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『淑女の微笑みというのはよく鎧に喩えられるものですけれど、忘れてはいけないのは鎧はちゃんと脱げるということです。

 いいですか、マリアさん。誰にも内心を悟られないことが淑女の条件ではありませんよ。

 脱げない鎧は呪いと変りません。

 何のために鎧をまとうのか、きちんと理解できていれば逆に脱がなければならない時も分かるはずです。

 全身鎧で壁際に控えている騎士様には話しかけ難いでしょう?

 その騎士様も、誰かが川で溺れていれば全て脱ぎ捨てて飛び込むでしょう。

 淑女の鎧も同じこと。

 状況によっては全身鎧を隙なく着込む必要もあるでしょうけれど、それでは貴女の魅力も全て閉じ込めてしまいますから』


『何を考えているか分からないなどと思われるようでは、淑女としては落第です。

 社交は人と人との繋がりです。信頼を築くためのきっかけは必ず必要になる。

 もちろん悟らせてはいけない感情はきちんペチコートの中に仕舞うのがよろしい。淑女のペチコート以上に堅固さを求められるものはありませんから』


『たとえ好ましい感情だったとしても、あからさまに表現するのはいけません。

 相手が受け取りやすい形でさりげなく示すことが大事です。

 誰からもそれと分かるような表現は圧迫感となり、身分の上下や縁戚の関係で拒否できないこともままあるからです』

 

『貴女の魅力を伝えるエッセンスを、そっと漂わせることが肝要なのですよ。

 エッセンスとなるのは貴女が相手に向ける好意であったり、培った教養であったり、立ち居振る舞いであったり、詩人の好みや趣味が同じことであったり、人によって様々です。

 香水と同じようなものだと思うと分かり易いかしら。付け過ぎれば好みの香りでも煩く感じますし、気付かれないようでは意味がありません』


『理不尽や侮辱に対する時に淑女の微笑みだけで乗り切ろうとするのは、最善ではありません。防戦一方では侮られるだけです。

 ただし、誇りのなんたるかを知らぬような取るに足らない相手には、侮らせておけばよろしい。

 問題は認められたいと思えるような方が相手の場合です。誇りを守る気概を見せなければなりません。ですが、やり過ぎてはいけません』


『いいですか、マリアさん。やり過ぎてはいけませんよ。

 相手の矜持を傷付けない範囲で、苦笑いで済まされる程度の意趣返しが丁度良いのです。

 あるいは、見事と相手に言わせるようなものであれば尚良いでしょう』


『次に会う時には貴女はデビューを終えているのでしょうね。心配は尽きないけれど、一人前の淑女に対してあれこれ心配するのも失礼というもの。だからこれっきりにしましょう。

 いいですか、マリアさん。貴女の負けず嫌いは貴女を支えもするでしょうが、落とし穴にもなり得ることを忘れては駄目よ。

 素敵な淑女になった貴女と会える日を、楽しみにしています』





 素敵なサンルームですわね。

 ええ、気に入りました。美しい庭を一望できる特等席ですもの。

 パンジーの絨毯が見事ですこと。

 まあ、是非お願いしたいわ。あそこに見えるガゼボにも案内して下さる?

 楽しみですわ。

 

 ……まあ、メニューですのね。

 わたくしのためにわざわざ用意してくださったのね。嬉しいです。

 問題ありませんわ、ディルの香りそのものは少し苦手ですけれど、魚料理に使われているぶんには好きです。

 ええ、川魚の方が馴染みがありますわ。

 そうなんですの、デルフィーネ領は小さな港が一つしかございませんから。物流もカーギル川に頼っておりますし。

 ……美味しいですわ。ソースがさっぱりとして好みです。

 困ったことですか? 特には。

 そうですわね、会いたい方がおりますの。貴方はご存知だとは思うのですけれど。

 実は、ラフ子爵令嬢にお会いしたいのです。もちろん偽名であることは存じておりますわ。婚姻の儀まで秘密にという条件がございましたもの、こちらの準備を進めるためにどなたかが協力して下さったと言うことなのでしょう?

 けれど、短い間でしたけれどすっかりわたくしラフ子爵令嬢が気に入ってしまいましたの。わたくしは過保護に育てられてしまいましたので、同世代の友人もおりませんでしたし。偽名でも手紙をやり取りした時間は本物ですもの、こちらと所縁の深い方でしたら交流を持つのに特段不都合ということもないかと思いますの。

 それに、手紙の中ではわたくしより年上とのことでしたけれど、きっと年下でいらっしゃいますわよね?

 過保護に育てられた自覚のあるわたくしから見ても、内容がいとけなくていらっしゃって微笑ましくて。まだ手習いの途中と見えて、手蹟も少し拙くて。

 けれど一生懸命でいらっしゃるのが伝わってくるような、優しい気持ちになる手蹟でしたわ。

 自惚れかもしれませんけれど、慕ってくださるご様子が嬉しくて。

 もしわたくしに妹がいたら、このような気持ちになるのかしらと想像せずにはおれませんでしたの。

 最後に頂いた手紙には昨日お会いできるような事が書かれておりましたから、とても楽しみにしておりましたのうよ。

 正直に申し上げますと、貴方とお会いすることよりも。

 けれど、残念なことに一向にわたくしにはラフ子爵令嬢を見つけることが出来ませんでしたの。

 ですから、落ち着いてからで構いませんので紹介して頂けると嬉しいですわ。



「……ま、キース様」

「っ、はい!」


 僕はハッとなっていつもの調子で返事をした。

 困惑した様子でこちらを窺うマリア嬢に、しまったと思ったけど後の祭りだった。


「あの、どうかなさいまして?」

「いえ、失礼をしました。つい貴女に見とれてしまいまして」


 我ながら苦しい言い訳だ、いついかなる時もマリア嬢には見惚れられる自信はあるけれども!


「まあ、お上手ね」


 仕方ない方ですこと、誤魔化されて差し上げますわ。


 そんな心の声が聞こえてきそうなマリア嬢の微笑みにくらっとする。

 あ、侮れない! いや、元より侮ってなんかいないけども!

 それにしてもヤバイ。

 どうしよう、どういうことなんだ、あの偽名が僕だってどうしてマリア嬢が知らないんだ!?

 いやだって、ボーダル男爵経由だし、なんで伝わってないの!?


 僕は混乱しつつも、衝撃で止まっていた食事を再開した。今日の昼食はマリア嬢がデルフィーネ領で普段食べ慣れていそうなメニューにしてもらった。川魚は泥臭さが苦手だから僕は得意じゃないけど、今日の魚は良い感じだ。

 思えば、苦手になったのは騎士学校に行ってからだ。寮の食事は質より量だったから。

 うちの料理人の腕が良いんだな。いや、知ってたけど、こうしてしみじみ思うくらい美味しい。

 美味しい料理は、心に余裕を持たせてくれるものらしい。僕は幾分か落ち着きを取り戻した。

 ちらりと様子を窺うと、マリア嬢の手も休むことなく魚料理を口に運んでいる。僕は密かにホッと胸をなで下ろした。

 それからさっきのマリア嬢の話を反芻して、焦るのもあるけれどなんだかすごく、恥ずかしいような、胸がきゅんとなるような気持ちになった。

 いや、確かに成人した女性の手蹟にしては拙かった。

 残念令嬢の気配がするって自分でも思った。

 内容も、居心地良い住環境を整えるための情報収集が目的だったから、よくよく考えてみると年頃の女性が書く内容じゃない。

 でも、そんなアレな内容だったのに、マリア嬢は全て好意的に受け止めてくれて。

 その純粋さというか、心根の優しさに僕は何て可愛い人だろうかと感動してしまった。

 やっぱりマリア嬢は天使だ。


 ……反面、その気はなかったけれど騙してしまっているような状況に罪悪感半端ないです。本当、どうしよう。


 ……あれ?

 そういえば、さっきマリア嬢にキース様って呼ばれた気がする。

 気のせい?

 いやいや、確かに僕は聞いた!


「何か?」

「……名前を」

「はい?」

「先ほど、名前を呼んで下さいましたね」

「お嫌でした?」

「いえ! 僕も、マリアさんとお呼びしても?」

「勿論ですわ」


 もう一度キース様って呼んで下さい!

 くっ、初名前呼びを堪能しそこねたことが残念無念だ、早く次の機会が来ないかな!

 いや、欲張ってはいけない。こんなに順調に会話していることが奇跡なんだ。昨日の披露パーティーの頑なさからしたら、本当に奇跡だ。

 やっぱり昨夜の出来事のおかげかな。だいぶ情けない姿を晒しちゃったけど、警戒心を解いてくれたらなら結果的に大成功なわけで、よく頑張ったと自分を誉めておこう、うん!



 ……ちなみに、給仕をしてくれた爺やにもバッチリ全部聞かれていたので、目が合った時珍しく爺やにあからさまに呆れた顔をされた。

 本当、どうしよう。

 いっそのこと女装しちゃうとか?

 いやいや、それ何の解決にもならない上に更に問題が上乗せされるって!

 やっぱり、ここは真摯に謝罪するしかない。ちゃんとボーダル男爵に確認しなかった僕の手落ちだ、うん。

 でも謝罪するにしても、どう伝えたら一番マリア嬢が傷付かなくて済むだろう?

 あんなにエペローナに会えるのを楽しみにしているのに、それが実在しない人物だなんて泣かせちゃうかもしれない……!

 本当、どうしよう!

 うう、こういうのってグダグダ悩めば悩むほど言い出せなくなるんだよね。

 よし、決めた!


「今日中に、遂行します」


 とりあず、爺やにはこっそり宣言しておいた。周囲から追い込まれた方が頑張れる子なんです。

 

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