20
騎士の朝は早い。夜番でもない限り日が昇る前、まだ薄暗いうちに起き出す。
というわけで、すっかり早起きが身に染み付いたキースです。もう元騎士だけど、そう簡単に十年以上続いた習慣は抜けないみたいだ。
まだぐっすり寝ている気配のマリア嬢を起こさないように、全神経を集中させてそーっと寝室を抜け出した。
大捕り物だった一昨年の密輸事件の時より緊張したかもしれない。
ちなみにだけど、我が国はすごく平和だ。四方を海に囲まれて他国と地続きじゃないこともあって、割と呑気な国民性をしている。
気候も比較的穏やかで、壊滅的な飢饉などは記録上でも殆どない。十年に一度程度は天候不順で不作の時もあるけれど、海産物が豊富だから餓死者が出ることの方が稀だし、貧困による犯罪は比較的少ないと思う。
ミラン兄上によると、中央大陸だと片田舎の地方都市でも我が国の王都より物騒なんだそうだ。
大盗賊団とか物語でしか知らないし、戦闘でガンガン命のやり取りしちゃうような事件は経験したことがない。
そういうのをやっているのは海軍だけで、あっちは逆に海賊と年がら年中やり合っている。
ボーダル男爵が財産を築けたのも彼らが頑張ってくれているおかげで、つまり僕がマリア嬢と結婚できたのも彼らのおかげで、本当にありがとうございます……!
ともかく、新婚第一日目。気合い入れて行くぞ!
と、意気込んだところで、先ずは主だった使用人を集めて緊急会議です。
出席者は議長の僕、爺や、家政婦長のナタリー、庭師のデルモット、そして侍女のカチェリナさんです。
離れの規模はあまり大きくないので、マリア嬢と直接言葉を交わす可能性があるのはこの四人くらい。表に出ない使用人は八人いて、必要に応じて本邸からも応援を呼んだりするけれど、これらの人々はマリア嬢と直接話す立場にないから緊急会議には呼んでいない。
「朝早くから忙しい中すまない。なるべく手短に切り上げるね」
そんな風に切り出しておいて、僕は少し沈黙する。
昨夜のあれこれをどう伝えたら良いのか何度も心の中で練習していたけれど、全くもって格好がつかない内容しか思い浮かばなかった。
ゆえに、覚悟がいるのだ。
「……皆の知っての通り、僕とマリア嬢は昨日の結婚式が初顔合わせでした。殆ど、一目惚れでした」
爺やとナタリーは赤ん坊の頃から僕を知っているので、とても微笑ましげだ。
居た堪れない。
デルモットは若干何言ってんだこいつって顔をしている。
居た堪れない。
カチェリナさんは色素の薄い水色の目と白金の髪をした背の高い美人さんだ、ピクリとも動かない表情で、何て思っているか全く分からない。
居た堪れない!
でもここでへこたれている場合じゃない!
頑張れ、自分!
「で、ですね。ご存知の通り、僕は奥手です。は、初恋、ですし、その、何も出来ませんでした」
言った! 言いました!
顔から火が出る!
「……ぼっちゃま、それはつまり……」
爺やが神妙な顔で口ごもる。そうだよね、なかなか口にしずらいよね。
僕も、今すごく! つらい!
「何も、出来ませんでした……!」
察して! 全力で察して!
「こ、ここで強く主張したいのは! マリア嬢には何一つ落ち度が無いと言うことです! 本来なら僕がリードしなければならないのに情けないことは分かっています! ですがこの上は健全な結婚生活を目指して、まずは段階を踏みたいとマリア嬢とも相談しまして!」
「相談、したんですか」
ナタリーの呆れ顔に、僕はヤケクソ気味に勢いよく頷く。
「しました! 婚約したての初々しい二人という関係から徐々にということで! ッゲホ! ゴホゲホッ!」
勢い余って咳込んでしまった僕に、爺やが水を差し出した。
「ぼっちゃま、お水を」
「ありがとう!」
一気に飲み干すと、幾分頭が冷えた。深呼吸をして呼吸を整える。
うん、大丈夫だ、羞恥の頂点は乗り越えた。
「とはいえ、マリア嬢を不名誉な立場に立たせるわけには絶対にいかないので、全て滞りなく、その、済んだことに対外的にはしておきたいんです。婚約者同士として振る舞うのも離れの中だけということで。本邸の方にも漏らさないようにして欲しい。皆さんはマリア嬢と直接話すことがある立場なので、外部の目がある場合を除いて、僕の婚約者として接して欲しいんです」
万が一初夜の不首尾が知られると、一番困ったことになる可能性があるのはマリア嬢だし。こういうのは本当に女性はかわいそうだと思う。何か問題があると、絶対女性側の問題が取り沙汰されるから。
「僕達二人は既に夫婦ですが、僕の初恋が実るかどうかは別の話です。この年で何をと自分でも思わないでもないです。貴族の結婚に恋愛感情は関係無いですし、実っても実らなくても僕はこの先彼女の良き夫であるよう努力し続けるでしょう。ですからこれは完全なる僕の我が儘です」
夫婦としての情は持ってくれるかもしれないけど、恋には落ちてくれないかもしれない。それでも、精一杯恋がしたいと思う。
憧れるだけで諦めていた恋だ。せっかく生まれてきてくれた恋心の為に、僕はできる限りのことをしたい。恋をくれたマリア嬢のために、できることは何だってしたい。
たとえ思いを返してもらえなくても、笑顔が見れたらいいな。
僕に怯えなくて済むように心を開いてくれたら。いつか生まれる僕たちの子供の前で穏やかに笑いあえる絆を育てられるなら。
そのためなら、道化にだってなれると思う。
「僕は、殆ど我が儘を言ったことがありません。子供の頃ミラン兄上がここぞという時の為に我が儘は取っておくものだと入れ知恵してくれたので、ずっと後生大事にとっておきました。思うに、今がここぞという時だと思うんです。だからどうか、僕の恋に協力してくれませんか?」
「よろしいですよ。ぼっちゃまはとても良い子でしたからね。ぼっちゃまらしい我が儘だと思いますし」
「そうですね、キース様は幼い頃から少し心配になるくらい素直でいらっしゃいました」
「今更ですね、坊ちゃん。お嫁さんが喜んでくれるように俺に随分あれこれ注文つけてくれたじゃないですか。これからもそうすりゃ良いです。クロッカスの球根はもう準備できてますよ。ご注文通り青味の強い紫のやつです。あとはスノードロップでしたね。もうすぐ薔薇も咲きますし、バンジーの絨毯は丁度見頃です。コスモスは満開まではもう一週間てとこですか。まあ、既に結構忙しいですから、追加の我が儘は適度にお願いしますよ」
苦笑いしながら古参の三人は頷いてくれた。良かった。この三人はそもそも僕に甘いから大丈夫だとは思ってたけど。
自然と視線が最後の一人に集中する。
「わたくしにも異存はございません」
僕はホッとして軽く吐息をつく。実を言うと、カチェリナさんの協力が一番必要だと思う。接する時間も、今までの繋がりも遥かに僕を上回るわけだから。
「ありがとう。僕よりずっと彼女に詳しい君から、何か注意事項はあるかい?」
「……では、一つだけよろしいでしょうか」
「はい、お願いします」
「お嬢様は、少々気が強くていらっしゃいます。そうでなければならない状況ではございましたが、生来のご性格でもあるかと。滅多なことで淑女の仮面を外したりなさいませんが、生来のご気性もどうか慈しみ下さいますようお願い申し上げます」
「全く問題ないです」
即答した僕に、カチェリナさんは少し驚いたように目を見開いた。
怯えた子猫状態だったマリア嬢には胸が痛んだけど、可愛いいなあ甘やかしたいなあと思ったのも本当だし。きっと今までもあんな風に自分を奮い立たせて一生懸命頑張っていたんだろうなって。
切ないのと愛しいのが混じり合った複雑な気持ちが胸のあたりでチクチクする。
今すぐにも会いに行きたい。
「いや、跡取り娘として伯爵家を背負うのですから当然ですし、そういう気の強さは健気で守って差し上げたいと思います」
本当のところは言えないから当たり障りない感じでまとめたけど、カチェリナさんはちょっとホッとしたように見えた。
その様子を見ると、こうやって早めに直接話せたのは良かったなと思う。この人なら、僕の不興を買うとか気にせずにずっとマリア嬢の味方でいてくれるだろう。
「僕はこの通り経験も無いですし、女性の心の機微には疎い方です。万が一僕がマリア嬢を知らず知らずに傷つけるようなことがあったら直ぐに教えて下さい」
「畏まりました」
カチェリナさんとの会話が終わったところで、爺やがパンパンと手を叩いた。
「では具体的にぼっちゃまの我儘によって増える業務について話しましょうか。時間もないことですし」
そんな風にからかい混じりで告げた爺やは、流石の手腕であっという間に業務内容を決めていく。
まずは僕の寝室について。主寝室から一番近い客間を僕の寝室とし、ここは基本的にナタリーが中心になって爺やが手伝う形で掃除その他の諸事を整える。二人以外は立ち入り禁止。これは主寝室もほぼ同じだけど、カチェリナさんが中心になって補助にナタリーが入ることになった。
仕える家の内情をおいそれと漏らす使用人はうちにはいないと信じてるけど、その火元になるような情報を極力与えないのも大事だよね。
食事は朝は別々、昼食はサンルームで一緒に、夕食は社交や本邸の予定を鑑みて臨機応変に。離れ内でのメッセンジャー役はカチェリナさんに任せた。
デルモットには婚約者を訪ねるときには欠かせない花束への協力を頼んだ。




