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 マリアの目覚めは決して不快なものではなかったが、心情的には何やら重苦しいというか、釈然としない苦いものであった。

 婿殿の態度が不快だったわけでもない。

 驚きはしたが、“そういう目的で異性と交流したことがない”マリアにとって婿殿の主張も分からなくはなかった。

 要するに、性急過ぎて気持ちが追いついていかないということなのだろう。一目惚れとかどうだとか、そういうことは置いておく。

 気の迷いかもしれないし。いやきっとそうに違いない。

 あの実の母親のあの美貌を見慣れていて、それはちょっと無理があるとマリアは思うのだ。

 初夜を先送りにされたことに関しては、これで良いのかという貴族夫人としての心得的なところでもやもやはしている。跡取り娘としてきちんと義務を果たせなかったことに不安も後ろめたさもある。

 けれど、ホッとしているというのが最大の本音で、それがまた己の未熟さを突きつけているようで気が重かった。

 ついでにそれにも増して、どのような顔で婿殿に朝の挨拶をするのかという問題がマリアを苛んだ。

 こっそり長椅子の方を窺うと、婿殿の影も形もなかったので先に起きて出て行ったのだろうとホッとした。

 この後、朝食はどうするのかなど全く予想がつかないので、マリアはおとなしく使用人の誰かが起こしに来るまで二度寝をすることにしたが、寝付けずに昨日のことを思い返すことになったのである。



 結婚式の朝は慌ただしく朝食を済ませた後、お披露目の支度を始める段になって、まず乳母がマリアから引き剥がされた。家政婦長からの指示で、手が足りない会場の準備に回されたのである。 

 結婚式のことを把握しているのは家宰と家政婦長、それにカチェリナを含む上級使用人数人ということだったらしく、マリアの支度を整えたのはカチェリナ一人であった。

 お披露目のための衣装とは明らかに違う、純白のドレスを身に纏う。

 きっちり結い上げた髪には百合の花を一輪左耳の上に飾ってある。

 姿見に映し出された己の姿を見て、マリアは緊張と高揚感に微かに震えた。

 純白の絹に施された刺繍は胴部分のみだが、ウエストラインを細く優美に強調するような配置で金糸を使った百合の図案が展開されていた。スカートの裾周りには、やはり百合のモチーフの大振りなレースをぐるりと一周配置してある。

 縦二十五センチ、横十五センチほどの楕円形の唐草模様を額縁に見立て、中心に三本の百合を描き出したレースは、一つだけでも芸術品として素晴らしいものだ。それを連ね、トレーンの中心の裾部分には水仙の花冠を百合が被るようなデザインで一際大きなレースが組み込まれている。

 このドレスの主役は紛れもなく、この百合のレースであった。

 純潔の乙女を示す百合に気高さを意味する水仙の冠は、とりわけ高位の貴族家の花嫁に喜ばれる図案である。

 レースを際立たせるため、シルエット自体は飾り気のない体の線に沿った立ち襟の長袖タイプだ。袖口だけが控えめに広がるラッパ型で、袖口自体が百合の花のように見えるようにチュールレースが重ねられている。スカート部分は絞った腰から扇型に広がるオーソドックスな形だ。

 開けられた箱にまだ収まっているヴェールは、裾にあしらわれたのよりも一回り小さな百合の意匠のレースを縁に連ねたものだ。こちらは楕円ではなく真円になる。

 美しく装うことには年頃の娘らしく心が踊る。だが、費やされた時間と富、掛けられた膨大な労力を思うと、それに見合う者であるよう覚悟を問われているようで身が引き締まる思いがした。


「お嬢様、本日の付き添いの方がお見えです」


 ドア越しの家宰の言葉に、マリアは気を引き締めた。花嫁の付き添いは、義理の母親になる人である。


「お通ししてちょうだい」

 

 カチェリナが開いた扉の向こうから、その人が姿を見せる前に深く跪礼をしてマリアは出迎えた。


「私が今日からあなたの義理の母となるイングリット・ヴェルナよ。さあ立って、私の新しい娘の顔を良く見せてちょうだい」


 柔らかい声の主に動揺しながらマリアは立ち上がる。

 目は伏せたまま、忙しなく記憶を浚った。

 ジョスラン女公爵殿下。

 思いがけなく高貴な人の名前に、一瞬頭が真っ白になった。

 王家の血を引くと言っても、もっと遠いと思っていた。

 それにも増して心乱れたのは、その人には息子しかいないはずだからだ。

 今日会えると手紙では言っていたのだから、やはり親族には違いないとは思うのだが。

 一体エペローナ・ラフは何者なのか。


「……マリア・デルフィーネにございます」

「顔を上げて、瞳の色も良く見せてちょうだい」


 閉じた扇子の先で顎を押し上げられ、マリアはそっと目を上げる。初めて間近に見た義母は、美人とはこういう人を言うのかと惚けてしまうほどに美しい人だった。

 傷も曇りもない最高の透明度を誇るサファイヤのような瞳は美しいアーモンド型をしたくっきりとした二重で、長い金の睫毛が憂いを帯びたように見せ、すっきりと通った鼻は鼻梁も高く、形の良い口は下唇が少し厚めでしっとりとした色香がある。一流の彫刻家により掘り出された女神のような陰影が落ちる肌は、若いマリアと遜色ないほど肌理の整った白だ。その白磁の肌を月光を紡いだような淡い金の髪が縁取っている。


「聞いていたよりも深い緑ね。これなら翡翠の方が似合うでしょう。黄水晶と真珠を使ったものも合いそうだわ」


 義母が機嫌良さげに微笑みながら、次々と連れてきた侍女に宝飾品を出させ、マリアに試着させていく。

 半ば呆然としながらされるがままになっていたが、試着させられる宝飾品の由来を聞いているうちに別の意味で呆然となった。

 デコルテ部分は装飾のないチュールレースで仕立ててあり、その部分に重ねることになる首飾りはまるで金でレースを仕立てたかのような繊細で精緻な金細工だ。

 この首飾りは西部に金の鉱脈が見つかったのを記念して開催された金細工職人の競技会で、一等を獲得した工房の作品だった。百年ほど前の話で、当時この金細工の首飾りを気に入った王妃陛下が買い上げた。現国王陛下の祖母に当たる方だ。

 耳飾りは涙型の翡翠だ。翡翠は大変古いもので、我が国の始祖である建国王が中央大陸から持ち出したものであるという。元はかなり大振りなベルト飾りだったが、割れてしまったために耳飾りとブローチ、帽子ピンに作り直したという記録が残っているらしい。


「やはり胸元にも翡翠が欲しいわね。ブローチを重ね付けしましょうか」


 レース編みのような繊細な金細工の中央に、耳飾りより大きめの揃いのブローチを留めると満足げに義母は頷いた。


「私よりもずっと似合っていてよ。貴女に譲りましょう」

「それは……! 畏れ多いことでございます」

「特別な謂れもなく、純粋な宝飾品の質としてはそれほど高価なものではないわ。何より私にはそれほど似合わないでしょう?」

 

 思いがけない申し出に狼狽えるが、義母は笑ってそのまま流してしまった。

 確かに色彩的に義母には似合わない。もう少し色の薄い翡翠であれば違っただろうが。けれど、そんな理由で軽々しく初代国王陛下の持ち物であったものを頂いて良いものかとマリアは唖然とした。


「ヴェールは?」

「こちらに」

 

 反応に窮して黙り込んだマリアをよそに、義母はカチェリナが差し出したベールを広げてそのレースに指を這わせた。


「良い仕事ね。とても美しいわ」


 うっとりとした眼差しでひとしきりヴェールを眺め、それから義母はマリアの頭にヴェールをそっと被せた。

 

「義理とはいえ今日から貴女は私の娘。それくらい上手に使って御覧なさい。私の名も、賢く利用なさい。それとも重い枷にしかならないかしら?」

 

 マリアはハッとして義母を見つめ返した。マリアの事情などこの婚約が整った時点で承知されているのだろう。

 これは激励なのだ、そう理解するとマリアは肝が据わった


「いいえ。誇りに思っていただけるよう努めますわ」

「ふふ、生意気だこと。頼もしいわ」


 ニコリともせずに真顔でマリアが受けて立つと、義母は楽しげに笑ったのだった。





 義母に気合を入れられたマリアは、エペローナのことを気にしている場合ではないといつも以上に気を張り詰めた。あの忌々しい親族たちに論われるような隙を見せられないと、儀式に集中した。

 滞りなく儀式を遂行することに集中しすぎて、婿殿を気にする余裕もなかった。何しろ、これが無事に終わらない限りは、あのリチャードと結婚になってしまう可能性が消えないのだからマリアとしては死活問題だ。


 ようやく儀式が終わり、庭で行われる披露パーティーへと移動して初めてマリアは婿殿に意識を向けた。

 思った以上に綿密に計画されていたらしい結婚式には王弟殿下までご来臨されるという大事件もあり、絶対に何かやらかすと思われた親族は何も出来ずに血の気が引いていた。

 正直、とても胸がすく思いだった。叔母の祝辞を述べる引き攣った顔も、恨みがましく目だけは睨みながらも表面上はにこやかに賛辞を贈るリチャードの顔も、ザマアミロである。

 自分が直接下したわけではなくお膳立てされてものではあったので、そこだけは少し悔しい。婿殿のとても良い血統は、長年マリアを苛んでいた悩みを簡単にけちらしてしまった。モヤモヤはどうしても胸のあたりに残る。

 ともかく父と婿殿と共に挨拶回りをしながら、マリアは笑顔だけを完璧に貼り付けて無言で婿殿を探っていた。身長差もあるので、顎先だけを見てまともに顔も見ていない。身内でもない若い男性と目を合わせることは、警戒心もあって箱入り娘のマリアにはどうにもハードルが高かった。

 そもそも、若い男性というものに良い印象がない。これから長く付き合っていかねばならない相手だということは分かっているが、それを全部押し隠して幸せな花嫁を演じるのは無理だった。それに、幸せそうな花嫁どころか幸せそうな夫婦も見たことがない。真似しようにもその見本が見当たらなかった。

 故に淑女の微笑みを貼り付けるしかなかった。


 まずマリアの意識に入ってきた婿殿は、その声だった。

 間延びしているというほどではないが、父よりもゆっくりしたテンポの柔らかいテノールだ。おおよそ不快感とは縁遠い感じの良い声と言えるだろう。

 それから、発音がとても綺麗だった。正確だということもあるだろうが、音楽的とでも言うのだろうか。神官達の発音もそうだが、古語には独特の抑揚がある。神話の詩や、古典を朗読するときなどは古語独特の抑揚を使えると、美しさが際立つ。その抑揚が少し普段から出ている、そういう話し方だった。

 次にマリアをエスコートする腕だが、父とは全く違っていた。

 父の場合は頑張ってマリアがついていく感じだった。もちろん歩幅などはマリアにきちんと合わせてくれるのだが、意識的なところで常に最上の己であることを無言で要求してくるような緊張感がある。

 対して婿殿のエスコートはもの柔らかで、ともすればマリアが主体のように感じるほどついて行っている感覚がなかった。マリアにとっては近くないのに、遠くもない、絶妙な距離感というのか。警戒しまくるマリアの敏感になっている感覚からしても不快感は一切無かった。

 それだと頼りないような気もするが、そのようなこともない。

 挨拶回りも半ばを過ぎてから気づいたのだが、マリアが敵認定する親族と挨拶するときは、さりげなく庇うように婿殿が僅かに斜め前に出る。

 父の反応から判断しているのだろうかと驚きながらも、社交に慣れればこれくらい普通なのかもしれないと思い直す。

 婿殿優秀説は個人的に嬉しくないので、あまり認めたくなかった。

 血筋も能力も人柄まで揃っていたらマリアは何で対抗したら良いかわからない。

 不安に駆られてついエペローナの姿を探してしまうけれど、婿殿側の親族にも他の招待客の中にも彼女らしき人を見つけることはできなかった。

 けれど、あの無邪気で悪意の外に生きているようなエペローナが手紙の上でのものとはいえ約束を破るとも思えない。今にもうっかり遅刻でここに来てくれるのではないかと、愛嬌のある少し間の抜けた笑顔で初めましてと駆け寄ってくれるのではないかと、最後まで期待してしまう気持ちは消えなかった。






 当たり前だが未経験の上、箱入り育ちのマリアに男女の夜の営みのあれこれなど詳しい知識があるわけもない。

 エペローナに会えなかったことに意気消沈しきりだったマリアは覚悟する間もなく、寝室に放り込まれていた。そうなって初めて、現実としてすぐそこに迫って来た初夜というものを意識し、それが引き金となって突如として蘇った記憶があった。

 

 マリアは全身から血の気が引いた。

 思い出したのは、幼い頃庭の池に突き落とされ、溺れ掛けたこと。

 そして引き上げられた池のほとりで、服を破られて裸にされたことだ。

 あの時の恐怖は今もたまに悪夢に見るほど、マリアの心に深く刻まれていた。

 だが、それは夢でしかなく、普段のマリアなら冷静でいられた。

 けれど、今日という大事な日にそれは突然牙を剥いた。

 

 透けて見えてしまうような頼りない夜着、ぼかされて伝えられた夫となる方に全て委ねて逆らってはいけないという初夜についてのこと、それらが醜い顔で嘲笑うリチャードの顔と一緒になって頭の中に渦巻く。

 抵抗できず、ただ声もなく泣くことしか出来なかった惨めで弱かった幼い自分が、その恐怖が、マリアの心を食い荒らした。


「消えて! 違う! 私はもう無力だった小さな子供じゃない!」


 小さく悲鳴を上げて頭の中から恐怖を追い出そうとする。

 逃げてしまいたい衝動を押し殺して、両手を握り締めた。

 逃げたら負けだ、今度は舐められないように上手くやればいい。

 そうだ、そう決意したではないか。

 主導権は自分にあると、しっかり婿殿に突きつければいい。

 怖がることなんて、何もない。

 負けるものかと自らを鼓舞し、寝室に入って来た婿殿を睨みつけた。




 ……そしてその悲壮な決意は、あっさり婿殿によって覆されたのだった。

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