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その部屋は、とある物語をマリアに思い出させた。
「まるで“時の記録庫”のようね……」
「ああ、カスティーンの“霧のむこう”ですね。言われてみれば、亀の紳士が住んでいそうだ」
「ええ」
深い霧に迷った男がようやく見つけた灯りは、時の記録庫という巨大な書庫だった。その管理人が亀の紳士で、男はそこで忘れていた過去の大事な思い出を取り戻す。そういう話だった。
「僕にとっては、“叡智の番人”かな」
「叡智の番人?」
「ええ、子供の頃家庭教師から与えられた読み物です。どちらかといえば冒険小説の類いなので、貴女には馴染みの無い内容かも知れません」
静寂を壊さないように自然と小さく潜められた声で、婿殿は軽くあらすじを語ってくれた。
古いお屋敷の図書室の奥に、主人公の少年はある日隠された古い扉を見つける。
遊びに来ていた友人と一緒にその扉を開くと、そこには図書室より遥かに巨大な書庫があって、中央に聳えた螺旋階段の周りに無数の本棚が浮かんでいる不思議な場所だった。
番人を名乗る老人は侵入者に激怒し、主人公たちを追い出そうとするが、逃げる途中で友人がうっかり手を触れてしまった古びた剣の罠に一緒に捕まってしまう。
罠とはその剣が作られた時代に飛ばされてしまうことで、その剣にまつわる謎を解かないと帰れない、というものだった。
「今思うと、あれは退屈な歴史の勉強を子供達に飽きさせないための教育書だったのでしょう。
化石、古地図、古い首飾り、古い釣り具なんてのもありましたね。大人の思惑にすっかり嵌った僕は、夢中になって謎解きをしました」
懐かしそうに言う婿殿の横顔に、認めたくない感情が湧き上がった。
この部屋は間違いなく素晴らしい部屋だ。蔵書も申し分ないものなのだろし、単純に価値として高いのだろう。
けれど、それ以上にこの部屋に特別な想いを抱くことができる豊かな子供時代を持つ婿殿が妬ましかった。
たとえ“霧のむこう”の物語の世界に入ったとしても、マリアが忘れているだろう大事な思い出なんて、有りはしないのだから。
これがエペローナだったら、きっと嫉妬なんてしなかったのに。
ふわふわと、家族の愛に包まれて幼子のまま大きくなってしまった人の悪意など知らない無邪気なエペローナ。
そのままでいて欲しいと、愛しく思うことしかなかった。
それもまた、庇護する対象としてエペローナを下に見ていたからなのか。
自分の醜さに、胸が苦しくなった。
誰かを妬ましいと思ったことは、ほとんどなかった。物質的にはとても恵まれていたし、誰か他人のものを欲しいと思ったことはない。
使用人は個人的な家庭の事情など仕える相手に漏らしたりしないし、それは乳母ですらそうであった。
嫉妬というのは人間関係を拗れさせる大きな要因になるから、よくよく制御しなければいけないとエットル夫人は言っていた。マーベル卿とエルベ老は願望同様、嫉妬も見抜ければ良い手札になる、逆に見抜かれればつけ入れられる隙になるから注意せよと言っていた。
誰かと比べて嫉妬するなんて、そんな愚かしいことは自分はしないと思っていた。
無知というのは人を傲慢にさせる。
警告じみたエルベ老の言葉が思い出された。
確かにマリアは傲慢だった。
これほど嫉妬というのが心を乱すものだとは、思いもしなかった。
勿論、婿殿に他意があるわけではない。
婿殿はマリアが思っていたよりもずっと話し上手で、マリアも会話を楽しむことができたし、マリアに対する気遣いも心地良かった。
何かというと恩着せがましかったリチャードとは雲泥の差だ。
けれど、一方で少しずつ黒い靄が心に生まれていた。
仲の良い家族の、思い出があちこちに潜む愛しき我が家。
それは、婿殿にとってはとても素敵なことだ。
持たざる者であることを、マリアに突きつけるほどに。
親しみを持つ以上に、劣等感と疎外感が心を侵食する。
もちろん、それを気取られるような愚かな真似はしない。
これが理不尽極まりない感情であることも、ちゃんと分かっている。
だから幾重にも重ねたペチコートの奥にしっかりと仕舞い込んだ。
そこでどれだけ嫉妬が暴れても、外には全く分からないくらいに厳重に。
その後の庭の散策は、マリア的には散々なものだった。
表面的には楽しく会話をしていたし、マリアが気もそぞろだったことを悟られてはいないと思う。
婿殿のエスコートは申し分無く、はにかみながら差し出された婿殿の腕にマリアも面映ゆい思いで手を預けた。
マリアの好きな花で溢れた、心尽くしの庭に心躍ったのも本当だ。平面的なデルフィーネ家の整然とした庭とは違い、妖精が出てきそうな素敵な茂みや、つい腰を下ろしたくなる木陰に置かれたベンチは散策をより楽しいものにする心遣いが感じられた。
婿殿はマリアが心置きなく庭を楽しめるようにか、離れの中を案内するときよりも格段に会話は控えめだった。会話と会話の間は沈黙というよりは必要な間として自然なもので、それを苦もなくやってしまえる婿殿に大人の余裕を感じた。普通なら頼もしく思い、尊敬の念を抱くのが正解だろう。
だが、マリアは反射的に自分だってすぐに追いついて見せると対抗心が燃えた。翻って実は自分には余裕が足りないということを突きつけられた気がしてまた嫉妬が騒いだ。
正直その手の知識が少ないマリアが想像しうる中で、婚約者との初めてのお出かけとしては最高に近いものであったように思う。
だからこそ、心から楽しめなかったことが申し訳なかった。それこそが未熟者の証左であり、嫉妬の感情を自覚させられた上に、自分の不甲斐なさに歯ぎしりしたい悔しさが重なって、まさに踏んだり蹴ったりだったのだ。




