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 婚約者を迎えに来たていで玄関ホールで待っていた婿殿は、緩やかな曲線を描く階段を降りる自分に自惚れでもなんでもなくハッキリと見惚れていた。

 とぼけた顔が二割り増しでぽやぽやしているのを見て、マリアはやはりこのドレスにして良かったと会心の笑みを浮かべたのだった。

 昨夜、必死でマリアの胸元を見ないようにしていたのには、気付いていた。効果的な武器を死蔵する意味などない。

 昼のドレスは淡いピンクに若草色のリボンでアクセントをつけた清楚なものだったから、大人の女性を意識した装いを選んだのは気持ちの切り替えのためだけでなく婿殿への宣戦布告でもあった。

 

 言い訳とわかる昼食時の“見とれた”には不満があったのは否めない。

 

 まあ、婿殿が言い訳をする羽目になったのはマリアが原因なのだが。

 そのうち本心から言わせて差し上げますからね!などと思ったわけだ。

 そして急遽、“そのうち”が今夜になったわけである。

 

 一目惚れしたと咄嗟に言うくらいだから、マリアの容姿は婿殿の好みではあるはずだ。恋愛は先に好きになった方が負けだ、などと言う定説を鵜呑みにするわけではないが、定説には定説であるだけの理由がある。

 惚れてもらって困ることはない。どんどん惚れてもらって構わないし、見惚れられるというのは気恥ずかしく思う部分もあるが、正直大変気分が良かった。

 余裕を奪ってやれた気がして。

 主導権は渡さない。翻弄されるなんて業腹だ、翻弄してやる側に立つのだ。


「キース様?」

「っ、すみません、つい、その……見惚れてしまって」

「まあ、お上手ね」


 昼と同じようなやり取りなのに、婿殿の表情はまるでちがっていた。

 あの時動揺した婿殿は、それでもすぐに上手にその場を取り繕っていたし、その後動揺したことなんてすっかり忘れたように振舞っていた。

 余りに動揺が少ないことに、ちょっと腹を立てたのも本当だ。もう少し取り乱してくれたら溜飲が下がって、すぐにもう真相は知っていますと言えたのに。

 今の婿殿は表情を取り繕いきれなくて視線が彷徨い、赤くなってまたマリアの顔を眩しそうに見つめてくる。

 それから何か言おうとして果たせずに口を噤み、眉尻を情けなく下げた。


「いいえ、全く上手ではないと反省します。貴女に相応しい賛辞が何も出てこない」


 余りにも直截な言葉にマリアは少し息を飲んだ。昼間見せた大人の余裕やら口の上手さはどこに行ったのか。

 そういう嬉しがらせではないかという疑問をさしはさむ余地もないくらい、気持ちが顔に出ていた。

 本当のことをうっかり不器用に晒してしまったような、途方に暮れた顔だ。

 マリアも婿殿の様子に釣らたように動揺して顔が熱くなってきた。


「あの……その薔薇は、わたくしに?」


 沈黙に耐えきれなくて、目を逸らしてしまったマリアは丁度いい話題を見つけて飛びついた。

 ハッとしたように手にした薔薇の花束に目を移した婿殿は一瞬苦笑いを浮かべた。五分咲きの白い薔薇と、七分咲きのピンクの薔薇は、なるほど昼のマリアのイメージには合っていただろう。婚約したての女性に贈るにも相応しい選択だ。


「……昼の貴女にも、とても心惹かれました。貴女に相応しい花をと思って選びましたが」


 今のマリアには似合わない可憐な薔薇の花束を恭しく差し出す婿殿は、真顔だ。終始にこやかに微笑んでいた昼とは違って、昨夜と同じやつだ。

 多分、婿殿は緊張すると真顔になるのだろう。

 なんだかマリアの鼓動も速まってきた。


「僕はとても欲張りなので、今宵の艶やかな貴女に見惚れつつも、昼の貴女も恋しく思います。

 ですが次に昼の貴女に会えば、今度は見惚れつつも夜の貴女を恋しく思うでしょう。

 ですから明日、また僕に貴女の時間を下さいませんか?」


 ほんの少し上ずった婿殿の声に隠し切れない緊張があって、なんだか訳もわからずマリアはカーッと耳のあたりが熱くなった。

 なぜ真顔でこんな恥ずかしい台詞が言えるのか。それともこれが婚約者に対する態度としては普通なのか。

 きっと常識なのだ、いや、絶対そうだ、そうであるべきだ、だから社交辞令であって動揺する必要など全くないのだからして一刻も早く冷静にならねば……


「昼も、夜も、貴女に会いたいです」


 駄目押しとばかりに付け加えられた言葉に、マリアは思わず引っ手繰るように花束を奪い取った。

 淑女としては、如何なものかという勢いだった。


 婿殿のくせに生意気なのがいけないのよ!

 真顔でもとぼけた顔のくせに!

 

 マリアは折角の大人っぽいドレスに似合わなくなっているだろう顔を俯け、抱きしめた花束の薔薇に埋もれるようにして隠した。

 耳の近くに心臓が移動してきたのではないかと思うくらい、鼓動が煩い。


「貴方が、どうしてもと言うなら。差し上げてもよろしくてよ」

「どうしても」

「仕方ありませんわね」


 ペチコートの中で色々なものが暴れていたが、暴発は免れた。

 婿殿が最後まで真顔でマリアの仕草を笑う気配がなかったから、どうにか余裕のある大人の女性を意地でやりきることができた。

 ……その完成度については、考えるのを放棄した。







 本邸との距離は、徒歩で十分もかからない。だが、たとえ敷地内の僅かな距離でも、夜道を歩くようなことはしない。

 受け取った薔薇はカチェリナに預けて、マリアと婿殿の二人は馬車に乗り込んだ。

 小さなランタンの灯りの下、とても近い距離に少し落ち着かない気分なのを隠して澄まし顔で馬車の揺れに身を任す。婿殿の方も昼間の落ち着いた紳士的な微笑みが戻っている。



「今夜の晩餐ですが」

「はい」

「ミラン兄上が戻っているので、おそらく彼の独壇場になるかと思います。一応我々が主賓ではありますが、身内の晩餐ではいつものことなので」

「人気者ですのね」

「否定はしませんが、それだけではないというか。とにかくミラン兄上は極めて常識的に生きてきた人にとっては色々と、その……驚いてしまうことが多い人なんです」


 言いにくそうにする婿殿に、マリアは思い当たる節があった。

 マリアが可愛い嫉妬だと思ったあれは、変人だから気をつけろという遠回しな警告だったらしい。

 可愛い嫉妬をされたと思って舞い上がってしまった自分を消し去りたいと思った。


「おそらく大丈夫ですわ。父の友人たちは皆個性的で、癖が強うございましたもの」

「それなら良いのですが。

 今日の出席者は僕の両親、エドワード兄上の家族にミラン兄上です。貴女がまだ会ったことがないのは、エドワード兄上の娘のキャロラインだけになります」

「……ご長女でしたかしら。お幾つになられますの?」

「十二歳です。貴女とお会いできるのを楽しみにしていたので、よろしければお喋りに付き合ってやって下さい」


 キャロライン・ヴェルナが貴族年鑑に載るようになったのはここ数年のことだったような気がしていたが、勘違いだったようだ。まだ幼いご長女とは会うことはないと思っていたので少しヒヤッとした。

 やはり暗記しているからと慢心せず、念のための確認は怠らないようにしよう。

 そうマリアは心に書き留めた。

 

 基本的に貴族社会というのは子供の存在を排除する傾向がある。

 礼儀作法が身に付かないうちは、食事も完全に別なのが普通だ。

 マリアも父と定期的に食事を共にするようになったのは十を数えてからだった。

 人前に出る場合、幼い年齢であっても子供ではなく小さな大人として扱われるので、小さな大人として認められるだけのマナーが必要となる。貴族の子供が早熟なのは、そういう事情もあるのだ。

 それも昼の社交限定で、夜は完全なる大人の時間である。

 特に人を招いての晩餐などは時間帯が深夜に及ぶことも珍しくなく、酒も供されるから成人前の娘が参加することはまずない。

 十二歳ということなら、近い身内だけのものだから特別にということなのだろう。

 つい数日前まで、マリアも厳格に取り決められた就寝時間を過ぎるような催しに出ることなど考えられない生活をしていた。

 たった一日を境に、全てが激変する。マリアの場合、婚姻と同時だったから余計だ。

 けれど、マリアはそれを負担には感じていなかった。

 今まで精神的に息を潜める様にして生きて来たのだ、抑え込まれていたマリアの自我は生来の性格もあって変化を貪欲に楽しんでいた。それに伴う気分の上がり下がりをも全て含めて。

 マリアに自覚はないがそれはたがが緩んでいる状態の様なもので、その分隠しきれない生き生きとした若々しい喜びがマリアを一層魅力的に見せていた。

 どこぞのすっかり新妻に骨抜きになった婿殿でなくとも、思わず振り返ってしまうくらいに。





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