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すっぱり気持ちの切り替えができるのは、素晴らしい長所ね。
マリアは鏡の中で微笑む自分を、気合いを入れて褒めた。
本邸での晩餐が控えていたため、夕暮れの気配が濃くなる前に婿殿は恭しくマリアを離れの玄関まで送り届けた。
女性の支度には、時間が掛かるのだ。
「また夜に」と別れた婿殿が何処に行ったのかは知らない。
普通なら婚約者との逢瀬の後は家に帰るのだろうけれど、家はここだ。裏口からでも入るのだろうか。
使用人の領域も良くご存知のようだから、まさか窓から忍び込むなんて冒険の真似事はしないだろう。
晩餐用のドレスは思い切ってデコルテが大胆に開いた黄色のものを選んだ。正直にいえば、恥ずかしいし慣れない。けれど、これくらいがきっと今のマリアには丁度良い。
何一つ恥じることのないわたくしであると、昂然として在るために自らを鼓舞する燃料だ。
装飾品は小粒のエメラルドを使った一揃いに決めた。今日は身内だけの晩餐会だという話だし、これくらいのものが良いだろう。
化粧はカチェリナと相談して少し濃い目に仕上げた。
まだ見慣れない大人の化粧をした自分の背後に控えるカチェリナを、鏡越しにふと見つめる。
マリアとは違った方向性で恵まれた子供時代を過ごした婿殿を羨ましいと思ったのは事実だ。
これからも何度も嫉妬するだろう。
今夜だって今から仲良し家族の本陣に単騎出撃するのだ、四方八方からその手の嫉妬の元は飛んでくるだろう。
そこはもう諦めて嫉妬する前提で覚悟を決めるべきだ。
そして婿殿に無くて、マリアにあるものも当然存在する。
「ねえ、カチェリナ」
「はい」
「気付いたのだけれど、わたくし貴女をとても自慢に思うわ」
「……如何なさいました?」
「わたくしね、きっと余裕が無さすぎたの。だから気付かないことが沢山あるんだわ」
感情を顔に出さないのが使用人のマナーだけれど、だからと言って気持ちが読み取れないわけではない。ずっと側に寄り添ってくれたカチェリナの気持ちは、だいたい分かる。カチェリナにマリアの気持ちが伝わってしまうように。
感謝と謙遜を示すべきところを、驚きに不適切な反応をしてしまうくらいなのだから、十分カチェリナはマリアに気を許しているのだ。マリアもそれを自然と受け止めている。主従の線引きがある上で、ちゃんと信頼関係があって通じ合うものがある。
でも、知らないこともたくさんある。マリアはどうしてカチェリナが子爵令嬢でありながら王宮の侍女を経てデルフィーネ家に雇われることになったのか知らない。カチェリナの家族構成は把握しているが、彼らがどのような人々なのか、カチェリナがどのような幼少期を過ごしたのか、知らないことだらけだ。
個人的なことを使用人が主人に話すのは求められても憚るべきだし、主人の方から使用人の事情に踏み込むこともあまり褒められたことではない。
でも、知りたいと思うのだ。
今までそれを思う余裕すらなかった。
自室に一人で居る時でさえ、完全に警戒心と緊張を切ってしまうことは出来なかったかから。
一時的にせよ、デルフィーネ家から離れられた折角の機会を、生まれた余裕を、嫉妬や劣等感だけに費やすなんて馬鹿のやることだ。
そんなもの問題にならないくらい得るものがあれば、結果的にマリアの勝利だ。そう決めた。
「聞いて、カチェリナ。歴史の授業を退屈だなんて思ったことは無かったわ。エルベ老の話はいつも面白くて楽しかった。それを今、とても得意に思うの」
羨ましいと思った分だけ、いや、それ以上に自慢できること、誇りに思えることに気付けば良い。見付ければいい。絶対にあるはずだから。
だって父は言ったのだ。マリアのことを、どこに出しても恥ずかしくない娘だと。
「それから、爬虫類は嫌いじゃないわ。とぼけた顔が可愛いと思えるんですもの。好きに理由なんて無いわ。ただ、好きだと思ったの」
エペローナのこと、見下してなんていない。大事にしたい特別な友人になれると思ったのだ。その気持ちを、否定したくない。
だから断固、見下してなんかいないのだ。
会える日を楽しみに過ごした心が弾んだ日々も、あれこれ想像して怒ったり嬉しくなったりした記憶も、博物図鑑でアホロートルを探した時のわくわくとした高揚感も、その姿を想像して愛らしいと思ってしまったことも、全部幻なんかではないのだ。
鏡越しのカチェリナの目に微笑みが滲んだ。
「楽しい午後を過ごされたようで、良うございました」




