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生地を選び終わった後で、今度は夜会用と昼のお茶会用のドレスが描かれたプレートをいくつも並べられた。既に別の仕立て屋に発注済みであったが、参考までにということでいくつか選び、あれこれ好みを付け加える。
そうしておいて、ようやく本題に入った。
「大変ありがたいことですが、伯爵様からはお嬢様の婚礼衣装も是非にと承っております。準備は早いうちにしておくに越したことはございません。お使いになるレースはもう準備されているということですので、それに相応しいドレスをいくつかご提案させて頂きます」
いかにも職人といった実直そうな仕立て屋に促されて、示されたプレートを吟味する。どれもどちらかといえば装飾の少ないシンプルなデザインだった。どれもマリアの好みから外れるものではなかったが、決め手に迷う違いでもあった。
仕立て屋が言ったように、婚礼衣装で譲れない点はレースについてのみだ。
ヴェールは既に出来上がっていて、ヴェールに使われたレースと揃いで作られたドレス用のレースの一揃いがあるから、それを使うこと。
それらはボーダル男爵が手配したものだ。ニードルレースで有名な修道院に多額の寄付をした上で、他の高位貴族の注文を優先されても間に合うようにとマリアが生まれてすぐ発注したという。
ニードルレースは全てが熟練の手作業で仕上げられるため、とても時間が掛かる。婚礼衣装に使う一揃いをと思ったなら、数年、状況によっては十年ほどは覚悟しなければならない。
当主の妻になる場合、婚礼衣装はそれ相応の格が求められる。多くの場合、母親が自分が受け継いだものを修繕し、新しく追加し、あるいは仕立て直して娘に贈る。刺繍やレースは良いものなら宝石にも比肩する財産であり、格式高い婚礼衣装を一から仕立てるのは莫大な費用が掛かった。
特にレースを多用した婚礼衣装は約二百年前に国交を開く証として中央大陸から嫁いでこられたセラフィン王女が持ち込んだ文化で、その絢爛たるレースは瞬く間に国内の貴族を魅了した。それまでは古代語で祝福を込めた刺繍を中心に鮮やかな色とりどりの模様を代々重ねていくのが習わしだったが、一気に中央大陸風の婚礼衣装が流行った。神殿との関係の深さにもよるが、上級貴族に属する伯爵以上の爵位を持つ家では刺繍よりもレースを多用するのが昨今の常であるので、男爵もその例に倣ったのである。
マリアの場合、母親から受け継ぐべき格式のある婚礼衣装がなかった。マリアの母親が結婚するときにはまだ祖父が貴族社会に疎いところがあり、満足な婚礼衣装が準備できなかった。だからこの婚礼用のレース一式は新しく誂える上で最高のものをと考えた祖父の執念でもある。
もちろん、マリアも仕上がったレースは既に目にしており、その素晴らしさに感動した日のことは良く覚えている。だからこそそれを使って仕立てる婚礼衣装には妥協はしたくなかったが、配置するべきレースの場所などを考えれば考えるほど分からなくなってきて、最終的にマリアは丸投げすることになった。
刺繍なども図案通りに完成させるのは得意だが、自由に作れと言われると途端にどうしたら良いか分からなくなるのがマリアであった。詩も暗誦は得意だったが、作詩は四苦八苦した挙句になんとか無難なものが出来上がるという苦手ぶりだ。
要するに創作に関してはマリアに才能はあまり無かった。
それゆえ婚礼用のドレスは、そのヴェールが最も映え、尚且つ用意されたレース一式が主役になるようなものをと、相手の技量にほとんど委ねてしまった。王家とも取引のある腕利きの仕立て屋なのだから、結果的にそれが一番納得のいくドレスになるのだと自分自身を納得させて。
婚礼衣装を通してではあったが、結婚について初めてマリアが具体的に意識したのはこの時だろう。
相手についてマリアが知っているのは、王家の血を引くということ。正式に婚約が整ったのはつい最近(祖父が本格的に取引を開始すると言った三ヶ月後がちょうど今だ)だろうということ。
父である伯爵が、デビュー前にマリアの婚約が決まらなければ、親族から婿を選ぶと正式に通達したことを受け、デビューとほぼ同時に結婚になるだろうということ。
王家に泥を塗る馬鹿は流石にいないと思いたいので、直前まで秘密にしなくても、とマリアは思ったが、すぐにその考えを甘いと切り捨てた。
全く姿の見えない婿殿に不安になって、甘いことを考えてはいけない。
馬鹿は常識では計り知れないから馬鹿なのである。
そんな時期に、マリアに新しい変化が訪れていた。それは同年代のご令嬢との文通である。
半ば強制的に箱入り娘に育てられたマリアは、他家のお茶会などに参加したことは殆どない。ごくごく幼い頃は何度か伯爵に連れられて親族以外の家でのお茶会に行ったことがあるが、これは家庭教師を得るための一環であったように思う。
それには表には出せない理由があった。
ボーダル男爵の協力もあって息を吹き返した伯爵家に再び親族達が擦り寄ってきたのは、マリアが五歳前後の頃であった。
マリアには知らされていないが、この頃マリアの母であるローズに毒が盛られたことがあった。命に関わるような事態にはならなかったが、狙われたのはローズだけではなくマリアもで、こちらは未遂に終わったが由々しきことには変わりなかった。
ローズを亡き者にして後妻の座を狙う者、邪魔な嫡出子であるマリアを排除しようとする者。そういった悍ましい企みが親族の中に渦巻いていたのだ。
彼らは下賎な血の女や、その血を半分引く幼子を殺めることに罪悪感など覚えない。むしろ駆除してやるから感謝して欲しいとさえ伯爵に暗に仄めかす始末だった。
ところが男爵は娘と孫娘の命を守るために、爵位も含めて男爵家の相続人に孫娘マリアを指定した。正確には孫娘の血を引く男子になる。もし孫娘が子供を得られないまま死亡した場合は、全ての財産を国家に委ねるという遺言状を王宮に提出したことを伯爵を通して親族らに公表した。
これを受けてまずローズを亡き者にして後妻に入る旨味が色褪せ、ローズが標的から外れた。
マリアの婿に狙いが集中したのである。
マリアの婿として家督を継ぎ、マリアとの間に子さえ作れば男爵の莫大な財産が転がり込む。自身が相続しなくとも、子が継いだ後なら親としてその恩恵を受けることは十分に期待されたし、そのように教育すれば良い。
そう目論んだのだ。
こうしてマリアの命の危険はなくなったが、今度は意図的に傷物にされて婚約をごり押しされる危険が生じたため、伯爵は娘を疎んでいるように見せかけて頑として親族の息がかかったお茶会に娘を同伴することを拒んだ。
この場合の傷物とは純潔に関してではなく、身体的な障害の方である。例えば痕が残るような顔の傷、歩行に障害が出るような足への怪我など。女としての価値を下げて責任を取る形での婚約を狙うのだ。
謀殺さえ躊躇わない彼らが、その程度の非道を企まないわけがなかった。
そのためマリアが同年代の同性と知り合う機会は無かった。デビュー前の娘が出席できるお茶会は、親族関係、もしくは両親の個人的な交友関係にほぼ限られるからだ。
つまり今回祖父から紹介された文通相手のご令嬢は、初めてのマリアの友人候補ということになる。
薔薇の取引で知遇を得た子爵家のご令嬢で、親しくなっておけば社交界でお前の助けになるだろう。
そのような祖父からの手紙と共に、ラフ子爵令嬢からの初めての便りが届いた。
彼女からの手紙は少々変わっていた。とはいえ、実際に手紙で同年代の同性と手紙を交わすのは初めてで、これが本当に変わっているのかどうかマリアには判断がつかなくもあった。
「親愛なるレディ・マリア・デルフィーネ様
緑が色鮮やかに目に映るこの季節に、初めてお便りを致します。
燦々と降り注ぐ太陽に向かい、無邪気にのびのびと枝を伸ばす若木を眺めていますと、普段からのんびり屋と言われておりますわたくしも、少し焦りを感じてしまいますわ。理由もなく、なんとなく気が急いてしまいますの。
ボーダル男爵にはわたくしの兄が大変お世話になり、同じ年頃の孫娘様がいらっしゃると聞き及びまして、いささか唐突ではありますが心の赴くままに筆を取った次第です。
わたくしは既に社交界デビューをいたしましたが、恥ずかしながら女性のお友達と呼べる方がおりませんの。
わたくしを助けるお気持ちで、これを機会に親しくしていただければ嬉しく思いますわ。
いつまでものんびりとして、家族に心配をかけるのもいけませんし、ここは立派な淑女となれるよう気持ちを切り替えて行こうと日々精進しております。
お噂によると、マリア様は大変淑女として優れた美しい方だとか。憧れますわ。
わたくしは見た目がどうも少し間延びしておりまして、性格に合っていると言われてしまえばその通りなのですが、きらびやかな社交界ではどうにも気が引けてしまいますの。きっと社交界でマリア様に出会いましても気後れしてしまいますわ。気の弱いことと、お笑いになるかしら?
けれどこうしてお手紙でなら、わたくしも少しばかり気を大きく持てますのよ。ですから正直に言いますわ。
わたくしは目と目の間が少し離れていて、鼻先が丸くて、口が大きいのです。
兄はアホロートルという名前のサンショウウオにそっくりだとおっしゃるのだけれど、勇気がなくて図鑑で探したことはありませんの。
でも、こんな見た目ですけれど両親譲りの金髪碧眼は少しだけ自慢ですのよ。
マリア様は緑の瞳と柔らかな栗色の髪とお聞きしております。優しい色合いで、きっとお会いしたら初夏の森の小道を思い出すのではないかしらと想像しておりますの。
ところで、気持ちを切り替えるのに部屋の模様替えなどは有効だとわたくしは考えているのですけれど、どう思われますかしら。
赤のチューリップの模様の入った壁紙は、淑女としては子供っぽいと思うのです。カーテンもそれに合わせて明るい黄色で、どれも好きな色ではあるのですけれども。
マリア様でしたら、どのようなお部屋がお好きですか?
参考までにお聞かせくださったら嬉しいわ。
あなたの誠実なる友になりたい エペローナ・ラフより」
体裁としては、特に問題もない。ただ、何と無く奇妙な感じのする手紙の文面をマリアは何度も読み返した。内容は確かに少しばかり突飛である。
普通は自身の容姿について初めての手紙でこのように赤裸々に書くものだろうかという疑問に思い、また淑女として気持ちを切り替えるための手段が模様替えという思考の飛躍に驚き、マリアには無い思考回路だと若干引いた。
もっともらしい理由を並べてはいるが、マリアにはどれもこれも年上の女性の言葉とは思えなかった。普通淑女として精進しようと思えば、まずは礼儀作法や教養を深めるための勉強だろう。確かに、手紙に書かれた内装が子供っぽいのは否定できないが。大人っぽい内装に改装して、それで満足してしまいそうな気配さえ漂っている気がする。
そして何より、奇妙な感じがする原因は文面から感じる距離感である。
近い。
端的に言ってマリアの受けた印象はその一言に尽きた。
内容的にはこれから友人になれたら嬉しいといった感じなのだが、既に友人であるかのような近すぎる距離感を感じるのだ。
ともあれ、祖父が繋いでくれた縁であればしっかりと結ばなければならない。
返事を書くにあたって、マリアはまずは名前に注目した。
明らかに偽名である。祖父の話では子爵家のご令嬢だと言うが、ラフという名の子爵は存在しない。貴族年鑑を全て暗記しているから確かめるまでもないことだ。
祖父が薔薇の取引を通じて知り合った子爵ということなら、恐らくはマリアの婚約者の関係者なのだろう。もしかしたら兄というのがマリアの婿で、エペローナは妹であるとか。
もしそうであれば、この唐突さは理解できる。婚約を秘密にしているのだから、直接相手と手紙をやりとりすることも、会って話をすることも出来ない。親族の年の近い女性を身代わりに立てて、間接的に交流を試みるというのは特に奇妙なことでもないように思われた。
距離感が近いと言っても、悪い感じではない。逆にマリアに対する好意的な感情が読み取れる。
婚約者の家族なら、マリアの事情を知っていて偽名を使うのも頷ける。
何より、マリアにとってもエペローナは初めてのお友達有力候補なのだ。男嫌いをこじらせているマリアにとっては、まだ見も知らぬ、名前すら知らぬ婚約者よりも、多少奇妙で突飛でもエペローナの方がずっと心が高鳴る存在であった。
そういうわけで、婿と思われるエペローナの兄についても適当に話題に出しつつ、マリアは真剣にエペローナの質問に答えた。文通を続けるうち、エペローナという可愛い義理の妹ができることの方が結婚そのものよりも大事になってしまうまで、そう時間は掛からなかったのだ。
何しろ文面からも隠しようもなく溢れ出るマリアに対する好意と関心は、マリアが他人からマリア個人として受け取る初めての好ましい反応だったのだから、好きになるなと言う方が無理である。
余談だが、エペローナというのは社交の一環以上に観劇を愛好する貴族でも、しばらく思い出すのに時間を要するマイナーな喜劇の主役の名前である。未だ領地の屋敷から出たことがない、王都未経験のマリアが知るはずもなかった。
家庭教師たちもまた、芸術性の高い教養としての舞台劇については教えていたが、雑学に分類されるこの手の知識をマリアに教えてはいなかった。
ところで偽装の文通において重要な鍵となるのが、家宰のクリス・ガーナーだ。伯爵家の健全なる存続を第一に掲げる彼にとって、もちろん誰がマリアの婿になるかというのは重要な関心ごとであった。
性格はともかく、現時点で能力的にリチャードが他の候補よりはマシであることは確かだった。カチェリナが常にマリアについていることもあり、望ましく無い事態が起こることはないという判断で、ジャネスの勝手も黙認してきた。
それがここにきて最大の転機を迎えることとなった。
既にマリアの婚約が成立し、その相手が随分と血筋の良い御仁だと聞いたときにはまさかと疑いもした。だが、正式な届け出が王家に出されたとなっては疑うことすら不敬である。
諸々の事情により親族には騙し討ちのような状況になるが、結婚当日まで決してそのことは漏らさぬようにすること、そしてその状況下でお茶会と現在は銘打っている結婚式の準備をすること。
それが当主からクリスに言い渡された仕事だ。
久々に背筋の伸びる緊張感に満ちた仕事だとクリスは張り切った。事実上女主人が不在である伯爵家は、ごく身内の集まり以外の催しが絶えて久しい。
さて、マリアの結婚の裏事情に伴い、男爵経由でマリア宛に偽名の信書が届くこととなった。女性名を騙ったマリアの婚約者からの手紙である。貴族家では、未婚の年頃の娘に届く私信については非常に監視の目が厳しい。通常の手順で届く場合、家宰の目を潜り抜けるのはまず無理である。明らかに偽名である私信を通すことなど、まず有り得ない。偽名が必要なのは、事情を知らない他の使用人の目に留まった時のためである。
ボーダル男爵経由でも問題なくマリアの手元に届く時点で家宰がこちら側であることは確定なのだが、そこまで察するのはマリアにはまだ無理だった。未婚の若い娘である彼女が知る必要のない知識だからだ。
察するべきは、婿殿の方であった。マリアと違っていい大人であるし、元家宰のロウィーの仕事ぶりをよく知っているはずなのだから、察して当然である。
婿殿以外、偽名は封書のみで中身については普通に書かれているものと誰もが思っていた。
まさか、うっかり舞い上がって脳みそが花畑になった婿殿が本気で女を装って文通をしているとは誰も考えなかったのだ。
レース:隙間のある装飾的な布
ニードルレース:刺繍の技法を使ったレース。刺繍した土台の布地を取り去って刺繍部分だけを残した。草花などをモチーフにした絵画的で精緻な模様が美しい。
以下ざっくりな雑学知識。
貴族女性が女性らしい趣味として身につけたレースの教養は、タティングレースと呼ばれる『結び』の技法を発展させたもの。結びの技法はロープ結びなど古代から続く実用的な技術で、ネクタイのルーツでもある。
タティングレースの基本的な技術は16世紀ごろに確立されたと言われている。
従来のものよりも大掛かりな道具を必要とせず、シャトルト呼ばれる小さな糸巻きがあれば出来るという習得しやすい手軽に出来るものであったために貴族女性に17〜18世紀に普及した。
だが、いわゆる宮廷文化華やかなりしヨーロッパの貴族社会で人気を誇ったのは、より複雑で熟練の技術を必要としたヴェネツィアンレースの系統だ。
既に中世は終焉を迎え、近世に入った16世紀頃にヴェネツィアの刺繍職人が発明したレティセラが王侯貴族の身を飾った特別なレースの最初の例である。レティセラの元になったドロンワークやカットワークは7世紀ごろから寝具や僧服などに使われており、主に幾何学模様のレースだった。レティセラから更に発展し、17世紀に草花などを自由に絵画的に描き出せるニードルレースの技術が発明されると、ヴェネツィアンレースとしてヨーロッパ各地に輸出され、王侯貴族に熱狂的に愛された。
ヴェネツィアンレースで最も成功したのはポワン・ド・ヴニーズ。ググってみれば画像がいっぱい出てくるはず。これを人間が全部手で作ったのかと思うと筆者は感動して震えました。
これとは別に、ニードルレースに刺激を受けて発展したボビンレースの系統がある。
ボビンと呼ばれる糸巻きを使う織りの技法を用いたレースで、家庭内の手仕事として広く庶民にも定着していたが、高価なニードルレースをボビンレースで模倣できないか試行錯誤する中で洗練されていった。
ニードルレースと並んでアンティークレースの二大巨頭。
これらのレースは糸の宝石と呼ばれ、莫大な富を生み出した。
当時の王侯貴族の肖像画に描かれるレースは、ほとんどがこれらのレースである。




