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朝食はワゴンで直接寝室に運ばれた。
ベッドの上で取る朝食は初めてだ。少し戸惑ったので、カチェリナに聞いてみると夜会で夜中や、場合によっては明け方帰宅することもあるので、ベッドの上で遅い朝食を取るのは特に珍しいことではないらしい。
今まで規則正しい生活をしてきたマリアには、馴染みのない感覚だった。今朝の朝食もいつもより1時間ほど遅い。
「夜会で遅くなった翌日などは、昼と兼用のものをご用意することもこれからはあるかと」
「生活のリズム自体が大分変わるのね」
「はい。お疲れのようでしたら午前中はゆっくり休まれてもよろしいかと思います」
朝食を終えたところで、カチェリナがカードを差し出した。
「子爵様からでございます」
受け取ったカードには、サンルームでの軽い昼食と、離れを案内がてらの庭の散歩に誘う内容が書いてあった。
早速マリアもカードに返事を書いてカチェリナに託けた。
カチェリナが退出すると、マリアはしばらくぼんやりと受け取ったカードを眺めていた。
綺麗な筆跡だと思う。男性が書くにしては柔らかさがあるが、不器用さなど微塵もない。
エペローナからの手紙で見た筆跡を思い出すが、こじつけでもしなければ類似点など無いように思われた。
悲しいような、寂しいような、漠然とした喪失感に小さなため息が出る。
枕元に置かれたポプリはラベンダーだし、壁紙はマリアの好きな鈴蘭の柄が入った白地に紺の落ち着いたものだ。カーテンは紺に金の房飾りが付いている。
瞳や髪の色の兼ね合いから紺色とマリアは相性があまり良くないが、一番好きな色だ。
家具は落ち着いた焦げ茶のもので統一されている。
朝食に添えられた花は摘みたてのコスモスで、マリアの好きな白いものだった。
焼きたてのパンと共にあったのはアプリコットとブルーベリーのジャムで、どちらもマリアの好きなジャムだった。
全部、エペローナとの文通で書いたことだ。
本当は、昨夜の話し合いの途中で何となく気がついていた。
初めて真正面からしっかり見た婿殿の顔に、妙な既視感を感じたのが最初だ。
それから年上の男性とは思えない言動が、誰かに似ていると思った。
朝起きて、あの奇妙な話し合いをもう一度思い返して、納得した。
エペローナ・ラフは、婿殿だ。かなりの高確率で。
手紙に書かれたあの特徴的な顔立ちなら一目見れば分かると思ったが、昨日の結婚式の出席者の中にそのような女性はいなかった。男性であれば、該当者はまさかの隣にいたわけである。他にエペローナ・ラフを装う可能性がある人間がいたとしても、相当本人に近い間柄だろう。
義母は違うと言い切れる。あの方の手蹟があのように拙いわけがない。婿殿に親しく側に仕える乳姉妹がいれば、その人である可能性はあるかもしれない。その場合、それを把握している立場の人間はといえば……
「ロウィー・ベレス、ね」
元は家宰で、今は婿殿の執事。紹介された使用人の中で真っ先に覚えた名前だ。その次が家政婦長のナタリー・ウォード。それ以外の使用人についてはまだ紹介もされていないという事情もあるが、最低限この二人の名前さえ押さえていれば問題がないとも言える。
とはいえ、婿殿本人でない可能性の方がはるかに低いと言うのは変わらない。昨日の“お披露目会”で相見えることを楽しみしているとエペローナは手紙の中で書いていたのだから。
それから不意に真剣にごっこ遊びを提案してきた婿殿の顔を思い出して、マリアは思わず笑ってしまった。
「ふふ……ごっこ遊びって……子供の頃でもやったことが無いわ」
今更そんなことをしたがる年でもないけれど、エペローナの頼みであればきっと付き合ったと思う。エペローナが幻の義妹だったとしても、エペローナそっくりの兄と結婚したと思えば親しみがわいた。
あの義母上を見慣れていて自分に一目惚れというのは無理があるけれど、嫌われてはいないということは分かった。
「そうね……当初の予定通り友人のような関係から始めるのも悪くはないかしら」
夫婦間の友情が果たしてあり得るのかという疑問はさておき、一個人としては今のところ好ましい人物である。騙されたという気持ちが無いではないけれども、あの様子では絶対に意図したものではないだろう。
相談という言い訳での提案は確かに婿殿の本心でもあったろうが、自分が庇われたのだとも予想できた。
「でも、多少嫌味を言うくらいは許されるかしら?」
そう考えていたら、やり過ぎはいけませんよとマリアに淑女教育を施してくれた一人であるエットル夫人が心配そうにする姿が頭に浮かんだ。
大丈夫、上手くやりますと心の中で呟く。
庇われたのだとしたら、借りを作りっぱなしなのは気に食わないし、意図的でないにしろ騙された形のままなのはやられっ放しのようで悔しい。
昨夜はすっかりエットル夫人の教えが吹き飛んでしまったけれど、同じ轍は二度と踏まない。
返す返すも、あれは淑女としては失態だった。
婿殿と目を合わせることだって、勢いで睨んでみれば結局どうということは無かった。
きっと、初夜だって乗り越えてみれば大したことないに違いない。多分。
そこまで考えてみて、マリアは軽く頭を振った。
きちんと義務を果たせなかったことに後ろめたさや焦燥感はあるけれど、またあの状況になった時に取り乱さない自信があるかといえば、それは肯定するのが難しかった。
……婿殿に体を悪くされても困るし。
思い出すと、つい笑いを誘われてしまって困る。
毒気を抜かれるというのは、こういうことなのだろう。
婿殿から提示された本来はあるという婚約期間の一年という猶予。
ほんの少し、甘えてみてもいいだろうかという気になった。
既に軟化しつつある婿殿への気持ちを自覚し、一方で主導権は別の話だと気を引き締める。
主導権は絶対に勝ち取る。デルフィーネの跡取りはわたくしなのだから。
社交界でも立ち位置をちゃんと確保しなくては。
それに義理の母となったあの方を失望させたりなど、絶対したくない。
そういえば、婿殿の話し方はあの方に似ていた。どこか音楽的で心地良い。
ぼんやり顔の婿殿と血の繋がりを察するには容姿が違いすぎる二人だが、そんなところに親子の繋がりが見えて少し意外に思った。
意識したことは無いけれど、父と自分も似ているところがあったりするのだろうか。




