背筋が伸びる。
「わたくし実を言うと、少し男の方が苦手ですの。
昨夜の……あのように取り乱してしまいましたのも、ひどい強がりでした。
もし最初からキース様がキース様としてお手紙を下さっていたら、疑心や警戒心に曇らされてあれほど楽しい文通はできなかった。
そう気付いたのです」
そう言い終えると同時に、マリア嬢は微笑んだ。
静かで、控え目な微笑みだった。
少し苦手。そう表現するマリア嬢の過去に、どんな辛いことがあったんだろうかと胸がチクリとする。
マリア嬢の真っ直ぐな眼差しは、凛々しくて。
安易に同情するのを許さないような、輝きがあった。
僕に向けられた優しい言葉は、余計にマリア嬢が耐えなければならなかった苦痛を思わせて、それを少しと言ってしまえる強さに自分のちっぽけさを思い知らされた気がした。
「キース様はきっとユーステラ様、幸運の女神に愛されていらっしゃるのね。
失敗したとしても、不思議な巡り合わせで誰かの運命を少しだけ良い方向へ転がるように変える。
わたくしは、そのお裾分けを頂いたのだわ。
ですから、もう気になさらないで。
わたくしも意地悪してしまいましたし、お相子ですわ」
静寂が、すうっと深く、広大なものに変わった。
まるで、彼女の存在を際立たせるように。
まるで、夜空の只中に二人きりで放り出されたように。
この時の僕の気持ちを、言い表すのは不可能だ。
思わず涙したほど美しい音楽にも、座っていられないほど熱狂した素晴らしい舞台の終幕にも、言葉を失うほどの絶景にも感じた事のない胸の苦しさを。
恋に落ちる事は同じ人を相手にも何度でも起こり得るんだと、僕に教えた息が止まるような衝撃を。
言葉を探すことすら無意味だと最初から諦めてしまうくらい、溢れて渦巻いて胸の中で踊り狂う複雑な色合いの感情を。
もしかしたら、今が本当に恋に落ちた瞬間なのかも知れない。
ああ、そうだ。きっとそうだ。
婚約者が出来たと知って、浮かれた僕。
手紙を通して、そこから勝手に想像したマリア嬢に恋した僕。
実際に目にしたマリア嬢に舞い上がった結婚式での僕。
全部が嘘なわけじゃない。幻なわけじゃない。
それでも、きっと僕は恋に恋するように、地に足のつかない恋をしていたんだ。
僕が幸運の女神に愛されているわけじゃない。
そう考えられる、貴女が。貴女こそが素晴らしいんだ。
僕なんかよりずっと、真剣に僕との関係を考えてくれていたんだ。




