#92 『ユエル・イグレイン』
「……どうぞ?」
扉をノックしてから、少しの間を置いてから聞こえてきた教官の声。俺は黙って扉を開く。
「シファ……どうしたの?」
机に向かって座ったまま、教官は首を傾げている。右手にペンを握っている所を見ると……どうやら仕事中だったらしい。
「もう教練は終わったわよ? 貴方が訓練所に残っている意味も理由も……無い筈だけど」
教室で、俺達が教官と別れてからは、もうそれなりの時間が経っている。
他に訓練所に残っている者はいない。教官も、まさか今更俺がやって来るとは思っていなかったのかも知れない。
だけど、俺は教官にちゃんと礼を言わなければ帰れない。
「え……えっと、忘れ物?」
「…………」
しかし、いざこうして顔を合わせてみると、思っていた言葉は素直に喉から出てこない。
教官は、目を細めてジッとこちらを見つめている。
「忘れ物って……あなた、私の部屋に来る時はいつも手ぶらでしょ? 今朝もそうだったでしょ?」
確かに。
「…………」
「…………」
何故か、俺は話すことが出来ないでいた。
そんな俺を、教官は心配そうな表情で見つめてくれる。
訓練生であった俺の面倒を、姉から頼まれた女性。
鋭い目付きではあるものの、その実……優しい人だ。面倒見が良く、料理に家事を完璧にこなす"超"級冒険者――ユエル・イグレイン。
1年間、共に過ごした。
今更彼女に対して遠慮することなんて何もない。なのに何故、言葉が出てこないのか――それは、少し考えれば分かることだった。
別に恥ずかしいとか、照れているとかではない。
ただ単に、寂しいだけだ。
感謝の言葉を伝えれば、俺が訓練所に残っている理由を失くしてしまう。
どうやら俺は、教官と別れるための心の準備が、まだ出来ていないらしい。
――なんとも情けない話だ。
自分で自分が笑えてしまう。
「……はぁ、そんなところで立ってないで、座ったら?」
呆れながら促されて、更に部屋の中へと足を踏み入れる。
俺が座るのを待たずして、教官は動かしていた手を止めて立ち上がった。
「珈琲、飲むでしょ? いれてあげるわ」
「お構い無く……」
「ほんとどうしたの? あなた」
あまりにも他人行儀な俺に、流石の教官も困惑気味。
待つこと少し。俺の目の前にコトリと置かれるカップ。毎朝飲んでいた珈琲だ。
教官も、自分のカップを片手に俺と対面する形で腰を下ろした。
カップを口に運び、珈琲を一口含む。
今更言うまでもない味が、口いっぱいに広がっていく。うん、美味い。
飲みながらチラリと、視線だけで教官の様子を窺ってみると――
――教官は少し笑いながら俺のことを観察していた。
「教官……」
カップを置いてから、意を決して言葉にすることにした。
ただただ、感謝を。
伝えなければ、伝わらない。
「今日までの約1年間、本当に……ありがとうございました」
収納魔法と……武器を振り回すことしか取り柄の無い俺。
そんな俺の面倒を見てくれた。というだけじゃなく、数え切れない程の恩に対する礼だ。
座ったままではあるが、深く頭を下げる。額が机に触れる程に。
「……ったく、そんなことだろうと……思っていたわ」
教官は、声を震わせていた。
頭を伏せているので、今の教官の表情は分からない。
もしかして――
「もしかして教官、泣い――」
頭を上げようとしたが、びくとも上がらない。
「貴方、感謝の気持ちが足りないんじゃない?」
どうやら、物凄い力で押さえつけられてしまっているようだ。
~
「ふぅ……」
いつも以上に、ゆっくりと飲んでいたつもりだったが――
とうとうカップの中身は空になってしまった。
教官へ感謝を伝えることも出来たし、珈琲も飲み終えてしまった。
本当に、ここに居座る理由が失くなった。
流石に、踏ん切りをつけた方が良さそうだ。
立ち上がろうとした、その時――
「し、シファ! おかわり、いれてあげましょうか?」
「え?」
「貴方、珈琲好きでしょ?」
珍しく慌てた様子だ。
もしかして、教官も寂しいなんて思ってくれているのだろうか。
俺も出来れば、もう少しだけここで教官と話をしていたい。そう思うが――
「いや、いいよ。もう行くよ」
――それをすれば、いつまでも立ち上がれない気がした。
「…………」
教官の申し出をキッパリと断りながら、俺はその場で立ち上がる。
「じゃぁシファ、最後にひとつだけいいかしら」
少し遅れて立ち上がる教官。
「冒険者証、持っているでしょ? 貸して」
「え? 冒険者証?」
まぁ当然持ってはいる。
今日、少し前にもらったからな。同意書に名前を書いた訓練生は皆、このユエル教官から手渡されている筈だ。勿論俺もだ。
ポケットから取り出して、手渡した。
「加工してあげるわ。何がいい? 腕輪? それともやはり、お姉さんと同じ首輪にしておく?」
「おお!」
なるほど。そういうことか。
冒険者であることの証明と、等級を表す冒険者証。冒険者は、肌身離さずソレを持っていなければならない。
姉も確かに首輪として身に付けていたな。
「そんなに時間はかからないわよ?」
バッジのままで持っておくより、装飾品として身に付けていた方が何かと便利か……。
姉と同じ首輪にするのも悪くはないが……。
「ちなみに教官は、どんな形にしてるんだ?」
そう言えば、教官の冒険者証を見たことがない気がする。
改めて探してみるが、手首にも腕にも、それは見当たらない。
「私? 私は……」
すると教官は――パチ――パチ、と胸元のボタンを数個外していく。
隠されていた魅力的な肌と、思わず見惚れてしまう谷間が僅かに覗き見える。
カルディア生誕祭の時にも思ったが、教官はかなり着痩せするタイプだ。
そして、服の下から出てきたものは――首飾りだった。
四角形の紋章が刻まれた首飾り。間違いなく冒険者証で、"超"級冒険者であることを証明する紋章。
首飾りか……。
「出来るのなら、俺も教官と同じ形にして欲しいな」
「……ええ。任せておきなさい。少し待ってちょうだいね」
教官は笑いながら、部屋の奥へと下がっていった。
~
本当に少しの時間だった。
どうやら多少の魔法を使用して加工したらしく、それほど待たずして首飾りは完成した。
少し首のあたりがこそばゆいが、その内慣れるだろう。
「まぁ、似合ってるんじゃない?」
と、教官はかなり満足した様子だ。
俺達は扉の前で、互いに向かい合って立っている。
これで本当にお別れだ。
と言っても勿論、会えなくなる訳ではない。
「教官は、これからも"教官"を続けるのか?」
「さぁ? どうかしらね。次は違う冒険者が指名されるかも知れないし、また私に依頼が来るかも知れない」
ふと思った疑問を俺が口にすると、教官は答えてくれる。
「私は貴方達にとっては"教官"だったけど、私は"冒険者"よ。貴方達と同じ……ね」
そう。俺達は同じ冒険者だ。なら当然、その内再会する。絶対に。
俺達は互いに、確信している。
そして最後に――
「教官、渡しておきたい物があるんだよ」
「――?」
俺が手を伸ばした先に出現した魔法陣。
いきなり収納魔法を使ったことで、教官はキョトンとしていた。
「実は……生誕祭を一緒にまわったあの日、買っておいたんだよ」
「――え」
驚いてる驚いてる。
収納から取り出した小箱。
丁寧に包装された小箱の登場に、目を丸くしていた。
「こ、これは?」
「マグカップ。ちなみに俺も同じ物の色違いを持ってるから」
生誕祭の2日目に買っておいた物だ。
いつか来ると分かっていた今日のこの瞬間のために用意しておいた。
俺も使うのをずっと我慢していたのだ。
「また機会があったら、これで教官の珈琲……ご馳走してくれよ」
「…………」
目をパチクリさせる教官。
そして……可笑しそうに笑うのだった。
「ちょ、シファ……流石にこれは反則よ……。本当に……」
反則でもなんでも、喜んでくれているようで何よりだ。
「えぇ……分かったわ。大切に使わせてもらうわ……ありがと」
大切そうに小箱を抱えてくれる教官の姿を見て、俺も嬉しくなる。
「それじゃ、俺も行くから」
勇気をふりしぼり、そう口にして――俺は扉に手をかけた。
後ろ髪を引かれる思いで、扉を押し開き――
「えぇ。またね」
という教官の言葉を聞きながら、俺は部屋を後にしたのだった。
~
訓練所を出て、外に出た。
まだ日は高い時間。西大通りは多くの人が行き交っている。
後ろを振り返り、顔を上げると――
『冒険者訓練所』そうデカデカと書かれた看板を掲げる大きな建物が目に入る。
姉に連れて来られた時は、本気で間違えたんじゃないかと思ったが……やはり、我が姉の言うことはいつも正しく、いつも俺のことを想ってのことだった。
ふと、視線を下げてみた。
日の光でキラリと光る首飾りには、一本線が刻まれている。
ついつい、笑みがこぼれてしまう。
――さて、帰るか。
いつもの日常が終わり、やって来るのは……また違う日常だ。
明日からの俺のいつもの日常は……冒険者としての日常なのだ。
歩き出し、俺の目に映る西大通りはユエルが言ったように……本当に少しだけ、違って見えるのは――
――俺が今日、冒険者になったからだ。
~冒険者訓練所編 完~
姉に言われるがままに特訓をしていたら、とんでもない強さになっていた弟~やがて最強の姉を超える~
を、ここまで読んでくれた方々、本当にありがとうございます。
この物語がここまで続けられているのは間違いなく、皆様のおかげです。
今回の話で、物語の第1章となる『冒険者訓練所編』が完結しました。
ですが勿論、物語自体はまだまだ続きますので、この後も引き続きの応援を是非、よろしくお願いします!
そして最後に
あなたのその評価も、よろしくお願いします!




