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当主夫妻のエドワードとレイチェルは二人を温かく出迎えてくれた。
「これは美しい。キース、お前は果報者だな」
「よくいらして下さったわ。ごく近しい身内だけの集まりですから、どうぞ楽になさって」
晩餐までまだ少し間があるということで、ホールで食前酒を楽しむことになった。
ホールではすでに婿殿のご両親と件のミランが談笑しており、二人に気付くと笑顔で迎えてくれた。
そこへ先ほど婿殿が言っていた姪らしき少女が当主夫人レイチェルに連れられてやってきた。十二歳という年齢からすると背伸びして見える落ち着たブルーグレイのワンピースを着て、綺麗に編み込まれたブルネットに可愛らしい青い蝶の髪飾りをつけている。落ち着た→落ち着いた
「娘のキャロラインですわ」
「初めまして、キャロライン・ヴェルナです」
レイチェルに促されて緊張気味にお辞儀をした少女は、何か期待に満ちたような瞳でマリアを見つめていた。
「マリア・デルフィーネよ。素敵な髪飾りね」
年下と親しく接したことのないマリアは戸惑ったが、無難に褒めておいた。
すると、少女はパッと嬉しさを隠さない笑顔を見せた。
「そうでしょう!? お気に入りなの!」
「キャロ!」
「っ、褒めて下さって嬉しく思いますわ。お気に入りの品ですのよ」
いささか元気の良すぎる受け答えをピシッとレイチェルに咎められ、少女はしまったという顔をしてすぐに澄まし顔で言い直した。
それを見ていた周囲に笑いが起こる。
「まだまだキャロはレディには程遠いなあ」
「キース兄様ったら酷いわ、もうすぐ十三歳ですのよ。ダンスの先生だって、もう完璧だって褒めて下さったわ」
「お前が得意なのはダンスだけだろう」
「そんなことないですわ」
「あらそう。ならもう“神々の詩”は暗唱できたのね?」
両親に追い討ちを掛けられて黙り込んだ少女に、また周囲が笑った。
マリアはというと、こういうやり取りには慣れていなくて皆が笑った後にちょっと遅れて微笑むという状況だった。
家によって色々なものが違うというのは知識として知っていたが、こうも違うのかと驚くばかりだ。
親の前でマナーの失敗、親に口応え、親の問いに沈黙、決められた課題をこなしていないのに罰を与えられる気配がない……どれもこれもマリアには有り得ないことばかりだった。
もちろん跡取りになるべく育てられたマリアと、いずれ嫁に出るだろう少女では立場も求められるものも違うということもあるのだろう。
それにしたって余りにも自分の子供時代と違いすぎて現実味が薄く感じてしまい、まるでお芝居を見ているようだとも思った。
「あの、マリアお姉様とお呼びしても良いですか?」
「えっ」
少し思考に沈んでいたから急な問いかけにマリアは驚き、つい傍の婿殿の顔を見上げてしまう。
「マリアさんなら良きお手本として申し分ないですし、是非慕われてやってください」
そんな風に微笑まれたら断れない。どう接したら良いのか戸惑うばかりだが、そう呼ばせるくらいは問題ないような気がした。悪い気もしなかったからマリアは頷いた。
「構いませんわ」
「嬉しい! お兄様や叔父様ばっかりなんですもの、お姉様がいらっしゃったらどんなに素敵かっていつも想像していましたの」
満面の笑みで喜ぶ少女に、マリアは顔が引き攣りそうになった。
期待が大変重かった。
はたして素敵なお姉様とは如何なるものか。
素敵な弟の嫁、素敵な息子の嫁くらいまではある程度想定していたが、そこは全く備えがない盲点だった。
エペローナは特別枠なので、素敵な義理の姉などという狭い想定はしていなかった。
史上最高の自分を売り込む気満々だったので。
けれどこの先社交を本格的に始めれば、様々な意識や常識の差に戸惑ったりすることも多々あるだろう。
良い練習だと思って、まずはヴェルナ家の家風に慣れる努力をしなければ。
いずれデルフィーネ家へ戻るのだから、完全に馴染む必要はないし、そこまでしてはいけない。
慣れるだけなら、なんとかなる。多分。
そんなことを考えているうちに、今度はお姉様としてみたいことを少女は語り出した。
これは骨が折れそうだと思っていたら、不意に婿殿に腰を引き寄せられた。
「キャロ。言っておくけど、マリアさんは暇じゃないからね。それにマリアさんの時間は僕が優先されるんだ。あしたも明後日もその先もずっと予定はいっぱいだよ」
「もう、キース兄様になんて聞いてないわ!」
細身でひょろっとして見える婿殿の胸は案外頼もしくて、腰を引き寄せる腕は逃げ出すのは無理だと思うような強引さがあった。
初めて紳士的でない態度を取られたことに狼狽えて婿殿を見上げれば、真顔であった。
カッと顔が赤くなるのが分かった。
これはもしや、わたくし……取り合われていますの?
もう一方は素敵な殿方でもなんでもなく、まだ子供の姪だが。
睨み合う両者に割って入ったのはレイチェルだった。
「キャロライン、いい加減になさい」
「だって、お母様」
「あまり聞きわけがないと、貴女の自由時間を取り上げますよ。
マリアさん、我がまま娘に付き合う必要はないわ。それよりも明々後日の夜会の打ち合わせの方が遥かに大事よ。お義母様も出席なさるから、晩餐の後にでも三人で話しましょう」
それはマリアとしても是非ともお願いしたいところだ。
「ええ、喜んで」
義理の姉となった人は昨日はとても大人しやかに見えたが、なかなかどうして頼もしい。さすがは侯爵家を取り仕切るだけあって、マリアからすると緩いとしか思えない男性陣の対応とは一味違う。少女を庇いたそうにしている彼らに口を開かせなかった。
当主夫人はこうでなくては。
レイチェルには色々学ばせてもらえることが多そうだ。
そしてそろそろ婿殿の腕から抜け出した方が良いと思うのだが、このままもう少しを望んでしまうくらい居心地が良いような、そわそわと落ち着かなくて逃げ出したいような、なんとも定まらない気持ちに声が出ない。
「大人気ないぞ、キース。君の麗しの女神が困っているよ」
ミランに指摘されて婿殿はハッとしたようにマリアを見下ろしたが、すぐにヘニョっと眉尻を下げて赤くなりながら言った。
「……もう少し、良いですか?」
だから、どうしてこの人は返答に困るようなことばかり言うの!?
いや、翻弄するという計画は多分成功しているのだからこれで良いはずなのだ。
ただ、それ以上に翻弄されている婿殿に更にマリアが翻弄されているというだけの話で。
大人の女性なら、きっとここで釣れない態度と思わせぶりな微笑みでも駆使して更に翻弄するのだろう。
分かっているのに、マリアはただ黙って婿殿の腕の中に収まっているしかない。
徐々に段階を踏むと言ってたくせに!
こんなことを突然されたら”初々しい”婚約者としては恥ずかしがって黙り込むしかないではないの!
マリアがペチコートの内側で喚き散らしているところへ、新たな人物が加わった。
「やあ、今夜はやけに暑いと思ったらこういうことですか」
「遅いぞ、ユーグ」
遅れてやって来た息子ユーグに当主が注意するのと前後して、婿殿がユーグの姿をマリアの視界から追い出すように移動する。
ユーグの揶揄いに慌てて婿殿から離れ、挨拶をと思ったマリアはギョッとしたが、またもや婿殿の意外な表情に目を丸くすることになった。
明らかに不機嫌な顔をしていたのだ。マリアの中では不機嫌になる婿殿というのは存在しないものだと思っていた。昨夜あれだけ酷い態度だったにもかかわらず、全くそういう様子がなかったから。
それにしてもとぼけた顔でも、不機嫌なのは案外分かるものなのか。
妙なところで感心してしまった。
「なんだ、キース。挨拶もさせてくれないのかい?」
「なんだよ、ユーグ。記憶力は大丈夫かい? 近付くな、見るなと言ったのは昨日だったはずだけど」
「すごいな、さすが新婚。火傷しそうだから退散しよう」
笑い声が二人を温かく包んだ。
見なくても、微笑ましげにされているのがよく分かって恥ずかしくてたまらなかった。
「キースお兄様はマリアお姉様にメロメロね!」
楽しそうな少女の声に、また笑い声が上がる。
恥ずかしくてたまらないけれど、今なら背中に羽が生えて飛べそうなくらい、心がふわふわして夢の中にいるようだった。
落ち着かないし、逃げ出したい気もするけれど、決して不快なわけではなくて、むしろくすぐったいような嬉しさがこみ上げて戸惑う。
仲の良いはずの家族に向かって嫉妬したり警戒したり、凡そ紳士からはかけ離れた態度だ。
そうまでして自分を懐に仕舞い込もうとする婿殿を目の当たりにして、マリアは自分の思い違いに気付かざるを得なかった。
マリアは単騎乗り込む気分でいたが、婿殿はそうではなかったのだ。




